第5話
「……タナカさん」
振り向いた先には見知らぬ男性がいた。
僕はまったくタナカではないし、これからもタナカになる予定はない。沢田晴人。「はると」と読む。名前負けの陰気な男、それが僕だ。
違います、と口にしようとした僕の言葉にかぶせて、男性はほーっと大きく息を吐いた。そのため、否定するタイミングを失ってしまった。
「ああ、よかった。こっちに来ないから違う人なのかなあと思ったけど、もう俺らしかいないもんね。ドタキャンされたかとドキドキしたよ」
男性は四十代後半、もしかすると五十代。僕の両親よりは上だろう。人当たりの良さそうな目元にはシワがくっきりと刻まれている。
「疑ってごめんね。後払いだから、結構お客さんが音信不通な時があってさ」
「いえ……」
おそらく彼は観光客の迎えのために港で待機していたのだろう。確かに、辺りにはもう人影はない。僕が予約客だと誤解するのも無理はなかった。
……それはつまり、おじさんの不安が──ドタキャンされたかもしれないと言う予感は見事的中していることになるのだけれど。
「さあ、乗って乗って。うちの車はあれ」
おじさんは嬉しそうに白いワンボックスカーを指さす。あれが彼の愛車と言う事だ。
先ほどの船が最終便で、次はない。だから僕が予約の部屋に滑り込んだ所で、何の問題もない。後払いなのだから僕が料金を払えばそれでいいのだ。
知らない人に付いていってはいけない──幼稚園時代からの、鉄の掟だ。しかし、もうここは母さんの影響力の外でもある。
「タナカさん?」
「はい、すみません。ぼーっとしちゃって。いいところですね」
「ここに来た人はみんなそう言ってくれるね。ありがたい事だ」
どうせ宿なしなのだ。もう、どうにでもなれ。
堕ちるならどこまでも、という事で僕はこの、見知らぬ民宿のおじさんについて行くことにしたのだった。
白いワンボックスカーは所々塗装がはげていて、車のシートはペラッペラで、座ると座席のパーツが尻肉に食い込むんじゃないかと思ってしまう。
「ボロボロでごめんね!」
いえ、大丈夫です。と言うのも何か変だなと、僕は愛想笑いでごまかした。
「音楽かけてもいいかな?」
「はい」
そんなに遠いんですか? とはボロが出るのが嫌で聞けなかった。ほどなくして、聞き覚えのある音楽が流れてきた。沖縄民謡でも、はやりの曲でもなく……。
「この曲知ってる?」
「メロディだけは」
この曲はフランスの歌謡曲──シャンソンだと彼は言う。確かに曲名には聞き覚えがあり脳内でメロディと曲名とが線で繋がった。
歌詞の意味はさっぱりだが、おじさんの説明によると心の中にあなたがいて幸せだと、あなたを思うだけで人生がバラ色なのだ──と恋心を歌った曲なのだと言う。
「はあ」
今まで恋愛のれの字にかすりもしない生活をしてきた僕にとって、その感覚は理解しがたいものだった。
「あの……店主さん? はそんな気持ちになった事が?」
彼は朗らかにもちろん、と笑った。おじさんにも若い青春時代があったと言うことだろう。
「今日は他にお客さんいないから、のびのび過ごしてね……平日はずっとだけど。アハハ」
「……あまり、なまってないんですね」
空港からこっち、接客業の人に特徴的な訛りを感じたことがない。いかにもな「おじぃ」「おばぁ」がいて、彼らはまったく解読できないきつい訛りを多用した「沖縄語」を喋る──僕は沖縄人──つまるところ「うちなーんちゅ」に対してそんなステレオタイプなイメージを持っていた。
「まあ、俺は東京から移住してきたクチだからね。接客業をしていればなおさらだ」
車は緩やかに海沿いの坂を登っていく。太陽が沈み、海はその表情を深い藍色へと変化させてゆく。
「どのくらい、かかりますか」
急にどこか遠くへ連れて行かれたらどうしよう、なんて今更過ぎる不安が胸をよぎる。
自分が不安症な癖に考えなし──つまりはかなり「適当」な人間であることに、今日生まれて初めて気がついたような気持ちになる。
「そろそろ」
車は大きく右に曲がり、ガコンと妙な音を立てて停車した。
「着いたよ」
車を降りると、ボロボロの──好意的な言い方をすれば味のある民家があった。沖縄と言えば台風だが、この建物は大丈夫なのだろうかと不安がある。
古ぼけた看板には「民宿 へんな」と記されていた。……倒置法? と一瞬思ったが、まさか「変な民宿」ではないだろう。そばには「平安名モータース」と看板がある。
つまるところ平安名、がへんな、と読むのだろう。これが沖縄の難読名字と言うやつか。
張り出した屋上……デッキの下にレンタル用の軽自動車とバイク、自転車があり、車庫と整備工場を兼ねているようだ。鉄製らしき柱はさびていて、奥に見える扉はガラスの引き戸で、レースのカーテンがかかっている。
見たこともない「昭和」の気配を色濃く感じて、僕はやや不躾にあたりを見渡した。
「おーい、ヨゾラ。お客さんが来たよ!」
おじさんの発した聞き慣れない名前に、僕は耳を疑った。
「おーい、ヨゾラ! 居ないのかー?」
おじさんは声を張り上げた。今度は頭の中に満天の星が浮かんだ。夜空? と思ったが、呼び出していると言うことは、つまりそれは人名なのだ。
「はーい」
奥から若い女性の声がした。しかし、接客業の女性というのはわからないものだ。彼女はつまりおじさんの奥さん──この民宿のおかみだろう。
「ちょっと待ってー」
気の抜けた声と共に奥から現れた女性に、僕は目を奪われた。
顎のあたりで短く切りそろえられた黒い髪の毛。彫りの深い目元は、黒目がちな瞳と相まってびっくりするぐらい大きく見えた。すらりとした体つきに、色褪せた朱色のTシャツ、太股の半分あたりまでのベージュのショートパンツ。
そこから伸びた手足は日に焼けている。一見すると少年のようでいて、きらきらと光を取り込んでいるような瞳の下の、主張の少ないすっとした鼻と、きゅっと引き結ばれた唇が、彼女は美しい女性なのだと僕に認識させた。
視線を反らす事が出来ず、僕はじっと『ヨゾラ』を見つめた。社会科見学の博物館で見た『縄文人と弥生人の違い』なんてパネルの事を思い出す。僕は弥生人で、彼女は縄文人。何百年、あるいは数千年単位で僕と彼女は異なる遺伝子を積み重ねてきた。
──本当に、違う場所へ来たんだ。
「お客さん?」
妄想を切り裂くようなざっくばらんな挨拶は疑問形のイントネーションを持っていた。
「あ、ええ……はい」
『タナカ』なる人物を装ってここまで来てしまったが、ここが民宿であるならば彼女の事は横に置いておいても、宿泊させてほしいのは事実だ。
ヨゾラはふいと視線を逸らすと、ガラスの引き戸をガラガラと開けた。なんとも不用心なことに、そこは事務所なのだった。グレーのどっしりとした事務机の上のノートを手に取り、ぱらぱらとめくる音がする。
背筋が伸びる。彼女はきっと予約を確認しているに違いないと思った。入れ違いに、タナカ本人がキャンセルの連絡を入れている可能性はある。そうなったら僕は一転、謎の不審者でそのまま警察署に連れて行かれるだろう。
「ええと、タナカハルトさんね」
なんとも皮肉な事に、タナカもまた「ハルト」のようだった。彼女の全く飾り気のない態度はおおよそ接客業とは思えなかったが、もはやそんな細かい事はどうでもよくなっていた。
「ええ、……はい。タナカ……と申します」
「そんなにかしこまらなくても」
嘘をついた罪悪感なのか、暑さのせいか、それとも彼女のせいなのか──額から汗が噴き出してくる。今の僕ほど『挙動不審』と言う言葉が似合う男はいないだろう。
「ここに、お名前を。カタカナでいいですよ」
ヨゾラはうつむいたまま、ノートをトントンと叩いた。
──なんと言うか。よく出来た骨格だなあ。
遺伝子の違いは、彼女を横から見るとますます明らかだった。彼女をしげしげと見つめても、全く自分との共通点を見いだせない。有り体に言うと、彼女は何もかも違っていた。作り物ではないけれど、フィクションの世界の生き物だった。
──華がある、と言うのはこのような人の事を言うのだろうか。
彼女の周りだけ、妙に空気がはっきりして、輪郭がくっきりとしているように見える。それとも単純に、僕の脳みそが極度の緊張により、一時的に熱暴走しているだけなのだろうか。
僕の動揺をよそに、彼女にとっては異邦人の訪れなどどうでもいいことらしく、手にしたボールペンをカチリと押した。催促されているのだ。
震える手で「タナカハルト」と書き込む。
「字めっちゃうまいね」
「ありがとうございます……子供の頃、ボールペン字を習っていて」
ねちょっとした言い回しになってしまって後悔した。緊張と、罪悪感と、このままうまく行くんじゃないか、なんて高揚感で僕の心はぐちゃぐちゃだ。
「大学生?」
「ええ、まあ……そんなところ」
「ふうん。自分探し?」
からかう様な言葉。自分探し、何てありきたりな言葉なのだろう。
僕はとんでもない事をしてやったぜ、と言う自尊心があったのだが、彼女にとってここに行き着くのはごくごく普通、ステレオタイプな行動でしかないと言いたげだ。
「まあ……そんなところです」
口にしてから、これじゃさっきと同じだと自分の語彙の少なさに失望する。
ヨゾラは僕からボールペンを取り上げて、くるんと手指でペンを回転させた後、どこか不敵に笑った。
「いいね。自分探し。ようこそ沖縄、ようこそ渡嘉敷、ようこそ民宿へんな」
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