第6話

一見非常にフレンドリーな言葉だけれど、ほんの少し棘を感じたのは、ちょうどビーチサンダルに紛れた小石のせいかもしれなかった。


「はい……よろしく、お願いします」

「私はここの従業員、平安名ヨゾラです。宿泊はいつまで?」


「ええと……あの。それは、特に……決めて、いないです」


「『民宿へんな』は初日は現地で前金。二日目から後払い可。平日は一泊朝夕付きで六千円ぽっきり。クレジットカードはご利用できますが、手数料がかかるので現金だと非常にありがたく」


 ヨゾラはそこまで一息で説明すると、ま、この島には郵便局のATMしかないけどね。と付け加えた。


 単純計算して、一日六千円の生活を一ヶ月続けるとなると三十日で十八万円。昼飯や電車代、飛行機の金額を考えると、僕の全財産を使い果たしても生活出来るのは三十日にも満たないのであった。


「現金払いでお願いします」


 先ほどからずっと、壊れたロボットみたいに口がうまく動かない。緊張しているのだ、色々な意味で。


「助かります。他にも色々オプションがありますから、ぜひ」


 ヨゾラは僕に向けて手招きをした。いつの間にかおじさんは居なくなっていた。彼女が出てきた扉が民宿の玄関で、いわゆる共同下駄箱のスタイルだった。


薄暗い廊下を通り抜けると、広いダイニングがあった。大きな窓にはレースのカーテンがかかっており、外の様子は見えない。部屋の真ん中に十人ほどが食事を取れそうな大きめのテーブルと、二人用の小さいものが二つ。古ぼけた子供用のイスが部屋の片隅にあった。


「ここが食堂。食事は大体七時から九時の間。夜は十八時から二十一時。希望する時間をこのホワイトボードに書き込んで。それ以降の飲み会は、各自で用意を」

「わかりました」

「お客さんですから、私には敬語を使わなくて結構ですよ」

「それを言うなら、そっちも丁寧にしたり、しなかったり、どっちかに統一……してください」


 先ほどから、彼女の口調は統一されていない。最初に出てきた時が素に近く、僕が連泊する客となるとかしこまった態度を取り、距離感を図ろうとしているのだろう。


「ばれたか。いいの? そんな事言って」


 ヨゾラはにやりと笑った。体中の血がぐるぐると巡りはじめ、僕の顔は赤くなる。


「別に……堅苦しいのが好きじゃないから、沖縄に来たわけだし」

「ふぅん」


 そんな設定は僕にはなく、完全に口から出まかせだった。ヨゾラが「なら、遠慮なく」と伸びをした。


 初対面の女性に、ぞんざいに、慣れ慣れしく扱われたいと願ってしまうなんて、母さんやその親戚にこの現場を見られたら『男のくせになんて情けない』と思われてしまうに違いなかった。


 しかし、ここは沖縄であり、そもそも僕のプライドなんて海岸で干上がっている海藻ぐらいの価値しかないのだ。それにしても、妙に喉が渇く。軽い熱中症なのかもしれない。


「飲み物はどうしたら」

「食堂側の冷蔵庫の中の飲み物は、勝手に飲んでいいよ。熱いのはテーブルの上のポットね。でもコップは一人一つにしておいて」


 冷蔵庫を開けると、日本全国どこでも同じなのだろう、プラスチック製のお茶のボトルが入っていた。……中身は麦茶だろうか?


「洗濯機はむこうね。洗濯二百、乾燥機三百」

 

彼女のペタペタとした足音に付いていくと、古ぼけた洗濯機が三台、乾燥機が二台があった。普段通りすがるコインランドリーにある物そのままだ。


 まさか自分がこれを使う事になるとは思わなかった、が正直な気持ちだ。手持ちの着替えは一日分しかない。つまり毎日部屋干しで洗濯するとしても一月六千円。洗濯機の上に置かれた洗剤のカゴには小袋五十円と書かれている。つまり訂正して七千五百円と言うところだ。


 やはりどう考えても、僕の全財産では一ヶ月ももたない。言い方は悪いが、こんな地方までやってきて、だ。


 あからさまにがっかりした雰囲気を施設設備に対する不満と感じ取ったのか、ヨゾラは足で床をごしごしとこすった。


「仕方がないでしょ。ここはそういう所なの。高級なのが良ければ那覇のホテルに行って。ここは安く島に泊まりたい人の為の場所だから」


「いや、自分の事について考えていただけ」

「ふうん」


 ヨゾラは僕の言い訳を信じていないようだった。実際には一月の生活もままならない自分の資産状況に失望したわけだが、それも突き詰めると彼女にとっては『傲慢』なのかもしれなかった。


 海が見える食堂から続く二階の階段を上ると、焦げ茶の床板がぎしぎしと軋んだ。ヨゾラが案内の為に僕の前にいるので、それがまた目のやり場に困り、気まずい。何しろ彼女はTシャツにショートパンツ、その上にエプロンと随分簡素かつ、活動的な服装なのだ。


「ここが部屋ね。六畳一間、布団の上げ下げはご自分で」


 案内された部屋は、すっかり日焼けして黄色くなった畳に、ちゃぶ台、緑の座布団、白い扇風機。建付けがきちんとしているのかどうか怪しい窓には水色のカーテンがかかっている。


 ヨゾラの言ったとおり、開け放たれた押し入れには布団が二揃い収納されていた。


 部屋。確かに生きる──戻ってきて寝る分にはこれで十分なのかもしれない。むしろ持て余しそうだった。


「他にお客さんいないから、テレビは下で好きなのを見れるよ。音楽も、まあ自分のスマホで流す分にはオッケー。Wi-Fiのパスワードはここ。洗濯物は窓のふちにでも引っかけておけば乾く」

「わかった」


 改めて部屋を見渡す。何もないが、全く問題は感じない。


「以外とレトロなの、気に入った?」


 軽く頷くと、ヨゾラは階下に戻っていった。


 リュックを下ろし、ひとまずちゃぶ台の上に一通り出して整理する。Tシャツ、下着、靴下、スニーカー、スマートフォン、充電器、イヤホン、筆記用具、メモ帳、財布、タオル、歯ブラシ。こうして考えると、旅行に必要な物はほとんど持ってきていない。


 スマートフォンの電源を──入れようとしてやめる。だって今見たところで別に何も起きやしない。


 ごろりと畳の上に転がる。目をつぶると、風の音が聞こえる気がした。屋根があって、寝るところがあると言うのはすばらしい。いつでも好きな時に横になる事ができる、というだけでこんなに安心感があるとは思わなかった。

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