しゅ、集中できねえ

新巻へもん

があがぁがあ

『都会の喧騒を離れ、いつもとは異なる環境でリフレッシュしてみませんか』


 こんなキャッチコピーにつられてやってきた鄙びた温泉宿。

 最寄駅からバスで1時間かかって着いた建物は風情があると描写するか、ややくたびれたと評するか微妙なラインだった。

 それでも、早速入った温泉はちょっとぬめりがある泉質で、体の奥から疲れを一掃する気分になる。

 まだ日の出ているうちに出された夕食も野趣に富んでいてなかなかのお味だった。

 都会生まれ都会育ちの私がこんな場所まで出かけてきたのは理由がある。

 日頃の仕事の疲れを癒すというのもあるが、新人賞に応募するための小説を仕上げるためだった。

 住んでいる場所は町中で、夜中になっても静けさとは程遠い。

 酔っぱらいの高歌放吟、珍走団のパラリラパラリラ、一階上の住人のハイヒールが廊下に響く音と執筆に集中できる環境ではなかった。

 特にうるさいのが隣のカップルの嬌声だ。

 公募の締め切りまではあと三日。

 応募要項に規定する最低枚数まであと三十枚程度で、文字数にすると三万字強だった。

 気合を入れてノートパソコンに向かう。本当は風呂上りにビールを飲みたいところをぐっと我慢してまで、キーボードに指を走らせた。

 これはいける。

 日が暮れるなか、静かな環境で執筆が進んでいたその時、異様な音が鳴り響いた。

 ガアガアガアガア。

 なんじゃこりゃあ。

 宿の帳場に電話すると、最初は話がかみ合わなかったが、やっと答えが得られる。蛙の鳴き声だった。

 繁殖のためにオスがメスを呼ぶ声だと言う。

 一旦気になりだすと耳障りったらありゃしない。

 指はぴたりと止まり、時間だけが過ぎていった。

 気が付けば、手元に置いた腕時計の短針は十にを過ぎている。

 カーテンをめくると月が私を見降ろしていた。

 ロビーまで行き自販機で缶ビールを買って部屋に戻り、蛙の鳴き声をBGMにビールを飲む。

 なんだか蛙にも負けた気がして、舌に苦かった。

 

 

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しゅ、集中できねえ 新巻へもん @shakesama

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