『ハッピーサブスクリプション』

ハッピーサブスクリプション

 昇降口の空気が同級生の喧騒でぴりぴりと揺れている。落っこちてしまいそうな瞼を引き上げた拍子に、身体じゅうから生きるための活力みたいなものが蒸発していった。声、形のない文字たちが脳のまんなかに入り込んできて、今日もまた眠たい一日を過ごさなくてはならないことにぐっと心が重くなる。


「もう十二月になったね。どうする?」


 なんの脈絡もなく理火りかが言った。その声を聞き、浮遊していた意識が本来あるべき場所に戻ってくる。


「どうする、とは」


 校舎のなかは暖かかった。彼の言いたいことを十分理解しているのに、少しでも多く言葉を交していたくてわかりきったことを訊き返している。廊下の向こう、同級生が耳をつんざくような笑い声を上げた。


「今月、付き合い続けるかどうか」


 靴を履き替えながら、ほとんど表情を変えずに理火が言った。もちろん私が返す言葉も決まっている。


「うん、じゃあ、もう少しだけ」


 はい、了解。理火の声で毎月恒例の確認事項が締めくくられる。試しに一ヶ月付き合ってみるという前提で始まったこの関係は、月初めに「もう少しだけ」と私が言うことで半年近くも引きずられていた。


「そういえば昨日教えてくれたアーティストの曲、聴いたよ」

「ああ。どうだった?」


 隣にいる彼が、想像上の彼と同じ返事をする。その嬉しさに心が膨張して、身体が内側から破裂してしまいそうだった。


「すごくよかった。あと、理火が好きそうだなって思った」


 理火の口元が少しだけ緩む。基本的に表情を変えない彼だが、私にはそのちいさな違いが私には明確にわかる。特別だった。


「気に入ってくれたならよかった。他の曲もサブスクで出してるから、聴いてみて」


 サブスク。正式名称、サブスクリプション方式。商品ごとに購入金額を支払うのではなく、一定期間の利用権として定期購読を行うビジネスモデル。私たちが使っている音楽配信サービスは、月額を払うことによって好きなだけ音楽を楽しむことができる。


 冬らしい乾いた風が学校全体を包んでいるような朝の、生徒たちが教室の音をかき回す時間帯、私は彼に別れを告げる。またあとでね。彼は何も言わずに片手を挙げ、私の言葉を軽くあしらった。


 二年七組のプレートが低い角度から差し込む日光を天井に反射し、白い壁紙より更に純度の高い白を映しだしている。別のクラスになった私と彼を繋ぐものは音楽部という面白みのない部活と、サブスクリプション方式の恋人関係だけだった。毎月契約を更新しなければ、恋人としての私は理火の隣にいることができない。


 * * * * *


 二年生になってちょうど二ヶ月が経った日の放課後、私は理火と二人っきりで音楽室にいた。ガラス越しに差し込んでくる夏の太陽は空調の性能を軽く凌駕していて、制服の内側に薄く汗が滲んでくる。太股の裏に、スカートのひだが貼り付いていた。


「人から向けられる好意って、それ自体が心を重くさせることがあると思うんだ」


 廊下側の壁に立てかけられた彼のエレクトリックギターが、窓から差し込む橙の光をちょうどよくこちらへ反射している。「と言うと?」幻想的な光が部室から聞こえてくる話し声に重なり、夢のなかを歩いているみたいに手足の感覚が漠然としていた。


「私は誰かから好意をもたれることに向いてない」


 冷房の風がすうっと足元を通り抜けていって、太股の内側から一気に熱が失われる。校則より二、三度多くスカートを折ったことの代償だと思う。


「そう」


 理火はそんな話になんか興味がなさそうに壁際へ歩いていくと、自分のエレクトリックギターを手に取り、ストラップを肩に引っかけた。その拍子に私の視界から橙色の光がすっと消えて、世界がちいさくしぼんだようになる。足を開いてくっついた内股の皮膚を剥がしながら、「でも、恋人はほしいんだよ」、言葉を追加した。


 この高校に軽音学部なんてものはないから、バンド活動をしたい人は音楽部に加入し、歌唱練習の合間を縫って楽器の練習を行っていた。仲の良い友達から「一緒にテニス部に入らない?」なんて誘われたけど、やっぱり私は彼の奏でる音楽を目の前で聴いていたかった。


 五弦、四弦、三弦。太いほうから順にピックではじかれ、二人だけの音楽室に彼から生まれた音色がぽーんとこだまする。あ、あー、んんっ。ギターから放たれる歪みに乗って彼の声がぼうっと浮かび、心よりもっと曖昧な、人としての輪郭みたいな部分に染みこんでくる。


 恋人関係における期待値みたいなものが私は苦手だった。人は足りない部分を理想で補うことがあるから、すべてを曝けださなければ私は期待外れのまなざしを受けることになってしまう。


 私が理火に特別な思いを抱くようになった理由は、彼が私を好きになることはありえないからだった。きっと恋愛になんて興味がない。私は安心して彼のことを好きでいられる。歩いているだけで瞼が重くなるような人生で、彼の存在が唯一の眠気覚ましだった。それなのにいままで友達という関係を続けすぎたぎたせいで、今更どういうアプローチをかければいいのかわからなくなっている。


「ねえ、理火が恋人になってよ。試しに一ヶ月だけでもいいから」


 ぴたり、演奏が止まる。一瞬だけ周囲から音がなくなって、あれ、私、何言ってるんだろうと思った。


「別に、いいけど」


 ずるい方法を取ってしまったのに、結局はその返事だけで彼と特別な関係になれるならそれでよかった。彼のギターから橙色の音がこぼれ落ちて、私はようやく自分がこの学校の生徒として生きていることを思いだす。私は彼の奏でる音楽が好きだった。


「やった。これからよろしくね」


 私は彼が好きだった。


 * * * * *


 予報された気温は低かったはずなのに、太陽の熱に引きずられて数字上の温度よりもずっと暖かくなるから冬という季節はひどく不便だと私は思う。ブレザーのボタンを下から順に外しながら、隣から聞こえてくる彼の低い声に身を委ねる。


 あのバンドが人気とかあの曲がいいとか、そういう生産性のない会話をしながら一緒に帰ることが日課になっている。電車に乗って改札を出てしまえば私は彼に手を振るしかないのだけれど、それまでの三十分こそが私の学校生活そのものだった。


 話題をいくつか消費して互いに話を切りださなくなってきたころ、車内モニターに自宅最寄り駅の名前が表示された。日本語、英語と言葉が移り変わっていく横で、流行りの芸能人が生ビールを煽っている。帰りの電車はいつも満員だ。そのおかげで登校時よりもほんの少し、彼との距離が近くなる。電車が揺れた拍子に手と手が触れ、私は視線のやり場がわからなくなった。気にしていないような彼の横顔に置いた視線が、英語教室の広告を経由し、それから窓の外をふらふらと彷徨っている。


 改札を出てこれから手を振ろうというとき、「あのさ」、彼が無表情のまま口を動かした。「ん?」私の返事がマフラーの内側に籠もっている。


「終わりにしない?」


 そういえば、CDリリースおめでとう。用意していた言葉が、「え」、ひとつの文字に取って代わられる。その言葉は口を経由せず、直接空気に溶け込んでしまったようだった。


「なにが」

「……俺たちの関係」


 サブスクリプション方式、つまりは定期購読システムの恋人関係を理火はどのように表現したらいいかわからない様子だった。「え」、「でも」、単独で意味を成さない言葉がいくらか飛びだしていったのち、「どうしたの?」、ようやく文脈に合った問いを紡ぐことができた。


「好きな人ができた」


 彼はそう言うと、ちいさく眉尻を下げるようにして笑った。「閉店のお知らせ」の文字が目に入って二度見したとき、それがいつか行こうと思っていたパン屋の残骸だったことに気づいた。


「そうなんだ。でも、まだ好きって伝えるつもりはないんでしょ?」

「うん、まあ」


 空が燃えていた。あの日彼のギターを照らしていたものよりも強い光が雲を貫通し、私と彼が並んで歩くこの空間すべてに橙色の属性を付与していた。夢の世界の脚で歩いている。低い角度から差し込む日光が視界をぐっと外側に押し広げて、意識がほんの少し浮いている。私と外側の境界が曖昧になっていた。


「じゃあ、月末までは付き合っていようよ」


 今更好きという気持ちを伝えられなくなっていた。卑怯な手を使って彼の側に身を起き続けたことの代償だと思う。私はもっと正攻法で彼と交際しなくてはならなかった。


 なんとなく視線を上げた先で数羽の名前もわからない鳥たちが列を成し、夕焼けの空に消えていった。遠くで消防車のサイレンが聞こえる。もしかしたら向こうの雲を消火しようとしているのかもしれない。利益がなくなってしまえば、契約を切られるのは時間の問題だった。


 * * * * *


 バレンタインデーの雰囲気が強調されるようになると、私たちの関係はあっさりと終わってしまった。帰り道のいやに乾燥した空気が目に突き刺さり、涙を引きずりだそうと躍起になっている。


 これまでだったら隣にいたはずの彼は音楽室に残ってギターを弾いている。私はここで何をしているんだろうと思った。高架から流れ込んでくる騒音が周囲の生活音を丸ごと飲み込もうとしている。空はまだ青いままだった。綺麗に晴れ渡っている様子がマンションやビルの隙間に見える。


 こうして正解だったと思うよ。俺が美和を好きになっても困るでしょ。理火の乾いた声を思いだす。反対に私は湿り気を帯びた声で「あはは、たしかに」なんて笑っていた。


 リュックからヘッドホンを取りだし、スマートフォンに接続する。私の指に反応して起動した音楽配信アプリは、「最近追加した項目」のスペースに理火のバンドが出したCDのジャケットを表示していた。選択、再生。これまで何度も指で行ってきた動きを、半ば無意識に辿っていた。


 もし僕が死んだら。歌いだし、彼の声で再生された文字に合わせて唇を動かしてみる。音楽室の橙色の光がぼうっと頭に浮かび、そこで彼が歌っていた。理火と自分が一体化したような感覚になる。言葉の所有権が曖昧になる。サビの前に彼が一息ついたとき、私はスマートフォンからコードを引き抜いた。


 * * * * *


 改札にICカードをタッチして流れのまま進んでいくと、「美和ちゃん、こっち」、やけに明るい声が周囲のざわめきを飛び越えて聞こえてきた。三月の気温は不安定だった。


「すみません、遅れて」

「いいのいいの」


 私の肩に軽く手が乗っかる。同じ部活の先輩だし今まで話したことがないわけではないのに、「ああ、この人が」と思った。理火と彼女が手を繋いで歩く姿を想像し、身体にかかる重力が一段階強くなる。人々の話し声や足音に、身体から乖離した意識が溶け込んでいく。私が電車に乗ったときよりも空はずっと明度を落としてしまっていた。


 スマートフォンをくるくる回しながら横断歩道を渡る先輩にぴったりくっついて歩く。真後ろと向こう岸の両方から偽物のさえずりが聞こえてくる。三月に入ったのに、まだまだコートを手放すことはできそうになかった。


「理火と付き合ったんでしたっけ」

「うん、そう」


 照れているような勝ち誇っているような、いや後者は私の勝手な妄想なのだろうけど、そういう笑顔で先輩は私のほうを振り返った。おめでとうございますと言おうとしてやめた。彼女は以前の私と理火の関係を知ってるかもしれない。負け惜しみのように聞こえてしまう可能性がある。いや、皮肉の感じで言えば多少効果があるかもしれない。結論が出るよりも早く、私たちは目的地に到着したようだった。


「ステージ上の理火、かっこいいんだよね」


 今日は先輩たちの引退ライブだった。理火も後輩バンド枠として出演するらしい。彼のライブに行くのは初めてだった。


 ライブハウスへ続く階段を一段ずつ丁寧に降りていく。地上の喧騒がちいさくなっていくのにつれて、こもったような大音量が少しずつ色を濃くしていった。会議机でできた受付にて取り置いてもらっている旨を伝えると、ドリンク代込みで六百円です、気怠そうにスタッフの男性が言った。お金を払ってパンフレットと入場券、それからドリンクチケットを受け取る。ライブハウスに続く扉は重かった。


 先輩に続いてなかへ足を踏み入れると、それまで籠もっていた音が突然クリアになり、私の身体は音の振動で波を打っているみたいになった。暗い照明と大音量、それから煙草の匂いで五感を封じられている。私の輪郭がほんの少し、薄くなる。


「楽しんでね」


 先輩は私の耳元でそう言うと、笑顔のまま小さく手を振った。心の外側でなんとか笑顔を作り、頷いてみせる。そこらじゅうに演者と観客の楽しそうに話す組み合わせがあって、なんだかやりきれない気持ちになった。スピーカーから直接届けられた音が横隔膜を大きく揺らしている。私はステージライトの届かない後ろのほうへ移動すると、そこに一人ぶんのスペースを陣取った。


 理火の出番はすぐにやってきた。ステージに現われた彼は、弦を一つずつ丁寧に弾きながらチューニングを行っている。エフェクターを通して聞く彼の音は、当たり前だけど、放課後の二人きりの音楽室で聴いていたものとは全く違う音だった。私がもっと上手くベースを弾くことができていたら、彼の隣にいる時間がもっと多かったかもしれない。今日は来てくれてありがとう。彼の声が質の悪いマイクで若干歪んでいる。


 目立ちたがりではないはずの彼が観客へ向けて手を振った。私は怖くてその視線の先を見ることができなかった。淡いライトがぼうっと彼の無表情を照らしている。曲名のコールがあってイントロに入ると、さっきからずっと震動したままの横隔膜がぐっと重さを増した。いま生まれたよくわからない衝動を抑えるため、ポケットのなかで交換する機会を失ったドリンクチケットをぐっと握りしめる。


 もし僕が死んだら。彼が歌うのに合わせて、声を出さないよう、唇だけを動かしてみる。ライブハウスの空気が彼の声で揺れている。声が、ギターの音色が私のまんなかに染みこんでくる。私と彼の輪郭が曖昧になる。サブスクリプション方式の恋人関係を始めたあのとき、面と向かって彼に好きと伝える必要があった。


 ステージ上の理火は、たしかに私の知っている彼ではなかった。生き生きとした、いま死んでもいいと考えていそうなその表情を私は知らなかった。想像上の彼はそんな顔をしなかった。その表情はいまの私がどうこうできるものではなかった。


 * * * * *


 ライブハウスの外は三月とは思えないほど寒かった。冬のような寒さを防ぐため、リュックサックからヘッドホンを取りだす。音楽配信アプリの「最近追加した項目」は彼のファーストシングルからまだ更新されていなかった。これではサブスクリプションを使っている意味がなかった。理火のバンドが出したCDを買えば、私は自分が知らない彼を受け入れることになりそうだった。


 寒さを凌ぐために手を押し込んだポケットにはライブハウスのドリンクチケットが入っていた。彼のバンドはまだ演奏しているだろうけど、やはり戻る気にはなれなかった。俺が美和を好きになっても困るでしょ。彼がそう言って苦笑いしたとき、私はなぜ「理火ならいい」と言わなかったのだろう。正攻法で恋人関係になるには、恋人ではない関係を続けすぎてしまった。


 理火と正面から向き合うためには、彼を好きな私として一からやり直す必要があった。地道でも、今度こそ正攻法で彼と恋人関係にならなければならなかった。


 目の前で赤い光が消失した一秒後、国道にずらりと並んだヘッドライトの列が動きだした。曲調と歩幅をわざとずらして歩く。彼のギターがフェードアウトしていって曲が終了すると、車のエンジン音がぼうっと浮かび上がってきた。とん、とん。太股を叩いていた人差し指がぴたりと停止する。もう少しだけ彼の声を聞いていたくて、手持ち無沙汰になった指先を再生ボタンへ運んだ。

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