第10話
「昼食はどうするの?」
ヨゾラ曰く宿泊客は昼食のたびにここに戻ってくる人が大半だと言う。
何せ、ぱっと見て分かるようなチェーン店が一軒もない。この島にはコンビニもなく、街の中心部にスーパーと山の向こうに商店が一つあるだけだと言う。
ビーチ付近には飲食店があるが、暇な時期は営業は気まぐれだったり、そもそもピークタイムの間の休憩時間が長めで、たまに食べ物を求めて右往左往する観光客の姿を見かけるらしい。
「五百円プラスで弁当か食堂で昼食を出すサービスをお付けします」
僕はその提案を受け入れた。この民宿にあるオプションのうちの一つと言う事だ。
「今日のご予定は?」
「特にないけれど、海を見に行こうかと」
「それしかないね」
空のペットボトルお茶を入れてもらう。ゴミ処理のキャパシティが少ないから、できるだけエコロジーを心がけよ──と言われ、滞在中はペットボトルも大事に扱うことにする。
「中身なに?」
「さんぴん茶」
なんだか特別な響きだが、つまるところ中身はジャスミン茶らしい。しかし郷に入っては郷に従え。僕はこれを特別な沖縄の飲み物として心にとどめておく頃にする。
「昼までには戻ってきなよ」
ヨゾラの物言いはとても昨日知り合ったとは思えなかった。いくら僕が家出少年とは言え、限度がある──そう思いながらも、彼女にそう扱われて嬉しいと思っている自分がいる。
昨日買ったばかりのオレンジの『ギョサン』を履き、同じくお土産コーナーで買った観光客丸出しのTシャツに身を包むとまるで自分が熱帯魚になったかのような気持ちになる。
──スマートフォンの電源は入れない。今頃東京の家は大騒ぎになっているだろうなと思いながらも、まだ現実と向き合うのは嫌だった。
民宿の入り口を出てガレージを抜けると、昨日のおじさん──ここの主人で、つまりはヨゾラの父だけれど──がすでに店頭に立っていた。
とは言ってもビール瓶のケースに座布団を敷いたものを椅子にして、腕組みをしながら道路を見つめているだけ──と言えばそれまでかもしれない。仕事がない人にも見えるし、ある意味その姿は哲学者のようでもある。
「おはよう。何かレンタルする?」
おじさんは振り向いてにかっと笑った。
「どうしようかと。一番近い海岸まで歩いていけますかね」
おじさんは港のすぐそばに小さな海岸があると言った。メインのビーチは山を越えた反対側にあるらしいが今はそこまで行くつもりはない。できる限り節約はしたいし、なにより時間はありあまるほどあった。
「大丈夫だよ。今日は涼しいからね」
出発しようとすると、引き留められる。僕の履いている真新しい樹脂製のサンダルはパーツのつなぎ目の部分に筋があり、慣れていて足の皮が厚くなっていれば何てことはないが、カッターで削って表面をなめらかにしておいた方が指を痛めなくてすむだろう、と手早く加工してくれた。
この状況で足が靴擦れになるのは避けたい。おじさんに感謝し、民宿を出て昨日と同じ坂を下っていく。
生あたたかい風が吹き付けた。真夏でもなく、秋でもない中途半端な──いわゆる残暑だ。
夏休みは終わり、同級生たちは学校で秋へと向かっているのに、僕は未だ夏にとどまっている。それが愉快でもあり、恐ろしくもある。僕は心の中のチリチリと心臓をあぶるような痛みから逃れるために、速足で歩みを進める。
そうすると、すぐに波の音が近づいてくる。ずっと海の音がするのは妙な感じだった。
やがて見覚えのある小さな港に辿り着く。昨日と変わらず閑散としていて、人間より船と車の数の方が多いぐらいだ。よくよく目を凝らすと港よろしく何匹かの猫が転がっている。
島の中心部には一軒だけスーパーがあると聞いたが、ここからは確認することができなかった。おそらくもっと奥まった所にあるのだろう。
作業している船の横を通りぬけると、確かに小さな砂浜があった。観光スポットではなく、わざわざ名前をつけるほどでもないサイズの小さなで、僕の他には誰もいない。
海は静かに凪いでいて、どこまでも広がっている。
砕けた貝や海藻、流木、漂着したペットボトルを踏み越えて波打ち際に近づく。
──足元の砂が白い。
沖縄は珊瑚の島だ。貝殻や珊瑚の死骸が石灰──白い砂となって堆積し、それがレフ板のように太陽の光を反射している。だから遠浅の海はどこまでもエメラルドグリーンなのだ。
誰から聞いたかのかはわからない。しかし、その知識は沖縄にやってくる前から確かに僕の中にあった。それはきっと、両親が僕に与えてくれた知識の一つなのだろう。
サンダルのまま海へと一歩踏み出す。細かい泡をまとった波が僕の足を巻き込み、そして引いていく。指の間にはまるで爪痕のように、砂の筋が残された。
ふたたび波が僕の足をさらう。今度は少し大きい。そのまま、寄せては返す海水の動きに、僕はただされるがままになる。
じっと水面を見つめていると何か不思議な気分だ。海であるのに、濁りのない透明な水はまるで渇いた喉を潤してくれるのではないか、そんな気さえしてくる。
あるいはやはりこの海は作りもので、VRの世界なのではないか。そんな妄想にとらわれ、指を付けてひとしずく、ぺろりと舐めてみる。
「しょっぱい!!」
その瞬間、塩辛さが味蕾を直撃し、思わず大きなひとりごとを叫んでしまう。
なんてバカな事をしたのかと慌てて辺りを見渡すが、さすがに誰もいないようでほっと胸をなで下ろす。
──感傷的な気分で、頭がどうにかしていたに違いない。
木陰で水分を補給しようと、名も知らぬ木の下にペラペラのリュックをクッション代わりにして座り込む。まるで秘密基地のようだ。
ペットボトルに入っていたお茶はあっと言う間に減ってしまった。この調子だとあまり遠くへは行けない。喉の渇きを抱えながら島をさまようなんて、想像しただけで恐ろしい。
「何をしようか?」
呟きは波の音に紛れた。ただ、白く泡立ちながら寄せては返す海を眺めるだけだ。
木の幹にもたれかかり、ゆっくりとまぶたを閉じる。さざなみの音と、海鳥の鳴き声に耳を傾ける。海の近くに住んだこともないのに、どうして気持ちが落ち着くのだろう──と考えて、単純に家にあったリラクゼーションBGMの音にそっくりなのだと気が付いて、僕は少し笑った。
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