味のしないあめ玉:4/4

 二月の雨は重たい。陰霖という言葉がぴったりだと思う。雨が降っていても学生は登校しなければならないし、社会人は出勤しなければならない。きっと電車のなかは湿気や人々の憂鬱な感情で空気がヒリヒリしている。学生からも社会人からも外れてしまった私は、小説を書くために近くのカフェへ足を運ぼうとしていた。酸素の薄い自室に籠もっていたらすぐに腐ってしまいそうだった。憂鬱な気分のときは例外なく頭が重いから、やっぱりその感情は質量を持っているのだと思う。皮膚と肉の間に入り込んだ水分とかより、もっと抽象的なものの重さがたしかに存在している。


「彼氏でも作れば生きようって思えるんじゃない?」


 いつかアキにそう言われたことがあった。私に恋愛はできない。自分が生きることだけでも精一杯なのに、他人のいのちの責任を背負って生きていくほどの耐久力をこのこころは持っていない。それに、いつか子どもができてもその子に生きることを押し付けるのが怖い。「産まなければよかった」「産んでなんて頼んでない」というテンプレートみたいなやりとりは子ども側に分があると思う。生を望んでいたわけではないのに生まれ落ちてしまったことの苦しさが、そのまま身体の重さになっている。


 自分に小説を書く才能はないとわかっているけど、それでも未来に何も希望を抱いていないよりはだいぶマシだった。「好きなことをやりな」と言われたからやっている。数少ない「好きなこと」を消去法で選びとっていた。


 ノートパソコンに貼り付いていた視界がぶわっと広がるのを感じ、その瞬間に自分の集中が切れたのだと知った。最後に見たときは湯気が立っていたコーヒーも、いまでは一口飲んだだけで吐き気が襲ってくるような、酸っぱいだけの褐色液に変わり果てていた。嗅覚は少しずつ、ほんの少しずつ回復してきている。しかしコーヒーの香ばしいアロマのような匂いはまだ感じ取れなくて、独特の臭みだけが鼻腔に籠もるみたいに広がる。私がコーヒーを飲んでいるのは、ただ惰性でそういう選択をしているだけだ。無機質な味だけを身体に取り入れたくなるときがある。甘味みたいに脳が両手を挙げて喜びそうなものではなく、もっと無表情で、こころを動かすには及ばない程度の味がいい。たぶん、「泣ける」とか「大声で笑った」とかで話題の映画を見たくないときと同じようなものだと思う。こころが感動するのをめんどくさがっている。内容がないものを求めている。


 携帯を見ると時刻はちょうど十八時になったところだった。今日はいつもより進捗がいい。自分が書くレベルの小説に味を見いだすほどの価値があるかはわからないが、生きていくためには何か可能性があるものに縋らなければならなかった。いや、生きるためというより、死なないために自分を追い詰め、味を求めている。


「五百三十円になります」


 財布の小銭入れにはちょうど五百円玉と十円玉が三枚あって、今日はいい一日だったなと思った。朝の星座占いで一位だったみたいに、それ自体がなにかいい影響をもたらすわけではないが、味のない日常でもそういう細かなことでこころが躍る瞬間がある。「レシートは大丈夫です」、軽く頭を下げたあと、背中に「ありがとうございました」の声を聞きながら店の自動ドアをくぐった。


 父の退院以降、母は柔軟な態度へと戻っていた。私は許されたのだろうか。母がよくわからなかった。


 日が暮れても外は少しだけ暖かかった。街灯に明るく照らされた街路樹が風でわさわさと揺れていて、歌っているみたいだった。いつもは帰宅してから風呂に入り、両親と夕食の時間をずらすようにしている。母との付き合い方を考えていた。どうすればいいのか、ずっとわからなかった。母はもう五十近くで私のほうが力は強いはずなのに、それでも母という存在が怖い。支配者と被支配者の関係は力によるものではない。同じ空間に家族として暮らしているから、どうしても歩み寄る必要があった。


 何事もなかったかのように、恐怖なんて感じていないみたいに振る舞っていると、こころがすり切れていく感じがする。それでも、以前の苦いだけの関係ではないのだから、私はいまの比較的甘い関係に順応して生きていかなくてはならないのかもしれない。


 今日は小説が進んで気分がいいから、こういうときこそ一緒に夕食の時間を過ごすべきだ。自転車がいつもより速いスピードで風を切っている。私自身が人と話すことを望んでいるような気もした。距離が縮まった明日を想像して、ほんのちょっと、こころが浮遊する。


 自宅へ続く最後の角を曲がったとき、家の前に知らない車が停まっているのを見た。客が来ているようだった。こんなときに限ってとも、いいタイミングだとも思った。リビングの半分もない狭い庭に自転車を停め、バッグのなかから鍵を取りだす。玄関の扉を開けて、それからアルコールを手によく揉み込んだあと、手を洗うために洗面所へ向かった。「あ、帰ってきた」と聞こえた。その声から、家に来ている人間の正体が姉だったと知った。


「ただいま」


 父の取り繕ったみたいな「おかえり」のあと、食卓に着いていた姉がこちらを振り返り、「あずさ、元気?」と言った。元気だよ、テンプレートみたいな言葉が口を衝く。


「おかえり。お風呂?」


 台所から母が顔を出す。机には三人分のカレーライスが用意されていて、私が先にご飯を食べると伝えたところ、三十秒ほどして食卓にもう一つのカレーライスが追加された。姉は昔から母のカレーが好きだったから、事前に来ることを伝えていたのかなと思った。


「あずさ、最近どうなの?」

「普通」


 テレビが映しだしている旅番組の、芸人のいやに大きな笑い声がリビングの空気を震わせている。「普通って」サラダにドレッシングをかけていた姉が笑いながら言った。自殺に失敗してどう生きていけばいいかわからない。正直なことを口にしたらどうなるだろうと思った。母が私の向かいに着いて、「ゆず、ドレッシングかけすぎ」と胸の内側で笑うみたいに言った。


「大学ちゃんと行ってんの」


 テレビに視線を貼り付けたまま、姉が抑揚のない声で言った。私はどう答えるのが正解なのかわからなくて、「うーん、まあ」、あまり話を聞いていないみたいにわざと曖昧な返事をした。


「いまね、休学してるの」


 私の代わりに母が答えると姉はようやくこちらを向き、「なんで?」と目を丸くした。母と姉、二人ぶんの視線が私に集まる。自分で言ったくせに回答を丸投げした母にも、テレビを見たまま会話に参加してくる気配がない父にも、私に興味なんてないくせに追い詰めるような質問をしてくる姉にも、それから大声でつまらないことを言うテレビのなかの芸人にも、腹が立った。フルーツゼリー、みたいな匂いが頭のなかに再生された。カレーとのあまりのミスマッチさに吐き気がした。


「まあ、やりたいことが」


 テレビを眺めながら、自分の食べる手が止まっていたことに気づいて、控えめにカレーとご飯をすくう。口に含むと、コリアンダーだかカルダモンだかの爽やかな香りが一気に鼻を抜けていった。はしっこのほうの、少し冷めてカレーの水分を吸ったべちゃべちゃのご飯が気持ち悪かった。


「あずちゃん、大学はどうするの?」

「……えっ、どうするって」

「来年度は復学するの?」

「……でも、好きなことをやっていいって」


 喉が収縮していることに気づいて、慌てて言葉を止める。声が湿っている。姉と母の視線が鋭利な刃物みたいに私に突き刺さっている。肺の辺りから出てきそうな嗚咽を必死に宥めていると、堪忍袋の緒が切れた、みたいに母の息を吸い込む音がした。


「うん、たしかに好きなことをやればって言ったけど、ほら、将来のことを考えると、小説なんかより、ね?」


 カレーは甘口だった。サラダから汗のような匂いがした。父がどうでもよさそうなテレビのコマーシャルを眺めながら黙々とカレーを食べているのが気にくわなかった。


「まあ、お母さんの言うとおりだと思うよ」


 いまここで、包丁を胸に突き刺して死んだら二人はどんな表情をするだろう。私が初めて死のうと思ったのは十四歳の時でした。遺書、自殺する前に最期の文章を書いたのは、母に対する当てつけでもあった。どうしてこうも上手くいかないのだろう。何かを成し遂げようと一歩踏みだしてみても、エスカレーターを逆走するみたいにどんどん後退していってしまう。味が見つかりそうと手を伸ばしてみても、あと数センチ、届かない。小説を書くことで自分を追い込んでいた。自分を追い込むことで死んでしまわないようにしていた。ほんの少しだけ、生きてみようと思っていた。


「本当に申し訳ないけど、お父さんだってあと何年かしたら退職なんだし、貯金もしなくちゃいけないの。小説を書いて生きていくつもりなら、一人で暮らして――」


 ああ、私は邪魔だったんだなと思った。母にとっては私が家にいても不快なだけだし、夫を危険な目に遭わせたやつなんかもう視界に入れたくないのかもしれない。私は最初から、この家に必要な存在ではないようだった。


 通常の親子のように仲良く、とまではいかなくてもいい。ただ、自然に話せればよかった。何か糸口を掴めたわけではないけど、時間を掛ければ上手くいくような気がしていた。私だけ、だった。一人で距離感とか話し方にぐちゃぐちゃ悩んでばかりいた。私が死んだら父との関係にヒビが入るから甘味を与えていただけで、母は、すでに中途半端なこの距離を保つことに決めたようだった。そういう茶番に飽きてしまったのかもしれない。私だっていままでのことを忘れて生きたかった。母が私の前に並べてきた言葉とか平手とかを思いだして身体の熱を上手く消火できずに一人で掛け布団を抱きしめる夜がこの先ないと保証されればもう少し生きてみようと思えたはずだった。こんな年になって母の前でトイレに入ることを躊躇ったりふとしたときに身体を硬直させたり、あるはずのない叱責が頭の中でぐるぐると再生されているせいで普通に生きることもままならなかった。そういう日は大体夢の世界で幼いころの私が虐げられている。母に殴られて何回も感情を殺してしまったから、上手く夢を見られないのだと思う。人生に味を見つけることができないのに、カレーのスパイシーな香りがするのが情けなかった。


 * * * * *


 車のエンジン音に耳を塞がれながらぼうっとSNSを眺めていたところ、「明日から新社会人!」という呟きが目に留まった。画面をスクロールし続けていた指が、ぴたり、画面の中央で停止している。車が減速して身体に制動力が働いたとき、下から上へ、力いっぱい指を滑らせた。知らない人たちの呟きが勢いよく流れて消える。「はあ」、なんとなく吐いた溜息が思いの外大きくて自分でも驚いた。


「どうしたのさ?」


 運転席からアキの弾むみたいな声が飛んでくる。街灯が、街路樹が前から後ろへ流れていく。知人に似た容姿の通行人を見かけたが、本人かを確認するよりも先に見えなくなってしまった。


「……煙草、なくなりそう」

「コンビニ、寄る? それとも新居に物運んでからにする?」

「あとでいい」


 遠心力が働き、シートベルトに守られたからだがほんの少し傾く。アキとは互いに謝り合ったわけではないけど、それでも同じ曜日を二、三度迎えるころにはあの日こころを埋め尽くしていた熱や苦味をどうでもいいと感じるようになっていた。私のこころは、その怒りを抱き続けるほどの耐久力を持っていなかった。アキのほうも顔を合わせたときは「久しぶりー!」なんて声を弾ませていたし、これが大人になるということなんだろうなと思った。


 大学に復帰するかはわからないが、その可能性を考えて新居は大学の付近で契約した。駅から離れているおかげで周辺の家賃は安いし、アキの家からもそう遠くない。車はないが、自転車でもある程度の生活はできるはずだ。


 引っ越しをするにあたって、家具をいくらか移動させる必要があった。とはいっても大型家具の受け入れはほぼ完了しているから、あとは生活に必要な小物と収納用品を運ぶだけだった。それでも自転車では限界があるから、アキの「手伝うよ」という言葉に甘えさせてもらうことにした。


 いまのところは非日常に追われているから当面の間は大丈夫だけど、これが日常になったらつまらなくなってしまうんだろうなと思う。レジ袋が有料化した日常にも、マスクを付けて出掛けるのにも、それから嗅覚が異常な状態にも随分慣れてしまった。味がない食事を摂ることが日課になってしまった。人生に味を感じ続けるというのは、やっぱり無謀で途方もなかった。


 生きていくことの責任を、母に押し付けようとしている。生きていく能力が足りない理由を、愛情を注がれなかったせいにしている。姉が来ていたあの日、母の言葉でこころの重さが増したのは私が小説を書くことを否定されたからだと思っていた。それまで、霧のなかでさまようみたいに生きることを認めてくれる人がたしかに存在していると勝手に捉えていた。たぶん、本当は、自分がそうやって生きることの責任すら他人に委ねていたのだと思う。母が私を殴ったせいにしようとしていた。アキが言っていたとおりだった。私は、自分の不幸に寄りかかることでしか生きていけなかった。いまこうして生きていくための品を買いそろえていることが、この先も生きていかなければならないという義務を背負わされているようで悲しかった。だれも私に生きることをやめさせてくれなかった。


「ほら、あずさ、そっち持って」

「うん」

「ちゃんと持ってよ。しっかり食べないから力が出ないんだよ。ほら、これあげるから」

「なにこれ」

「飴」


 家に着いて荷物を移動させ終えるころには夕焼けチャイムの時刻を過ぎていて、私は疲労のあまり冷たいフローリングの床にべったりと寝そべってしまった。身体の重さが消えることはなかった。


「煙草吸っていい?」

「ベランダなら」

「おっけ」

「待って。私も行く」


 私が地面を這ってさきほど投げ捨てたサコッシュへ手を伸ばしていると、突然アキが、「ねえ、ここにさ」と言った。


「なに?」

「……いや、やっぱりなんでもない」

「言って」


 アキは「うーん」と唸ったあと、「どうでもいいことなんだけどさあ」と付け加えた。フローリングは冷たかった。


「ここにさ、亀を放ったらおもしろそうだなって」


 あっけからんとした表情でアキが予想外のことを言ったから、自分の意思とは関係なしに「はあ?」と間抜けな声が漏れてしまった。


「この殺風景な場所で、水辺もない部屋を亀が這ってるの。なんかおもしろいじゃん」

「いのちに対する冒涜だよ」

「ごめん、あずさがそれ言うことのほうがおもしろかった」


 ベランダの扉は重く、開けると錆び付いているみたいな匂いがした。砂で汚れたベランダを見て、あとで掃除しようと思った。それから自分が生きるために行動しようとしていることが堪らなくおかしかった。火をつけた煙草を思いっきり吸い込むと、肺が、心臓が、針で刺されたみたいに痛んだ。臓器ひとつひとつに有刺鉄線が巻き付いている。私が気づかない間に身体を壊してほしかった。


「このあと彼との予定があるから。またね」


 灰皿に沈んでいく煙草の最期を見届けていると、アキが私にそう言い残し、それから部屋を出て行ってしまった。「じゃあね」、私が発した別れの言葉がかなしく冷たいフローリングの上を転がっている。アキにもらった飴を舐めようと思い、太股の熱でほんのり温かくなったあめ玉を口に放り込んだ。


 片付けをするため、母が包装してくれた段ボールを開封する。休日の映画館みたいにぎゅうぎゅう詰めの服たちを、先ほど購入したケースに収納していく。昔に母が気まぐれで買ってくれた緑色のワンピースを、梱包材と一緒にゴミ箱へ放り投げた。ふわりと宙を舞うワンピースを見て、これが私の答えだと思った。手から離れた拍子にたたまれていたのが崩れ、それからゴミ箱の表面を覆ってしまったことに、なんだか堪らなく腹が立った。二つ目の段ボールを開封すると、なかから小中学校の卒業アルバムや文集が出てきた。見開き、もとは白紙だったはずのページが同級生からのメッセージで埋め尽くされている。私の何事もなく振る舞っていた証がページいっぱいに広がっている。たまたま開いたページの真ん中で、中学二年生の私が無邪気にピースをしていた。アキにもらった飴の包装には「ストロベリー味」と書いてあったのに、鼻から空気を抜いてみても全く匂いがしなかった。


『初めて死のうと思ったのは十四歳の時でした』


 何事もないみたいな顔で笑っている。幸せそうな、楽しそうな、情けない笑顔だった。妬ましかった。まだ膨らみかけの胸も、煙草やマスクで荒れる前の肌も、未来に味があると信じているその目も全部が腹立たしくて羨ましくて、この瞬間に熱を生んだからだを冷却するため、過去の自分を燃やしてしまおうと思った。台所に卒業アルバムを持っていって、フライパンに載せ、傍らにあった油を回しかけた。この家のキッチンはIHだから、ポケットに入っていた百円のライターで火をつけた。三年間に及ぶ中学生の記録がたった百円に燃やされてしまうのがおかしくて、ざまあみろと口に出してみた。いきなり燃え広がるものだから、うっかり親指の先をやけどしてしまった。


 ぱち、ぱち、軽快な音を立てて卒業アルバムが黒く変色していく。黒い煙と灰色の煙がぐちゃぐちゃに混ざっているのを見て、綺麗だと思った。


『火事です、火事です――』

「あ」


 突然、火事を知らせる女性のけたたましい声が部屋の空気を切り裂いた。しばらくして、火災報知器が作動したのだと気づいた。慌ててコップに水を汲み、フライパンのアルバムにかける。ぶしゅ、大きな音がして、煙とも水蒸気ともわからない灰白色の塊がキッチン台いっぱいに広がった。火が消えたかどうかわからなかったから、フライパンを手に取り、水を流しっぱなしのシンクにそのまま放り込む。水道から流れる水がフライパンでジャンプし、私の白いブラウスへ飛びかかってきた。煙が私のこころの空の部分へと移動し、次第にその色を薄めていった。


 コロナウイルスで味に異常が出たとき、それが治ったことに気づかない場合があるらしい。違和感を抱きながら生活し続けて、それが癖になり、完全に味覚が戻っているのに「まだ治っていない」と思いながら生きている人がいる。それと同様に、人生に味が戻っていたとしても私はそれに気づかず生きていくのだと思う。昔、アキと一緒に旅行へ出掛けたときのことを思いだした。旅行することより、二人で雑誌を見ながら計画を練ることにこころを躍らせていた。本来の目的をこなすことより、そこにたどり着くまでのほうが楽しい場合がある。私はもう二度と人生に味を見つけることができない。そう考えると、楽に生きるという点では、何も知らずに味を追い求めていたときがいちばん生きている状態に近かった。「おはようございます」「おやすみなさい」、母に無視されてもその挨拶だけは欠かさなかった。幼いころの私と母を繋いでいたのは、その二つの苦ったらしい挨拶だった。これからの私たちを繋ぐのは、きっと上辺だけの、味のしない挨拶なのだと思う。


 表面やページのふちは焼け焦げていたものの、アルバムの中身は大きなダメージを負っていなくて、ページの中心でピースサインをつくっている私は、私を馬鹿にしているみたいに無邪気な笑顔を浮かべたままだった。その顔に力いっぱい爪を立ててみると、黒板をひっかいたみたいな音が耳に伝わってきて思わず身震いしてしまった。腹が立ってそこにライターを翳してみると、私の笑顔はいとも簡単に黒く見えなくなった。熱の重さに引きずられ、視界の解像度が下がっていく。生きなければならない責任みたいなものに、重力が上手く引っかかっている。死にたい人が前を向くことなんてあり得ないと考えていた。それはやはりあり得ないことだった。たぶん、死にたい人は前を向けてなんかいない。だからこそ、物語の、作り話の、もっと言えば嘘ばかりの世界に逃げたくなるのだと思う。


 ここで生きていくためにまず必要なのは、人生に味を見つけるなんて途方もないことではなく、手頃なロープに目がいく癖を終わらせることだった。

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