『私は正常です』

私は正常です

 何かがおかしいと気づいたのは、意識が覚醒してすぐのことだった。体が妙な浮遊感に包まれていて、脳の端っこが鋭く痛んでいる。それに、なんだか息苦しい。一瞬、呼吸ってどうやるんだっけと思った。おそるおそる目を開くと、わたしは首を吊っていた。


 少しずつ、頸動脈が締め上げられていく。足元には「遺言書」と書かれた白い封筒があって、ついさっき自分が自殺しようとしていたことを思いだした。


 一度、私は死んだはずだった。苦しいながらも意識が遠のいていって、最後は誰かに抱きしめられているような心地よさがあった。それなのに私はまた首を吊っている。目を覚ましたら首を吊ったままでしたなんて話、聞いたことがない。私は首に掛かったロープを掴むと、腕に力を込め、体を持ち上げるようにして縄から脱出した。


 部屋に、見知らぬ男がいた。戸締まりは無意識の自分に任せっきりだから、鍵を閉めたかどうかの記憶がない。男の年齢は五十ほどだろうか。もっと若くも見える。人によっては少年のようだと言うかもしれない。とにかく、私の部屋には知らない男がいた。


 どうでもよかった。強姦されるのは嫌だったが、でもそのぶん私は苦しむことができる。そう考えてから自分に対する情けなさで破裂しそうになった。


「あなたは死なない体になりました」


 突然、男が言った。「は?」思わず声が漏れる。


「ご友人から代償をいただきましたので」


 あなたは誰なんですか。男の話す間に準備していた言葉よりも早く、「友人?」、優先度の低そうな質問が口を衝いた。


「美咲様でございます」


 低いような高いような、どちらとも表現しがたい声で男は言った。美咲。私の古くからの友人だった。彼女は「親友」いう呼び方を使っていたが、なんだか気恥ずかしくて使いづらい。


「美咲? なんで」


 とにかく、意味がわからなかった。美咲から何かを奪って、私は不死の体を手に入れた。単語が脳の表面をつるりと転倒する。先ほどまで首を吊っていたせいで、頭に酸素が行き渡っていないのかもしれない。


「美咲様のご希望でございますので」


 代償とは何か。男の正体は一体なんなのか。なぜ私は死ななかったのか。そういう質問たちを投げるよりも先に男が立ち上がった。「説明はさせて頂きましたので」、男はそれだけ言うと、ろうそくの火みたいにふっと消えてしまった。プロのマジシャンかもしれない、と思った。


 * * * * *


 よく見る夢がある。その夢を見た日の朝は心に隙間があるようで、何をしても上手くいかなくなる。夢は心の内側で見るものだから、私がどんな努力をしても心が空疎になることは避けられない。


 夢は私の記憶をそのまま映したものだった。小学生六年生の私はまだ胸も膨らみきっていないし、子宮からの出血もいまほど鬱陶しくない。それなのにいつも憂鬱で仕方がなかった。


 目を覚ましてリビングに行くと、台所のゴミ袋に運動会のプログラム表が捨ててあった。母は昨夜も出ていったきり家に帰ってきていない。空っぽの冷蔵庫を眺めながら、今日も腹の虫を宥めながら授業を受けなければならないことを重たく考える。このやせ細った身体では、心の重さがそのまま私の体重だった。


 引きだしから印鑑を取りだして、連絡帳の「保護者印」の欄にぽんっと軽く押し付ける。一部分だけ赤の滲んだその印鑑には、私の手垢だけが蓄積されていた。


 家を出て鍵を閉めたとき、「おはよう」、美咲の弾んだ声がした。「おはよう」、私も挨拶をする。彼女がちいさく咳をするから私は急いで駆け寄り、「大丈夫?」と訊いた。彼女は虚弱体質だからこういうイベントは日常的に行われるのだけれど、私は少しでも気を抜いたら彼女が死んでしまうような気がしてならなかった。実際、彼女は何度も何度も学校を休んでいた。


 美咲はよく白いフリルのワンピースを着ていた。私だけは、その下に世界地図みたいな痣が広がっていることを知っている。青かったり、黄色かったり、たまに赤色をしていることもある。彼女の体にはいつも、様々な色が浮かんでいた。


 * * * * *


「一名様ですか」

「なかに友人が」


 典型的なやりとりのあと客席に足を踏み入れると、店内の一番奥、端っこの席に美咲の姿を見つけた。「おはよう」、わざと刺々しい声を出す。「おはよう」フローラルな笑顔が返ってくる。水を運んできてくれた店員にブレンドコーヒーを注文したあと、私は早速話を切りだした。


「あの怪しい男のことなんだけど」

「いきなりだなあ」


 美咲は本を閉じてリュックに収めると、「なんでも訊いて」、弾んだ声で言った。その拍子に、ミディアムボブの髪がふわりと揺れる。


「あの人はなんなの?」

「悪魔、らしいよっ」


 美咲は撥音にぐっと力を入れて、この状況を心から楽しんでいるみたいに言った。からん。グラスの氷が鳴る。


「不幸な人のところに現われて、願いを叶えてくれるらしいの。代償と引き替えに」


 願い。代償。どちらに触れようか迷って、結局「代償?」と訊き返した。


「うん、代償」

「美咲は何を払ったの?」

「秘密」


 彼女の細長い人差し指が、おもむろに口元へ運ばれていく。「じゃあ、願いって」声に装飾を施すことなく言葉を吐きだすと、美咲は困ったみたいに眉尻を下げて笑った。


「結香を死なない身体にしてくださいって」

「なんで」


 願い事を叶えられるのであれば、自分の利益になるようなことを頼めばいいじゃないか。わざわざ私を死なないようにしようなんて、意味がわからない。


「本当は結香の気持ちをどうにかしてあげられればよかったんだけど」


 申し訳ございませんが叶えられる願いには限度がございまして。男の真似をしているのか、美咲はわざとらしく眉間に皺を寄せて言った。


「なんでダメだったの」

「精神面にまでは力が及ばないとか、なんとか。結香、どうせまだ狂ったように自殺しようとしてるんでしょ。死んでもきっと、いいことないよ。もっと普通に生きてよ」


 美咲が目を細めて笑う。普通。普通ってなんだっけと思う。私は自分が何をしたいのか全くわからない。限りなくマイノリティとしての重さが心の根底にぴったり貼り付いていて、私は普通の人間として生きていないのだから、その重さをいったいどのようにして解決すればいいのかもわからなくなっている。迷ったあげく、「私は正常だよ」と答えた。「そっか」と返ってきた。


 親から暴力を受けて育った美咲が前を向いているのに、たかだか育児放棄されただけの自分のほうがこうして心を重くしている。そんな程度で苦しんで、前を向くことができない自分が情けなかった。彼女の言っている「悪魔」のことが本当だとしたら、客観的に見ても、不幸の度合いで私の上にいるのは美咲のほうだった。


「……苦しいから死のうとしているのに、それでも生きろって残酷だと思う」

「でも、死んだら終わりなんだよ」


 普通に生きる方法がわからなかった。前を向くには絡まった糸を一本ずつ解いていく作業が必要なのに、愛されなかったことや自分に対する情けなさ、それから美咲を疎ましく思ってしまうことの重さが複雑に絡み合って、最初の一本すら見つけられずにいる。探しだそうとかき回すたび、どんどん糸が絡まっていく。私にとって、前を向いて生きることは才能という言葉に集約されていた。


「死ぬ前から終わってるってことがあるんだよ。なんでわかんないの? 美咲のほうがずっと苦しんできたのに」


 まだ脚の芯に外の寒さが残っていて、スキニーの内側が湿っているような気がした。それなのに、身体は熱くて仕方がない。いまも家族とかかわっているわけではないが、それで身体に籠もっている熱をうまく冷却できるわけではない。喉の奥に張り付いた苦味をうまく溜飲できるわけではなかった。美咲の悲しそうな笑顔に引きずられて、目頭の辺りがぐっと熱くなる。それに身を任せたら目から希死念慮の熱が逃げてしまいそうだった。


「もう、いい」


 私は立ち上がって荷物を纏めると、机に千円札をたたきつけた。一度も口を付けられていないコーヒーの水面が揺れて、私の表情が歪んでいるみたいになる。美咲の顔を見る勇気はなかった。


 彼女に笑顔で自殺を否定されるたび、「なんでその程度で苦しんでるの」と言われた気分になる。私には人間性というよりもっと抽象的な、人としての輪郭、のようなものが欠落しているのだと思う。


 店を出たとき、試しに「きらい」と呟いてみた。音が脳にしみこんでいって、心のまんなかから発生した言葉だったと気づく。私は美咲より苦しい思いをしなければ、こうして憂鬱な気分になることすら許されない気がした。


 * * * * *


 顎の痛みで溶けかけていた意識が輪郭を帯び始め、自分の首に縄がかかっていることに気づく。また失敗した。あれから何度試してみても私はまたこうして呼吸を再開している。悪魔を名乗るあの男は現われない。


 一度、包丁で心臓を貫いてみたことがあった。結局は首吊り同様自殺することなどできなかったのだけれど、唯一違ったのはそこらじゅうに私の血液が残っていたという点だった。どうやら時間が戻るのではなく、肉体が再生される仕組みらしい。首吊りによる排泄物はナプキンや大人用おむつでどうにかなっていたが、さすがに人間一体を失血死させるほどの血液を処理するのはかなり面倒だった。それに、首吊りの比にならないほど苦しい。そのときはもう二度とやらないなんて心に誓ったものの、やっぱり私はもっと苦しんで死ぬ必要がある気がしてしまうからどうしようもなかった。


 今日はどうやって生きていこう。そんなことを考えながら窓の外をぼうっと眺める。ちいさな雲が太陽をすっぽり隠してしまったとき、スマートフォンがメッセージを通知した。手に取り、画面を確認する。美咲からだった。


『結香。少し早いけど、さいごに――』


 さいご。「最後」を経由し、次に「最期」と変換された。代償、という言葉が思い浮かんだ。


『さいごに伝えて生きたことがあるの。私、病気でもう長くないから』


 文字、具現化された音たちが美咲の声で再生される。続けて、二通目のメッセージが送られてきた。病気、死ぬ、中央病院、そういう言葉たちが断片的に水晶体を通過する。私はメッセージをきちんと読まないまま急いで家を飛びだした。


 冬の空は綺麗に晴れ上がっていることが多いから、家から見える景色に引きずられて気温が高いと勘違いしてしまう。この日もそれは例外ではなかった。身体を温めようと、走るペースを上げる。もっと分厚いコートを着てくればよかった。肺と気管がめまぐるしい周期で温められたる冷やされたりしていて、温度差で割れたガラスのようにヒビが入っている。


 心臓が悲鳴を上げていても、喉が焼き切れそうになっても、私は全速力をやめなかった。寒さと人々の視線が目に刺さって、涙が出そうになる。私は死なない身体をしているのだから、生命活動が停止したとしても急いで美咲の元を目指す必要があった。


「病気で死ぬってどういうことっ」


 扉を開けて病室に足を踏み入れたとき。意識が数センチ沈み込んだ。美咲の病室には、彼女を除いて誰もいなかった。「もしかして、代償って」私の言いたいことを察したのか、彼女は左手で私の言葉を牽制すると、「違うよ」、弱々しい声で言った。


「たしかに代償は寿命だけど、でも、どうせ病気で死ぬ予定だったし」


 胸のまんなかが膨張して、いまにも破裂してしまいそうだった。胃が気持ち悪い。限りなく強酸に近い液体が気管の辺りまで昇ってきそうなのを、大きく深呼吸をしてやり過ごす。


「馬鹿。馬鹿だよ。なんで私のために」


 救いようのない自殺志願者約一名を救うために寿命を捨てた美咲のことを私はこれから先いつまで経っても理解できそうになかった。だって私は自分が彼女の寿命を丸々奪ったわけではないことに安心してしまっているから自分勝手で情けなくて、そうするだけの価値がないような気がしていた。


「……初めて私に優しくしてくれたの、結香だったから。私は結香に救われたんだよ。だから、幸せに生きてほしいよ」


 どの角度から見つめてみても、私の自殺願望はなくなってくれそうになかった。蝶の羽ばたきが大きな竜巻を引き起こすように、ほんのちいさなきっかけがいつの間にか致命傷になっている。宿題を忘れてしまったことが、お母さんに話を聞いてもらえなかったことが、巡り巡って希死念慮に姿を変えている。その程度だった。


「私はいくら生き延びても、どうせ死にたくなっちゃうよ。寿命を捨ててまで救う価値なんて私にはない。美咲は私より苦しんできたんだから、もっと自分のために……」


 美咲は小さく笑って、それから目を伏せたあと、「結香」、私の名前を呼んだ。


「結香はいつもそれ、言うよね」

「だって」

「私、人の苦しみって絶対的なものじゃなくて、もっと個人のなかで、相対的にはたらくものだと思うんだ」


 窓の外はやはりどう見ても暖かそうな出で立ちをしていて、唯一、葉の抜けた木だけが冬という季節を体現していた。「相対的?」、言葉を返す。「うん、相対的」そのままの言葉が返ってくる。


「でも、人の不幸と自分の不幸って比べちゃうよね。結香はたぶん、『こんなことで悩むなんて情けない』って思いながら生きてきたんだよね」


 美咲から視線を外して、ほんの少し、頭を縦に振る。美咲はそれを校庭と捉えてくれたようだった。だってこの程度の不幸を不幸と捉えて生きているのだから私が彼女の前で普通に生きていいわけがなかった。


「結香。自分の不幸を他人と比べなくてもいいんだよ。苦しいことを、ちゃんと苦しいって思ってもいいんだよ。人生で一番つらかったことがその人にとってのつらいことだもん。いっぱいいっぱいのときは自分の苦しいところだけを見てもいいんだよ」


「いや、でも、だって」、だって、そんなことを言われたら私は自分が生きることを肯定してしまいそうだった。私は自分が嫌いだから自分を否定せずに生きる方法がわからなかった。肯定してしまったらいままで自殺なんて考えてこなかった人たちのコミュニティに放りだされてしまいそうで怖かった。自殺志願者という枠組みは私に優しくしてくれた。


 美咲は私の手を取り、うん、うん、何度も頷いた。それから両手で優しく包み込むと、「冷たい手だなあ」と笑いながら言った。美咲の手は温かくて、柔らかかった。


「少しずつでいいよ。いつか、自分を許してあげてよ。結香は優しくて可愛くて、結香が思っているよりずっと魅力的な人なんだよ」


 枝だけになった木が風に揺らされている。ふわり、落ち葉が舞う。喉の辺りまで昇ってきた熱が涙になってこぼれ落ちてしまいそうだった。その熱は憂鬱なときに感じるものとは異なり、もっと温かかくて、柔らかかった。美咲の手そのものだった。


「ごめんね」、私が言うと、「謝んないでよ」、胸の内側堪えるみたいに美咲が笑った。


 * * * * *


 春になったころ、美咲はあっさり死んだ。自分を許して生きていくことはまだできそうになかった。生きるということは例外なく重たい。前を向いてみてもいつのまにか視線は地面に落っこちてしまうし、私の前にある信号は赤ばかりだった。それでも前を向く方法を知ることができたのは大きな一歩だった。


 誰が作ったのかはわからないが、美咲の墓は私の家から電車で一時間のところに建てられた。気張っていくほどの土地ではないので、私は自殺に失敗するたび彼女の墓を訪れている。仕方がないから生きていこうとは思えたが、だからといって簡単に希死念慮がなくなるわけではない。


 蝉が鳴いていた。夏だ、と思った。敷石の隙間にはところどころ鮮やかな緑が生えていて、それを踏まないよう、慎重に足を進めていく。


「……また、失敗した。次に自殺するまでは生きてみる」


 風が吹いて前髪がふわりと空気を含む。飽きるほど繰り返した報告に対しても、美咲からの回答はなかった。天国なんてものがあるとは思わないが、私はせめて美咲だけには天国に行ってほしかった。


 何か人生の目標みたいなものを色づけしながら生きていく方法はまだわからなかった。だから私は嫌になったら首を吊ることにしている。もし死んだらそこで終わりだ。それはそれでいい。でも、せめて死なない間だけでも生きていこうと思った。


 死なないとわかっていて自殺しているけど、友人が命がけで救ってくれたこの身体を無駄にして生きているけど、私は正常です。

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