第4話

──空が高いと感動したのは一瞬で。


 沖縄に来たのだ! と気分が高揚していたのは空港を出て街路樹のソテツやハイビスカスが植わっているのを見た時までだった。


 なんのことはない。想像よりずっと、沖縄は都会だった。新天地だったはずの都市は電車──正しくは『ゆいレール』に乗ってしまうと景色は日常そのものだ。


 所々、看板やシーサーの置物に『それっぽさ』はあるものの、人々は普通の服を着ているし、ビルもアパートももごくありふれたものだ。


 ──思ったより普通だ。


 僕の感想としてはそれが正直な所だ。観光地だから当たり前に空港からは忙しなくバスが出ているし、電車であっという間に市街地へ到着する。


 路線は一本しかないが、空港からまっすぐ国際通りや首里城──主要な観光地へ人々を輸送してくれるのだ。至れり尽くせり。


 少し空が広くて、空気が熱くて、まだ夏の気配が濃いだけで。ここはほとんど地元と変わりがなく、家出と言うよりはただの迷子でしかない。


 もっと、もっと遠くに行かなければ。


 そうは言っても、このままではゆいレールはあっと言う間に終点に到達してしまうだろう。免許もないのにそこから徒歩で移動するのか、那覇市内の真ん中を?


 と、途方に暮れて見上げた先にはエメラルドグリーンの海があった。もちろん社内広告にすぎないが、確かにこの先には海があるのだ。


 景色が変われば気分も変わるだろう──そんな希望的観測を胸に、僕は発作的に停車した駅で降りた。


 美栄橋──何があるのか、さっぱりわからない。


 巨大なマンタのタイルアートを横目に駅の地図を確認する。海からはさほど離れていないようで、徒歩でも海岸沿いに出る事が出来そうだ。


 目で地図をなぞると馴染みのない言葉を見つけることができる。


 フェリーターミナル。


 沖縄は島だ。東京都に伊豆諸島がある様に沖縄にもまた、本島以外の島がある。そんな当たり前の事実を考えながら、記憶した地図の通りにまっすぐ海の方へ向かう。大きな国道を横断した先に、白くのっぺりした形状の建物があった。


「とまりん」とはなんてのほほんとした名前だろう。普段なら一蹴するような暢気さに、今は焦燥感のような、憧れのような、なんとも言えない感情を抱いてしまう。


 まだ建物は新しく、建物内にはお土産コーナーや観光ガイド、コンビニなどがあり上階はオフィスビルになっている様子だった。


 コンビニで新しく水を買う──家では蛇口をひねるか、冷蔵庫に入っているお茶を飲めばいいのだけれども、こうして外にいると喉の渇きを潤すだけでお金がかかる。一つ一つは小さな金額だが、今に至るまでに使った金額について足し算をするのが憂鬱だ。


 ため息をつき、フロアを見渡す。航路図によると思いの他沢山のルートがあるようだ。


 日本は島国でメインの四島の他にも数千の島があり、そのうち四百ほどの島が有人島だ──小学校の授業で習った言葉を不意に思い出す。


 つまり離島に暮らしている人は珍しくはあるものの、それなりの人数が海に親しんだ暮らしをしているのだろう。


 船がなければ移動することが出来ないのだから、船と言う未知の乗り物もここではライフラインの一つと考えられる。


 ちょうどどこかからの船が到着しているらしく、港側から数十人の人がターミナルに入ってきた。スーツケースを持った観光客もいれば、普段着のままのおじいさん、サラリーマン風の男性までいる。


 沖縄に限定しても、石垣、宮古、与那国などの有名な島があるが、それらは遙か南でここはまだ那覇の中心部。航路図に記されている島のほとんどは日帰りで行き来できるらしく、まだまだ日本の果てとは言えそうにもなかった。


 ──島に行ってみようか?


 そんな思いが頭をよぎる。


 ふと思い立ちスマートフォンの電源を入れる。連絡はまだ、入っていなかった。


 午後を回っているが、まだ家族は異変に気がついていないのだ。──それも、今日の夕方までだろう。


 予備校には連絡を入れていないし、部屋の机の上には書き置きが残してある。見つかるのは時間の問題だ。


 このまま電源を入れっぱなしだとひっきりなしに着信が届くことになるだろう。再び電源を切り、リュックの内ポケットにしまい込み、次の目的地を定める。


 まだまだ僕の歩みを引きとめる人はいない。もっと遠くへ行ってもいいと言う、天啓に似たものを感じた。


「すいません、乗船券を一枚……大人で」 

「どちらまで?」


 シャツの上に銀行員のようなベストを着こみ、ぴしっと髪を撫で付けた女性が機械的に尋ね返してくる。受付にいる女性、服装が似通っているせいもあるだろうが、皆どこか同じ所で育成されたのかと思うほど似ているところがある。


「ええと……」


 冷や汗が流れる。船に乗ろうとしているのに明確な行き先がないなんて不審者もいいところだ。適当に答えようとしたが、ぼーっと案内図を眺めていただけで島の名前なんて覚えていなかった。


 ちらとカウンターに目を走らせると、ありがたいことに船の名前はひらがなだった。


「『とかしき』で」


「はい。二千五百三十円ぴったりいただきます。どうぞ良い船旅を」


 船は最終便。──つまるところ、一度島に渡ってしまえば、当日中に後戻りはできない。


 乗船を待つあいだにチケットを握りしめ、うろうろと売店をめぐる。売店にはケミカルな色のビーチサンダルがあり、先ほど無駄遣いは出来ないと自分に言い聞かせたにも関わらず、ついつい鮮やかなオレンジのサンダルとカメの絵のついたTシャツを購入してしまう。


 脳内では何てバカなのだろうと思う自分と、これは必要経費だと開き直っている自分が同席してせめぎ合っている。


 もうすぐ海が近づいていると思うと、わくわくした気分がさざ波のように押し寄せ、罪悪感や不安を少しずつ沖合に向けてさらっていくようなイメージがわきあがる。


 乗船時間のアナウンスが流れ、ガラス張りのドアから港側に出る。曇りのせいか港は濁ったエメラルドグリーンで、やはり東京と海の色は違うけれど、抜けるような透明感とは言いがたい。


 しかしコンクリートに跳ねる波しぶきの下は確かに太陽の光さえあれば──と思わせ、これからに期待できると僕に信じさせた。


 乗船口に立っている男性にチケットを渡し、半券をちぎってもらう。ずいぶんアナログなシステムだが、まだまだ機械を導入するより人力の方が低コストな時代なのだろう。


 窓際の席を取る。船内は想像より小綺麗だったが、足元は不安定。黙って座っていても、身体がゆったりと揺れている。


 ──確か、一時間もしない内に到着する筈だ。それまで寝ていよう。


と、思ったのは大きな間違いだったと数分で思い知る。小刻みな揺れがあるのはまだいい。問題は、それが想像以上に胃に負荷をかけるのだ。



「うえ……」


 船旅は最悪と言ってよかった。全くの誤算と言うよりは……甘く見ていたと表現した方が正しい。


 眠るどころではなかった。何度心の中で「もう帰りますので、降ろしてください」と無茶な事を言いそうになったかわからない。


 思い返せば僕は生まれて初めて船に乗ったのであるが、胃の中がぐるぐるして、これが俗に言う船酔いなのかと恐ろしくなった。まだ脳と胃がぐわんぐわんとしている。


 強烈な吐き気に襲われながらも港に降り立つと、辺りはしんと静まり返っていた。


 ──ここは全然ちがう。


 おそらく車も人も少ない……少ないなんてもんじゃない。振り返って沖縄本島の方角を眺めたが、真っ平らな水平線があるばかりだった。


 目の前には小さな港、駐車場、いくつかの民家、小高い山。


 それで全てだった。「離島」とはよく言ったもので、たしかにここは世間の喧噪から離れた場所に思える。


 つい午前中まで東京にいたのが──同じ国の同じ日だと言うのが全く信じられなかった。とうとうまったく知らないところまで辿り着いたのだと、妙な感慨がある。


 しかし感動ばかりしてもいられなかった。今までは可能な限り遠くへ行く明確な目的があった。それを達成した今、どうするか。


 何せ見渡す限りコンビニどころか商業施設の看板すらないのだ。


 これからどうやって時間を潰せばいいのか、さっぱり見当もつかなかった。那覇から一時間もかかっていないのだ、田舎と言ってもそれなりの観光施設ぐらいはあるだろう──そう思っていた僕は、さすがに世間知らずが過ぎたのかもしれない。


 僕より先に下船した人々はあっと言う間に居なくなっていた。何台か停まっている車のドアには店の名前がプリントされていたり、フロントガラスにカードが貼ってある。宿泊施設の送迎なのだろう。


 僕のことなんて見えていないとばかりに車は走りさる。予約客ではないのだから当然だ。


 ──まいったな。


 田舎の事を知らない訳ではないと思っていた。実際に父方の実家は栃木で、見渡す限り畑とビニールハウスと山の風景には馴染みがある。しかしそれには優しい祖父母と家と車がセットになっているからこそあたたかく感じるもので、縁もゆかりもない場所はもはや一種の危険地帯と言ってもいい。


 東京はその場しのぎで行動してもなんとかなるが渡嘉敷島ではそうはいかない。タクシーどころか、バス停だって見える範囲にはないのだから。


 まずは島の中心部へ向かい今日の雨風をしのぐ宿を見つけなければ──と考えてはいるものの、まだ思考がこの場所に馴染んでいないような、自分がここに居るのがシステム上のバグで目の前の景色が正常に処理できていないような、そんな気持ちなのだった。


「タナカさん?」

「はい?」


 突然声をかけられて、反射的に返事をしてしまった。僕はまったくもって田中ではないのだが。

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