第9話

「私はあなたのためにこんなに頑張っているのに。どうしてあなたはそうなの」


 これは夢だとはっきり分かる。今の母さんよりずっと若い声だから。


 僕たちの関係について、最初から最後まで僕が悪いのは一貫している。何しろ僕がもっと有能だったならばこんな事態にはならなかったのだから。


「ただでさえ遅れているのに、そんな所で遊んでいる暇があると思っているの?」


 うるさいよ──と動かない手を振り払おうとした瞬間に、はっと目が覚めた。


 嫌な夢だった。喉が渇いている。エアコンを付けずに眠っていたために軽い脱水症状を起こしているのかもしれない。


 悪夢は寝苦しさのせいだろう──そう信じたかった。立ち上がり、カーテンに手をかける。朝は太陽の光を浴びること──それもまた一家のルールだ。


 目の前が水色だったので、僕は言葉を失った。


 写真を切り取って窓枠にはめた。もしくはCGで景色が再現されている──そう言われると、信じてしまいそうなほどの鮮やかな色だった。


 昨日の曇り空とはうって変わって、抜けるような青空。どこを見渡してもビルの影なんてありはしない。


 ──信じられない。


 僕にとっての『沖縄の海』のイメージは最高の環境と機材で撮影され、そして補整された後の最大値を見せられているのであって、本物はそこまでではないだろうと正直侮っていた。


 ところがどうだろう、イメージそのままの、いやむしろそれ以上の世界がここにあるのだ。


 あわてて階段を駆け下りる。食堂からも海が見えるはずだ。転がり落ちるように駆け込むと、のれんの奥からじゅうじゅうと油のはねる音がする。ヨゾラが居るのだ。


「ね、ねえっ」

「ん? どーした?」


 ヨゾラはまったくこの異常事態に気がついていないみたいで、キッチンの奥から顔を出した。


「海……」

「海? が何?」

「やばい……」


 ヨゾラは訝しげな顔で僕に近寄り、窓から見える海を眺めた。


「普通じゃん」

「すごく綺麗。……これ、普通なの?」

「ふーん。良かったね。もう朝ご飯出していい?」


 ヨゾラの反応は日差しとは裏腹に冷淡だ。彼女にとっては日常でさしたる感動もないのだろうと、おとなしく食卓につく。


 朝食は目玉焼きにハム、油揚げの味噌汁、白米、漬物。昨夜に引き続き落ち着くと言えば落ち着くし、意外性がないと言えばなかった。


「もしかして、朝食からゴーヤーチャンプルとかドラゴンフルーツ食べてるとか思ってる?」


 僕は慌てて首を振った。予想より日本的だったと言うだけで、別に否定しているわけでもない。


「いただきます」

「それ、昨日も言ってた。今時珍しいね」


 これも幼少期から染み付いている習慣だ。家はおろか、外食だろうがお弁当だろうが、僕はこの儀式をしないとご飯を食べてはいけないような、これをないがしろにするとバチが当たりそうな……そんな気分になるのだった。


「癖みたいなもの」

「いいじゃん、ちゃんとしてそうで」


 あくまで『ちゃんとしてそう』であり、実際の僕はまったくちゃんとしていないはみ出しものなのだが、たしかに外面の良さは重要だと父さんも言っていた。


 そう言うヨゾラは椅子の上で体育座りをしてテレビを見ていて、たしかにお行儀はよろしくなかった。


 しかしその状態で食事をしているわけでもなし、ポスターの様な海の風景をバックにした彫りの深い横顔は僕をわくわくさせるのに十分だった。


「あ」


 突然ヨゾラがこちらを向いたので、ガタリと不自然に椅子が動いた。


「宿泊代金をお願いします」


 そういえば、初日は前金と言われていながら、まだ支払いを済ませていなかった──と今更ながらに思い出す。二階の自室へ戻り現金の入ったポーチを引っ張り出す。


「ええと、一万円から」


 ヨゾラに一万円を渡すと、彼女は顔をしかめていた。理由が分からずに視線をあちこちに彷徨わせていると、彼女はゆっくりと口を開いた。


「そのお金……悪い事をしたお金じゃないよね?」


 そんな事を思われていたのかと、僕はびっくりして手に持っていたポーチを落としてしまった。


「え、いや、違う……僕名義の……お年玉貯金」


 ヨゾラはどうやら女の勘のようなもので僕の言葉の信憑性を判断できるらしく、それに関してはすんなり納得してもらう事ができた。


「貯金か。けっこう額が大きそうに見えたから、どこかからくすねてきたのかと思った。ごめん」

「いや。普通に考えたらそうなるよね」


 そう。たとえ一ヶ月生活できない額だとしても、高校生が持ち運ぶには大きな金額、それが三十万と言う金額の重みだった。


 この二十四時間のあいだに、おおよそ二割の金額が吹き飛んだ。いつまでもここに居られるわけではないと、お札の中の福沢諭吉が僕をたしなめているようにすら思えてくる。


「置き引きなんてめったに起きないけど、金庫にしまっておいてあげようか」

「そうする」


 自分で持っていた方が安心だけれど、彼女に悪く思われたくなかった。それにただでさえ不審者なのだ、もしもの時に取りっぱぐれがない方が彼女にとっても安心だろう。


 一万円だけ抜き、残りを彼女に渡す。


 ヨゾラはこのあたりは几帳面なのか、残りのお札をきっちりと数え、付箋に金額を書き込み、僕のサインを求めた。その一連のしぐさがとても大人に見えて、僕はどぎまぎしてしまった。

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