『ふたりでせーので』

ふたりでせーので

 空にはいつの間にか薄い雲がかかっていた。ついさっきまで肌を焼いていた太陽は、半紙のような雲にぼんやりと滲んでいる。今朝、澄んだ空気がシャツの内側に沁みてくる時間帯、僕は人を殺した。


「どうしようか、あれ。」


 助手席で窓の外を眺めていた有紀が、ひとりで呟く、みたいに言った。彼女の手に握られた薄い日光が反射するスマートフォンの、白いアイコンをした検索サイトの履歴には「死体 処理」「人殺し 罪」のような文字ばかりが並んでいるに違いなかった。


「このまま逃げ続けても、きっと変わらんね。」


 とりあえず、死体を埋めにいこう。僕の言葉に、「はは、それはそうだ。」有紀は危機感のひとつもなさそうな調子で言った。バックミラーで後方を確認するたび、ブルーシートで覆われたいびつな物体が視界に映る。


「お母さん、悔しがってるかな。」


 半袖のシャツから覗く彼女の腕には、青と黄色がちょうど半分ずつ混ざったような、綺麗なマーブル模様の痣が乗っかっていた。彼女の背景に見える山は、ちゃんと夏の色をしている。僕の視線に気づいたのか、彼女は得意げな笑顔のあと、ゆっくりと痣を撫でた。死体は感情を持ってないよ。言葉を吐きだす。「そういうことを言ってるんじゃないんよ。」有紀が笑いながら言う。


 車は夢のような道を走っていた。車が少ない平日の高速道路の、蜃気楼で揺らいだ対向車線はふたつに枝分かれしていた。僕たちが走っている道はまっすぐだった。目的地はなかった。ひどく明確な、現実だけがあった。


 一時停止の赤い標識、後部座席の青いビニールシート、空を覆う白くて薄い雲。僕だけが塗り残されていた。灰色よりも実体が薄くて、透明と呼ぶには至らない。そんな色をしていた。包丁を手に取ったあのとき、僕は、何かが変わると思っていたのかもしれなかった。


 心は渇いている。正義の味方をしたつもりはなかった。普段は得意げに笑ってばかりの有紀が痣だらけになって、泣きながら「殺して」と言ったから殺した。後悔はしていない。それでも、生きる意味になればいいと思っていたのに、砂漠化していた心に先駆植物がやってくることはなかった。空には薄い雲がかかっている。これが大人になるということかもしれなかった。


 * * * * *


 スマートフォンは誰からのメッセージも通知しない。時刻を確認するだけなら腕時計で充分だった。フロントガラスの向こう側には、知らない世界が広がっているような気がする。有紀は助手席で眠っていた。ちいさく上下するふたつの胸の、そのちょうどまんなかで手を組んでいる。ずっと昔、親に「それ、死体がやるポーズだから。もうそのまま死んじゃえよ。」と言われたことがあった。僕も彼女と似た家庭環境の出身だった。


 昨日東京を出発した僕の車は、東海にある大きな森林公園の、サッカーコートよりも広い駐車場に停まっている。繁華街からずいぶん離れた場所にあるせいか、他に車中泊をしてる人はいなかった。


「ん。」


 声につられて視線を移動させた先、有紀が薄く目を開くところだった。おはよう、挨拶をする。「トイレ。」寝起きにぴったりな、甘ったるい声で有紀が言った。睫毛の先端に乗った太陽の光が、動いた拍子にとろんと転がり落ちる。ほどなくして開かれた扉からは、夏の湿った空気と、それから蝉の鳴き声が入り込んできた。


 この先のことは何もわからなかった。一分後のことすら何も思い描けていなかった。罪を償って、社会に復帰する。そんな世間一般的なことをこなしても、結局は僕を僕として捉えてくれない世間一般的な世界に戻るだけだった。


 中学から縁がある友人は僕の憩いの場にはなり得なかった。誰も僕の言葉だけを見ようとしない。僕が吐きだす憂鬱な気持ちは、どんなかたちを取っても、親から暴力を受けていた可哀相な僕としての言葉になった。僕を発信源とした情報ではなくて、吐きだす文章を情報としてそのまま受け取ってほしかった。吐きだされたテクストの所有権は僕ではなく、人生を丸ごとひっくるめた、僕の22年間にあった。


「お腹空いた。どこか、行かん?」


 扉が開いて、閉じる。その拍子に内圧がおかしくなった耳の、ずっと奥のほうで一瞬また蝉の鳴き声を聞いた。遅れて、夏の熱気が車内になだれ込んでくる。サイドブレーキを解除してドライブにレバーを押し込んだとき、今年初めて蝉の鳴き声を聞いたことに気づいた。


 駅前の、木製の格子扉が番を勤めるちいさな定食屋で腹の虫を宥めることにした。近くのコインパーキングに車を停め、歩いて店に向かう。定食屋の隣にある喫茶店みたいな床屋で、赤と青と白がぐるぐると回っていた。


 いらっしゃい。扉を開いた先、仏像のように凝り固まった顔の女性が言った。促されるまま、端っこの席に腰を下ろす。隣のテーブルで新聞を読んでいた白髪の男性は、客席の古いテレビを一瞥したあと、空いていたほうの手で眼鏡の位置を直した。僕たちは焼き魚定食を注文した。


「どうしようか、これから。」


 からん。氷が鳴る。窓の外の緑はやっぱり、夏に相応しい色をしていた。どうしようってなに。返事、僕の言葉が「はいはいお待たせしましたあ」、声にかき消される。


「お母さんを埋め……どうにかしても、私たちはどうしようもないわけで。」


 女性が去ったあと、有紀はまた囁くような声で言った。言葉はすこし濁っていた。もういっそのこと、一緒に死のうか。「えー。」笑い声が返ってくる。


「まあ、あとには退けんけどさ。でも、進んで死にたいとは思わんよ。どうせ君もそうなんでしょ。」


 味噌汁を啜りながら頷いたから、椀から零れて、ズボンにちいさな染みができてしまった。「あはは」有紀が笑っている。風で、店の壁が軋んだ。


「無機質。無機質なんよ、みんな。自分が生きてるってことに気づいてないんだ。」


 鮭の塩焼き、白米、お新香、鮭の塩焼き。鮭の塩焼きはすこしだけしょっぱかった。生姜焼き定食にしなかったことを後悔した。


「みーんな、ロボットみたい。AIでできてるんよ、きっと。ね。」


 有紀が口にしたのは、以前、言葉を交すようになってきたころに僕が話した内容そのままだった。他人が自分と同じでものを考えて生きていることが非現実的であるような気がずっとしていた。それでも、言葉は彼女のものだった。幼いころから母親に暴力を振るわれていた有紀としての言葉だった。うん、そうかもね。返事をする。


 彼女はきっと、僕が紡いだテクストの所有権は僕にはなくて、もっと抽象的な部分に存在していることを知っていた。過去を知っても、いまの僕を見ることができる人間だった。有紀は特別だった。どんなテクストでも、いまこの瞬間を生きる僕の言葉として捉えてくれる。


「君が言っていたとおり。本当はみんな生きてなんかいなくて、世界にいるのは、私と、君だけなんよ。」


 僕もいるんだ。鮭の塩焼きを胃へ送りだしたあと、空っぽになった口が思ったことをそのまま言葉にした。味噌汁は湯気を出さなくなっている。テレビから流れる昼のワイドショーは、最近起こった全国各地の事件を報道していた。


「うん。君は、君だけは、無機質な感じがしない。たぶん世の中には自分が生きてることに気づかん人たちがいて、そういう人たちは無機質に見える。メタ認知みたいなことね。」


 ずいぶん恣意的な分類だね。言葉、いま自分が吐きだしたテクストの内側にはここで鮭の塩焼きを食べている僕だけがいた。「そうだけど。」有紀が困ったように笑う。平皿には鮭の皮だけが綺麗に折りたたまれていた。


 僕にとっても有紀は特別だよ。目を見て言う。「ふふ。」箸を握ったままの手が、彼女の緩んだ口元へ移動する。


 有紀は僕にとっての特別だった。無機質で覚束ない、ひどく廃れた景色をした世界よりもずっと実体の濃い現実を彼女は持っていた。僕の現実はそこにあった。彼女のいない現実は現実のかたちをしていない。まだ夢のほうが鮮やかな景色をしていた。


「あ。」


 テレビで、僕たちの地元が取り上げられていた。女性が行方不明になっていて、部屋に残る血痕から殺人の可能性があるようだった。さらに、一緒に住む高橋有紀という二十一歳の女性が行方不明になっていると、ニュースキャスターが続けて言った。「有名人だ。」有紀が言う。うん、そうだね。返事をする。ニュースの字幕やワイプに映る芸人の言葉、そのどこにもいまこの瞬間の有紀はいなかった。テレビのなかの彼女は、「母親を殺され、拉致された少女」になっていた。


「血痕、片付けたはずなんだけどな。」


 会計を終えて店を出たとき、ふわり、有紀のロングスカートがいっぱいに空気を含んだ。ウエディングドレスみたい。そう言うと、「じゃあ、結婚しようか。」、有紀が宙ぶらりんになっている僕の手を握った。風は蒸し暑かった。


 * * * * *


 夜の森は冷たい空気をしていた。木と木の隙間に見えるのは離れたところにある木と、底の見えない暗闇だった。スコップはすこし重たくて、有紀の母親はかなり重たい。


「この人は無機質だった。死んで当然だった。」


 うん、うん。彼女の言葉に相槌を打ちながら地面を掘っていたせいで、簡単に息が上がってしまった。土の、湿った匂いがする。土には特別な夜の闇が溶け込んでいて、掘り起こした僕たちに八つ当たりするみたいに、じゅわりと重たい匂いを滲ませているに違いなかった。


「……私、死体って初めて見た。いや、そうか、普通は。」


 地面に開いた穴の、凹凸になっている壁面からは髪の毛のような根っこがはみだしていた。ごろん。地面を転がし、ブルーシートをほどいて、それから彼女の母親を穴に落とす。砂埃は舞わなかった。


 夜は僕に優しかった。静かで冷たくて、彩度の低い風は浸透圧の働きで僕のなかから色のようなものを奪い去ってくれる。僕はいつの間にか空っぽになっていたのではなくて、もしかしたら、望んで心の中身を投棄しているのかもしれなかった。嬉しいとか楽しいとかを感じている間は、同じぶんだけ悲しみや苦しみを受け取るようになってしまう。


 僕たちが歩くたび、枯葉は砕けて死んだ。ここは、時間、それから空間の端っこがほつれていた。手と足の先、細かい場所までひどく繊細な感覚が通っている。夢かもしれなかった。ふとしたきっかけで目を覚まして、有紀の母親を殺したことは夢で、僕はまたいつもと同じ日常を過ごすのかもしれなかった。もしそれが本当の現実なのであれば、僕はもう一度人を殺さなければならない。僕は有紀とこうして無機質ではない世界を共有していたかった。


「私はたくさん苦しんできた。お母さん、死んじゃえばいいってずっと思ってた。でも、たぶん、人殺しっていけないことなんよ。」


 有紀が俯く直前に見つめていた先、僕が車を停めた山道で、赤い光が煌めいていた。パトカーが停まっているようだった。


「……後ろ、つけられてたんかな。」


 そうかもね。言葉、かたちのない文字の羅列が暗闇に溶け込んでいく。ランプはひどく鮮やかな色をしていて、僕から色を吸い取っていった静かな風でも、その色までは飲み込みきれなかったようだった。


「逃げようか。」


 手を握られた。有紀の手は温かくも、冷たくもなかった。空気と同じ温度をしていた。彼女に引っ張られるまま、茂みを掻きわけて進んでいく。人の気配はしなかった。警察に見つかったときがこのひどく現実的な世界の最後かもしれないと思った。


 夜の森は冷たい空気をしていた。木と木の隙間に見えるのは離れたところにある木と底の見えない暗闇、それから数メートル先の、捜索隊らしき人が握る懐中電灯だけだった。


「あー。」


 ぴたり、有紀が立ち止まる。捜索隊はまだこちらに気づいていないようだった。この先僕たちが有機的な世界を享受できるようになるためには、過去に戻って人生をやり直すか、ここで命を絶って、来世に命運を賭けるしかなかった。


「もう無理かもね。うん、仕方ないよ。」


 茂みが踏み潰されてできた獣道の、申し訳程度に建てられた古いガードレールはすでに白色の面影を残していなかった。白い亡霊の隙間には、枯葉のなだれたあとが残っている。急斜面の下側、暗闇はたしかに僕たちを飲み込む準備をしていた。


 ふたりで、せーので飛び降りようか。そう言い終わるよりも早く、僕は有紀に強く抱きしめられていた。この瞬間まで触れ合っていた手のひらより、薄いシャツの先にある肌のほうがずっと温かかった。熱は僕に染み込んでいた。


「なんで、私なんかに命を賭けられるの?」


 有紀は僕にとっての特別だから。それ以外になかった。恋とか愛とかそういう古典的な感情ではなくて、もっと分厚くて複雑な、「特別」という言葉に集約されていた。有紀の考え方や感情の岐路が僕にとっての現実で、彼女と過ごしているとき以外の時間は夢を見ているのと一緒だった。


「……私は、特別なんかじゃないんよ。恋愛もできるし、嬉しくなったり、悲しくなったりもする。君がたぶん期待してる、同類にはなれない。ごめんね。私はちょっと特別になりたかっただけの、どこにでもいる普通の女の子なんよ。」


 身体が離れた拍子に、ふわり、ちょうどやってきた風に僕の体温は完全に攫われてしまったようだった。テクストの所有権が曖昧になっている。いまの有紀なのか、彼女の人生すべてをひっくるめて考えるべきなのか、わからなかった。テクスト論は崩壊していた。


 有紀は間違いなく僕にとっての特別で、そこにこれまでの彼女の人生は関係ないはずだった。僕は、自分と同じ境遇の特別な女の子を救うことで自分自身を納得させようとしているのかもしれなかった。


「死ぬのは怖い。でも、自分の存在を誰も見てくれなくなるほうがもっと怖い。私はきっと、君のなかにいるんよ。」


 身体が後ろに傾いた。温度のないふたつの手のひらが僕のほうを向いている。有紀が僕を押したことはすぐにわかった。宙を漂った僕の背中はガードレールにぶつかることなく、九十度を超えて傾いたあと、枯葉を引きずりながら地面を滑走した。焦点が大きく振り回されている。大きな衝撃のあと、身体はすぐに止まった。ガードレールは赤黒い。ひどい立ちくらみのような感覚に襲われる直前、誰かに電話をかける有紀の姿を見た。


 * * * * *


 病院の、鼻の奥に詰まるような薬品の匂いが好きではなかった。太陽は蛍光灯を軽く凌駕している。夢のようなかたちをした現実は、有紀がいなくても変わらず進んでいるようだった。「お体の調子はどうですか。」それが僕の、ふたつめの人生における最初の言葉だった。


 ふたりで、せーので飛び降りよう。僕の提案を有紀は飲み込まなかった。僕を突き落として、それから自分だけは確実に自殺する。殺人の罪は有紀のものになった。ニュースキャスターは「少女は母親から暴力を受けていた」と報道した。世間的に有紀は、「母親に復讐し、自らも命を絶ったかわいそうな少女」になっていた。誰もテクストを読み込もうとはしない。事件は、暴力を受けていた少女、有紀の、背景を含めた作品になっていた。テクストは高橋有紀のものだった。


 有紀はやっぱり、本人がいくら否定しようとも、僕にとっての特別だった。彼女の性格が似ているとか僕と同じで暴力を受けていたとか、そういう背景的なことはどうでもよかった。風はもう秋の色を迎えている。僕はたしかに、そのとき、その瞬間の有紀という少女を見ていた。一ヶ月が経ってもニュースキャスターはやっぱり、有紀をかわいそうな少女として報道していた。

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