『マットレスが死んだ』

マットレスが死んだ

 感染症対策として開け放たれている窓からはいつも花粉が入り込んできて、教授のたどたどしい声がスピーカーから放たれているだけの講義室に、ひどく大きなくしゃみが響くことがあった。毎回突然の大音量に驚きながらも、なるべくそちらを気にしないよう、私はノートにペンを走らせている。春の風は暖かくて、少し寂しい。誰からも反応がなかった教授の「くしゃみは自然現象だから仕方ない」という言葉は、まだ、教室の床に転がっている。


 少ない昼用のナプキンをしてきたせいで、血が漏れていないか心配だった。教授が黒板をスライドさせて、上段と下段が入れ替わる。乱暴に書かれた「ソシュールの言語理論」という文字の、端っこのほうがほつれていた。とにかく、帰りに多い日用のナプキンを買う必要があった。


 現実が、イメージに先行すると、どうして言い切れるのでしょう。ががっ。マイクの調子が悪いのか、途切れ途切れに教授の声がした。教室の隅に座っていた学生が、ノートパソコンでフリーゲームをしている。シャープペンシルの芯が折れたその瞬間、太股の間に挟んでいたスマートフォンがメッセージを通知した。教授が黒板のほうを向いたのを見てから、画面を確認する。『授業おわ』、いとちゃんからのメッセージが表示されていた。返信はしなかった。


 * * * * *


「食堂、まじで人多いな。弱小大学のくせに」


 片手にスタミナ丼のトレーを抱えたいとちゃんが、吐き捨てる、みたいに言った。「弱小大学」、言葉を反復する。白身魚のフライ定食のトレーを持っていないほうの手が行き場を失っていた。


「テラス席行こうよ。あっちなら空いてるでしょ」


 私の提案に、「ん」、いとちゃんが返事をする。ガラス張りの扉を開けた瞬間、彼女の三つ編みが大きく波を打った。外は、四月末という時期をそのまま体現したような気温をしていた。


「全員次元を落とせばいいと思うんだよ私は」

「そうすれば平面だもんね。スペースはできるかも」

「違えよ。二次元になれば少しは愛せるってこと」

「あー」


 あー、じゃねえよ。いとちゃんが鼻息を荒くして言う。まるっこく縁取られた眼鏡の表面に日光が反射していて眩しかった。


「いとちゃんの眼鏡、レンズが反射して碇ゲンドウみたいになってる」


 いとちゃんは低い声で「エヴァーに乗りなさい」と言った。「違うだろそれは」、意図せずして猿のようになってしまった笑い声の横を、見知った顔が通り過ぎていく。いとちゃんのレンズはまだ日光を反射していた。


「あ、新井。と、伊東」


 横から、高橋が声を掛けてきた。「ん、おはよう」、手を挙げながら挨拶をする。いとちゃんはちいさく会釈するだけだった。


「新井。欧州文学の授業さ、先週の課題なんだっけ」

「まだやってないの? 女遊びばっかりしてるからだよ」


 高橋は、「うっせ」と口では言いながらも、嬉しそうに笑っていた。「女たらしの男」という属性を与えられたことに満足しているようだった。高橋はそのまま、喫煙所のほうへ歩いていった。


「男とばっかり喋りやがって」


 高橋がビニールハウスのような喫煙所に吸い込まれていったあと、いとちゃんが顔をしかめてそう言った。「べつに」、私を貶める気がないとわかっているから無難な言葉を返す。


「いとちゃんも男と喋ればいいじゃん」

「陰キャだから無理だっての」


 いとちゃんはよく自分のことを「陰キャ」と自称する。不名誉な称号であるにもかかわらず、彼女はそういう人間として生きることを是としているようだった。友達いない、彼氏もできない。嬉々として独り身を語るくせに、いとちゃんは世間的に定められた何かのカテゴリーに所属したがった。


 初めて地球儀を見たとき、世界がひどく縮まったような気がした。世界は、地図に先行して存在してなどいなかった。論理的に考えれば「世界」があって初めて「地図」が生まれるのだろうけど、私はそうは思わない。世界を計測した結果地図が生まれるのではなく、地図があって初めて国境や国という概念が生まれるのではないだろうか。


 この世に存在するものはすべて、世間の決めた属性のようなものに所属しているのだと思う。いとちゃんや高橋は、「陰キャ」や「女たらし」というひどくわかりやすい属性に存在したがっているようだった。彼女らのための言葉はそこになかった。ひとつの大きな括りのなかでしか生きていないようだった。ふたりとも、その一言では表せない部分がたしかに存在しているはずなのに。


 いとちゃんはスタミナ丼を器用に箸で掬いながら、タイムラインに流れている「推し」のつぶやきを必死にリツイートしている。彼女に倣って巡回したツイッターに飽き始めたころ、いとちゃんはゆっくりと顔を上げた。


「もう行くわ。次、全学講義棟だから」

「はーい」

「新井も早く行けよ。もう休めないんだから」

「わかってるけど」


 いとちゃんは得意げな笑みをこちらに向けてから、トレーを片手に食器返却口へと歩いていった。遠ざかっていく彼女の背中が、距離以上にどんどん小さくなっていっく。自動ドアが豆粒のような背中を覆い隠してから、ナプキンを持っているか訊き忘れたことに気づいた。血が、どばっと流れていくのを感じる。まだ漏れていないから、いますぐに買う必要はなさそうだった。


 * * * * *


 見立てが甘かったようで、自宅の鍵を開けるころ、ネイビーのワンピースは死んだ。ショーツは血の塊でぐちゃぐちゃだった。家に誰もいないのは運がよかった。死んだやつらは、着替えを済ませたあと、洗面所で手洗いした。


 一度ベッドでツイッターを見てからナプキンを買いに行こう、と思った。


 誰でもない誰かの呟きを眺めながら、適当にいいねを押し、画面をスクロールしていく。知り合いのいいねで流れてきたツイートに、「ソシュール」の文字を見た。シニフィエと、シニフィアン。つまりは言葉を形成する「概念」と「音」のことであると教授は説明した。概念なんて人によって変わるんだから言葉を決定づけようがないじゃないか。そういう私の考えが表面化されるよりも早く、教授は「そういうもの」と結論づけた。


 気づけば身体はマットレスに貼り付いていた。剥がそうとしても、癒着しているみたいに動かない。あーあ、と思った。私はナプキンを買いに行くことができないようだった。


 双極性障害、という病名を聞いても実感は湧かなかった。私は私というひどく怠惰な人間なだけで、それが心の病気によるものだと言われてもいまいちピンとこなかった。ひどく鋭い響きをしているそれは、私に逃げ道を与えただけだった。


 ワンピースとショーツに続き、今度はグレーのスウェットパンツが死んだ。


 * * * * *


 二日目の朝は最悪だった。目が覚めたとき、お尻の下で血の塊が引き延ばされるのを感じた。早くいろいろなことを整えないといけないのに、この先に待っていることを考えるだけで、立ち上がることすら億劫になる。なるほど、と思った。鬱とはこれのことだった。


 枕元に手を伸ばし、スマートフォンを探す。今日もツイッターのみんなは元気いっぱいだった。最初に目に付いた、「今日はお気に入りのカフェで朝食!」というツイートにいいねを押す。続けて開いたインスタの最新の投稿は、高橋が男女数人でバーベキューをした報告だった。それには反応せず、すぐにアプリを落とした。


 ソシュールが「言葉」というものを、シニフィエとシニフィアン、つまりは概念と音に分類したのは最悪の革命だったと私は思う。言葉というものがただ音の連なりで構成されるものではなく、そのなかに概念という部分を含んでいると見なすことは、言葉を誰かが誰かなりに解釈することを許容しているのと同等だった。


 私は双極性障害の女の子に分類された。言葉が持つ本来の意味ではなく、双極性障害という属性の、もっといえば「病んでいる女の子」「繊細に扱うべき」、さらに極端な表現をすれば「イタい女」「メンヘラ」という種類の人間が私だった。


 その日、私はアルバイトを休んだ。生理二日目とは全く関係がなさそうな重さがそこにあった。マットレスは死んだ。


 * * * * *


「今日は暑いですねー。ジャケット着てきちゃったよ。来週はもう連休でしょ? みんなは遊びに行くんだろうね」というのが教授の使った導入の言葉で、次は「前回はイメージが現実に先行するとは限らないって話で終わったね」だった。


 誰かがくしゃみをして、私はそちらへ気を向けないように黒板の文字を追っている。人が恥ずかしがるような瞬間を直視してはならなかった。世間的に分類されたそういう礼儀の概念がこの教室にはあった。


 私は先週の授業で座ったのと、全く同じ席を使っていた。青いメッシュで編み込まれた座板のまんなかには、黒い染みができている。私が作ったものかはわからない。どこかでカルキのような匂いがした。感染症対策で開放されている窓から、小さな虫が入り込んできた。がたん。思わず飛び退いて避けてしまってから周囲を見回してみても、誰かと目が合うことはなかった。


 * * * * *


 新刊の文芸本をプロモーションテーブルに並べていると、レジの応援チャイムが鳴った。数メートル後ろ、レジのほうへ視線を向けると、店長が目を細めてこちらを見ていた。慌てて手に持っていた本を置き、レジへと足を進めていく。


「お並びのお客様、こちらのレジへどうぞ」


 声がほんの少し震えて、情けなくなった。客はそのことを大して気にしていなかったようで、「袋ください」と抑揚のない声で言った。私は本屋の店員というカテゴリーに分類されていた。それがいまの私の属性だった。そこに私という人間はいなかった。


 平凡でない何かになりたくて、必死に勉強していい大学に入ったり半分趣味でやっているイラストレーターに時間を費やしたりしたのに、その結果生まれたのは「いい大学に通う女の子」であり、「絵が上手い女の子」であって、そういう属性を持つ私ではなかった。属性のなかにいる、任意の人間でしかなかった。学生Aだった。


 生理が来ていた先週の間に、私が新しいナプキンを買いに行くことはなかった。三日目になれば血の量が減って、少ない昼用のナプキンで事足りるようになっていた。来月までに新しく買い直す必要があるのに、一ヶ月という周期が、ひどく短いように感じた。その間に身体の重さを克服する未来が見えなかった。


 勤怠管理用のノートパソコンで退勤登録をしたあと、店長に声を掛けられた。店長の小言は、「さっきレジの応援呼んだときさ、もっと周りを見て状況判断できるようにしようか」から始まり、次に、「ついでに言うんだけどさ、最近休みすぎじゃない?」という話題に切り替わった。私は怠惰なアルバイトAになっていた。


 現実がイメージに先行すると、どうして言い切れるのでしょう。教授はそう言っていたが、私からしてみれば、どうして現実がイメージに先行すると考えているのかわからなかった。現実は、人々の想像に準じて形成される。その人の見ている景色が現実として捉えられているのであって、それは間違いなく想像によって形成されるものだった。そうでなければ、私は、世間的に存在する「双極性障害の女の子」という属性ではなく、私という人間として存在できるはずだった。


「もう何年かすれば社会人なんだからさ。こっちは学校じゃなくて、商売をやらせてもらってるの」

「すいません。私、双極性障害で、心の病気なんです」


 私は、私という人間として存在しているはずだった。しかし、もしかしたらそれも、私のイメージでしかないのかもしれない。レジの応援チャイムが鳴っていた。「いらっしゃいませ」の声がいくつも重なっていた。


 空気は重たくなっていた。人が恥ずかしがるような瞬間を直視してはならなかった。世間的に分類されたそういう礼儀の概念がこの書店にはあった。


 いとちゃんは、何か社会的な属性に当てられていたほうが楽だと考えているのかもしれなかった。「陰キャ」や「オタク」を自称し、丸い眼鏡とおさげを身に纏うことで、人は世間の考える「陰キャ」や「オタク」としての像を勝手に形成してくれる。自分である必要はなかった。


「えっと、まあ、それなら仕方ないけどさ……」


 びっちり整えられた店長の髪には、数本、白い光の筋が入っていた。いくらか言葉を交して店を出るとき、「事情はわかったから無理しないで」と言われた。その言葉は私という人間に向けられていなかった。シニフィエとして、双極性障害という枠組みのなかに存在する、概念だけに放たれていた。


 マットレスは死んだままだった。買い換える必要があるのに、身体はひどく重たかった。

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