味のしないあめ玉:3/4

 外の非常用階段をくだり、療養施設の駐車場に足を踏み入れる。世界が巨大な冷蔵庫に飲み込まれてしまった、そう錯覚するほどの寒さを紛らわせるため、最寄りの日向まで足を進めた。気温は低いのに、日光に引きずられて体感温度が高くなっている。


 数日間生活したぶんの重さでトートバッグがぱんぱんに膨らみ、持ち手が右肩に重たく食い込んでいる。キャミソールの肩紐がちょうど噛み合って痛いのを直しながら、場所を変えて動く日向を追ってふらふらと駐車場を彷徨った。


 視線が地面に落ちる。アスファルトを作っている小石たちがそれぞれ違うかたちをしていた。この数日感染症を理由に人と顔を合わせて話さなかったぶんのツケが早くも私の元へ巡ってきている。この十日間は自分の人生が停滞している理由をコロナウイルスのせいにできたけど、これからは自分の力で生活を前に進めなければならないし、味を付けていかなければならない。右肩から下がるトートバッグの重さはそのまま、自殺に失敗して以来私が放棄してきた生きることへの責任である気がした。毎日を生きていかなければならないことは、やっぱり途方もないことだった。


 なんとなく顔を上げた先で、青い軽自動車がホテルの敷地に入ってくるのが見えた。運転席にいるアキは前に会ったときと変わっていなかった。そういえばアキは感染しなかったんだなと思った。感染したのが父ではなくアキだったら私はここまで思い悩まずに済むはずだった。無意識にそう考えてしまって、自分を戒めるみたいに、手の甲を思いっきり抓ってみた。


「あずさっ! 元気だった?」


 運転席から降りてきた彼女は、療養期間のやりとりに使っていたスタンプと全く同じ笑顔を使い、私の手を軽く握った。傷ひとつない頬の眩しさに、思わず目を細める。「うん。アキは」、私が訊き返すと、彼女はもう一段階笑顔を明るくして、「いつもどおり」、大きな声で言った。いくらか言葉を交したあと、そのままアキの家を目指すことになった。


「家の人に言ってある?」


 窓の外を、景色が横切っていく。車のタイヤに削られて薄くなった横断歩道を、人の波が通り過ぎていく。その景色も、前方から後方へ、川のように流れていった。


「まあ」


 改めて携帯を確認してみても、母からの返信は来ていなかった。だからもしアキの家に泊まったことを咎められたとしても、適当な理由をつけて正当化するつもりだった。お父さんも私がいると気を遣っちゃうでしょとか、もし違う型のウイルスだったら併発して危ないかもしれないとか、違う型があるかどうかもよく知らないのに、とにかくいい加減なことを言ってごまかそうと思っていた。とにかく家に帰りたくなかった。


 アキが住むアパートは私の家から電車で五駅下った場所にある。彼女はこちらの大学に進むため上京してきたと言っていた。思い返してみれば知りあったころからアキはこの軽自動車に乗っていた。彼女の実家は車を何台か持っていたから、そのうちの一台を譲ってもらったと最近になって知った。


「荷物とか家に置いてく?」


 隣に視線を向けると彼女は前方を指さしていて、指を辿った先、そこにあるのが自宅へ続く交差点だったことに気づいた。やはり家に帰る気にはなれなくて、「いい」、少し低くなってしまった声を誤魔化すように「洗濯機貸して」と言葉を追加する。


「はーい」


 アキがウインカーへ伸ばしていた指をハンドルに着地させる。細くしなやかな指が塩化ビニルの地面を這う。右手の薬指をぐるりと一周するシンプルな指輪はたしかに綺麗な光沢を帯びていた。


「一服する?」


 ハンドルを掴んでいた右手がまた浮いて、今度は進行方向右側に位置するコンビニを指した。自宅に近いコンビニを使うのがなんとなく嫌で、「アキん家着いてから」、頭を横に振る。近所のコンビニとか、玄関を出た先に広がっている景色とか、そういう自分の過去を作り上げたものを疎ましく思うことがある。じぶん、という感じがする。それに引きずられて、自分自身が汚いものであるような気がしてくる。名前を書いたときとか、下着をおろして血の付いたナプキンを見下ろしたとき、そこにじぶんがいる。じぶん、じぶん、生活のなかに私がたくさんいて気分が悪くなる。早く自分を殺してしまわなければならないという衝動に駆られる。自分を構成するものひとつひとつが、私に私を嫌わせる。生きるということを嫌にさせる。


「荷物置いたらコンビニ行こう」

「ん」


 私の地元を通過して三十分が経ったころ、がこん、シフトレバーが「R」に入り、高い電子音が等間隔に鳴り始めた。後方のブロック塀がハザードランプの赤で点滅する。光と音のリズムがずれていて、横隔膜の辺りが鈍く湿っていく。


 身体が揺れて、ぴたり、車が停まる。バックブザー、暖房、エンジンの順に音が消える。少しの間訪れた静寂が、アキの扉を開ける音にかき消される。唐突に、生きなければならないことを思いだす。


「どうしよう」

「何が?」


 トートバッグを肩に掛けると、生きることへの責任が重くのしかかった。陽射しは決して強くはないのに、肌が日焼けしているみたいにヒリヒリと熱を持っている。


「これから」


 アキが玄関の扉を開けるとなかから静寂の音がして、私たちが発する音も声も全部が吸い込まれていく感じがした。


「うーん、とりあえず、洗濯機回してコンビニ行こ」

「うん」


 洗面所でひとり手を洗ってから、ようやくアキの家の匂いがしないことに気づいた。ほのかに甘い、紅茶のような匂いが好きだった。

 脱衣所でトートバッグをひっくり返し、なかの衣類を地面に転がす。抜け殻みたいだと思った。やっぱり外出用の服は重い気がした。服の重さごと全部洗い流してほしかった。そういう願いを込めて「スタート」ボタンを押した。洗剤は気持ち多めに入れてしまった。


「それはいいの?」

「血、ついたから手洗いする」

「別に洗濯機使っていいのに」


「うーん」、あえて肯定とも否定とも取られない返事をした。その間にもアキは玄関へ足を進めていて、私が下着をトートバッグに戻し終わったころ、扉の開く音がした。リビングに投げ捨てたバッグから財布と煙草ケースを取りだし、アキのあとを追う。


「マスク」

「普通そんな簡単に感染しないからね、あれ。火、ちょうだい」


 私の手からひんやりとした感触が離れ、「サンキュ」、役目を果たしたジッポライターが帰ってくる。金属製の冷たい肌に指先の熱を奪われ、慌てて私も一本、煙草を咥えた。


「どう?」

「なにが」

「煙草の味。する?」


 耳を澄ます、みたいに鼻から抜ける空気に意識を集中させてみた。喉と肺を痛めつけた空気が、ふわり、口と鼻から逃げだしていく。呼吸に使う空気とは違って、煙草の排気ガスは変な湿り方をしているような気がする。身体を汚すためのものは総じて不快な熱を持っている。


「しない」

「あっは、禁煙できるかもよ?」


 地面のブロックがざらついている。煙みたいに、灰色のムラがあった。煙草の吸い殻が転がっていた。


「ニコチンだけ摂取できればいいから」

「うわあ、ヤニカスって感じするなあ」


 煙を構成する粒子ひとつひとつが太陽の光を乱反射し、一瞬、視界がぶわっと明るくなった。天国、みたいなものを連想した。天使は恐れられる存在であるはずなのに、かわいがられてキャラクター化しているのはなぜなんだろうと思った。煙が空気に溶けていく様子を眺めていると、「ねえ、見て」、アキが口をぱくぱくさせて、イルカのバブルリングのような輪を煙で吐きだしてみせた。


「え、すごい」

「でしょ。あずさが入院してるあいだ、ずっと練習してたわ」

「もっと時間を有意義に使いなよ」


 煙草の匂いは好きではなかった。でも、手軽に身体を汚す手段があるのはいいことだと思う。アキが煙草を吸い始めたと知ったとき、緩やかに自殺しているみたいで羨ましかった。


 大量の脂肪分とかアルコールとか、しばしば身体に悪いものを摂取したくなるときがあった。身体が悲鳴を上げるほど憂鬱な気持ちが減っていく。あとになって、知らないうちに溜まったストレスを自傷によって紛らわせているだけだと知った。リストカットで血を見て生きていることを感じるのとそう変わらないと思う。いや、痛みが少ないぶん、リストカットなんかよりもよっぽどマシだった。


「とりあえず、アルバイトでも始めたら」


 唐突に、アキがそう言った。「うん、そうだね」、少し癪だったけど、テンプレートどおりの言葉を返した。アキは自殺を考えたことがないから私の気持ちを理解できない。一度でも死にたいと願った経験がある人とそうでない人は、未来永劫わかり合えないのだと思う。


 遠くから微かに聞こえてくる消防車のサイレンが、目の前に停車したトラックのエンジン音にかき消されてしまった。死にたい、そういう私の声がアキに届くことはない。反対に、アキの「自分をもっと大切にしろ」が私に届くこともない。地球に落ちてきた隕石が大気圏で焼失するのと同じだった。私の深層心理に届くより早く、こころの熱で燃え尽きてしまう。私は流されやすい人間だから、彼女に相談してもいつの間にか言いくるめられて、そのときだけ「生きてみよう」と思ってしまう。それでも、気づいたら首を吊るのに手頃なロープを探している。


 コンビニからアキの家へ戻るとき、ポケットに入れていた携帯がメッセージを通知した。送信者の名前に母を見て、心臓を握られたような気分になる。画面に表示されていたのは『了解しました』の一言だけだった。やっぱり、生きていくのは難しいと思った。途方もなかった。アキがなぜ死にかけの私に執着するのかわからないが、私はもう一度死ぬための準備をする必要があるような気がしていた。


 * * * * *


 父の病状が悪化したらしいと聞かされたのは、アキの家に一週間ほど滞在したころだった。父が病院に移動させられると、私は当然そうなるみたいに自宅での生活を再開した。父を理由に外での生活を続けようとしていた私は、父が家からいなくなったことによって自分を正当化する手段を失ってしまった。

「でかけるの?」よそ行きの服でリビングの扉を開けると、洗濯物を抱えた母がちょうどベランダから戻ってくるところだった。


「うん、でかけてくる」


 アキとカフェに行ってくる。だれととか、どこにとか、そういうのを言わなくなっている。そのことが私に普通を思わせるし、自分の責任で生きていかなければならないということもまた強く感じる。


「感染してお父さんにまでうつしてるんだからさ」、苦笑いするみたいに母が言った。「考えなね」自殺に失敗したばかりのとき、いや、コロナウイルスに感染していたときの、私に対する母の柔軟だった態度がまた変化している。いつの間にか私は気をつけの姿勢をしたまま「はい」と口にしていた。


 母が言ったことは正しい。それでも私は、できるだけ家にいたくなかった。父が私を守ってくれたことはほとんどなかったけど、それでも家に母と二人だけという状況に息が詰まり、こころが押しつぶされてしまいそうだった。


 父の病状そのものよりも、自分のせいで父が死ぬかもしれないことに怯えている。こころってなんだっけと考えるようになった。自分のような境遇の子どもは感情の半分を失って大人になると、ネットの記事で読んだことがある。感情というのは人生の味を感じるのに重要な役割を果たしていると思う。食べ物の味を舌で感じるのに対して、人生の味を感じるのにはこころの核みたいなものが使われる。アキが大声で笑ったり弾んだ声で話したりするのを見るたびに、彼女が自分とは遠い存在であることを再認識する。こころが死んでいる。味を感じるための感覚器官が狂っている。出来損ないとして生まれ落ちてしまったのか、母とのことが原因なのかはわからない。どちらにせよ私はもうとっくに壊れていたのだと思う。色を失ったこのこころでは、いくら人生が甘く味付けされていたとしても、もう二度とそれを感じ取ることはできない。


 二月の寒さはカフェの店内にまで浸透してきているようで、暖房とホットコーヒーで身体が温まっているはずなのに、冷たい空気が服の内側を芋虫のように這っている。正面で私のノートパソコンへ視線を送ったまま微動だにしないアキの代わりに、店員が運んできてくれたお互い二杯目のブレンドコーヒーを受け取った。コーヒーの片方を机に滑らせ、アキの目の前に移動させる。一服どう、そう訊こうとして、私の小説を読んでくれているのを邪魔するのは偲びないと思い、寸前の所で踏み留まった。


「まだ死にたいの?」


 突然、前方から抑揚のない声が飛んできた。咄嗟にアキのほうへ視線を戻す。彼女はまだパソコンに視線を貼り付けたままだった。


「なんで?」

「いや、主人公が死にたがってるから」

「主人公と作者は別の人間だよ」

「わかってるけど」


 アキは私を一瞥したあと、またパソコンへ視線を戻した。それから、「うーん」、小さく唸っているのがいつもより大きいカフェのBGMの隙間から聞こえる。


「なんでまだ死にたいの?」


 頷いたわけでも言葉を使って同意したわけでもないが、それを指摘しても結局は「じゃあどうなの」と訊かれて首を縦に振ることになるから、不毛だと思って言及するのをやめた。コーヒーは冷たくなっていた。デニムの内側が湿っているような気がした。


「生きてるのがつらいから、とか」

「生きてることの何がつらいの?」


 カタッ、キーボードを押し込む音が聞こえた。勝手に改変を加えられたのかと思ったが、アキの手元を覗き込んで、ショートカットキーでページをめくっただけだとわかった。「いろいろ」、何も考えずに希死を宣っていると言われたくなくて咄嗟にそう答えた。母と話すのがいやだとか、シフトを提出するのが面倒とか、この先どう生きていこうとか、そういう様々なことが積み重なってこの気持ちを生んでいるのだと、あとから思った。


「だって、当分は小説を書いて、好きなことやって過ごすつもりなんでしょ?」


 アキの言葉を聞いて、きゅっと胃が収縮していくのを感じた。来月にはみんな卒業するのに何をしているの。アキの言葉が本来の意味以上の内容を含んでいるような気がした。


「明るい未来を描けないから死にたいんだよ、たぶん」

「私だって明るい未来なんて描けてないよ。そういう人のほうが多いんじゃない?」

「死のうと思ったことがないから私の考えがわかんないだけだよ」


 思わず語尾が強まってしまって、溜息が出そうになるのを慌ててかみ殺した。代わりに熱を吐きだすみたいにして、長い時間を掛けて肺のなかを空にする。


「わかろうとしてるけどね。あずさが何も言わないからさ」


 いつもの弾んだような話し方ではなくて、苛立ちで若干揺れているような声だった。話し方が違うのは、言葉が強すぎて弾まずに粉砕してしまったからだと思った。


「いや、言おうとしてるけど」

「また後回し。コロナに罹ったときも私に言わなかったよね。私にうつした可能性もあるのにさ。ってか、あずさはさあ」

「なに」

「いや、なんでもない」


 アキは言葉にしづらいことを口にするとき、冒頭だけ言ってやめるときがある。それはたぶん私にしつこく訊かれて、本当はこんなこと言いたくないけど無理に言わされたみたいに、自分を正当化しようとしているのだと思う。腹が立ったから無視を試みたものの、結局私は「言って」と目を細めて訊いた。


「いや、本当に死にたいって思ってるのかなって」

「えっ、待って待って、なんでそうなるの」


 少しこころが上昇している気がして、アキを問い詰めたのは粗探しをするためだったと気づいた。アキの言葉によって内臓の奥に溜まった熱を、アキ本人にぶつけることで冷却しようとしていた。


「だって、今だってこうして生きてるし」

「いや、意味わかんないけど。アキには理解できないよ。だって、普通の家に生まれたんだから」

「それ、自分が可哀相って思いたいだけじゃん」

「それだけだったら普通に考えて自殺なんてしようとしないけどね」


 キッチンのほうから食器の割れる音がした。大きくなってしまいそうな声を、理性というよりもっと本能に近い部分が抑制している。寒さで手を摺り合わせるみたいに、身体に煎りつくような熱がヒリヒリと募っていく。


 死にたい人が前を向くことなんてあり得ない。あり得ないはずだった。物語の世界において、死を望む人間はあまりにも簡単に救われすぎている。だから私は、死にたい主人公が救われない話を書くために小説を執筆し始めたのだった。いくら頑張っても私は、私が前を向く様子を想像することができなかった。


 死にたい、普段からそれを口にするくせに生き存えている。そういう人がたくさんいる。どうして私は、もう一度死のうとしなかったのだろう。街にはちょうどいい高さのビルとか、ちょうどいいスピードの車とか、決行するのにぴったりな道具がたくさん転がっている。こころが追いついているなら、手を伸ばせばすぐに自分をバラバラにすることができる。でも私は交通事故に巻き込まれたくはないし、通り魔に殺されたくもない。手頃なロープは目に付くだけだった。


 ああ、そうか。そういう道具を使わないのは、たぶん死ぬ前に後悔しないためだ。自分のペースで縄を首に掛けて、目を閉じる前に世界を振り返って、ああ、やっぱりこの選択をしてよかったと思えるように準備をしているのだ。


 結論が出るころにはとっくに話が終わっていた。パソコンを挟んで流れる不自然な沈黙の隙間を、「いらっしゃいませ」と「検温お願いします」の声、それからいつもより少し大きい店内BGMが上手い具合に埋めてくれている。デニムの内側は湿ったままだった。コーヒーは冷え切っていた。

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