泥濘の中で氷の鳴る

八百十三

第1話

 エアコンを効かせていても、夏の夜は暑い。真夜中とて、暑い。

 窓を開けて換気しないと湿気がこもるからと、窓を開けているので余計に暑い。

 暑いから、涼みたい。

 私はぬるりと立ち上がって、ワンルームの隅に置いてある冷蔵庫を開く。

 ドアポケットに入れていた、ペットボトルのアイスコーヒーを取り出してばたんと扉を閉めると、冷気が押し出されてふわっとすねにぶつかった。

 その流れで、冷凍庫を開く。製氷皿の中に作っていた氷をぐ、とひねって取り出し、三個四個をグラスの中に。

 製氷皿に水を入れる。氷を再び作る準備をしてから、再び冷凍庫に収めた。

 ペットボトルとグラスを手に持ち、窓際のテーブルへ。開いた窓から外を眺めつつ、テーブル脇の椅子に座る。


 静謐せいひつ


 夜空は夜のさなかで有ろうともうっすらと明るく、薄ぼんやりと輝きながら雲をたなびかせている。

 雲がほんのりと白い。夜闇の中にあって尚白い。

 それがさらさらと流れる風と、私の部屋でたなびくレースのカーテンと一緒に漆黒の空を動く。

 そんな中、私の目の前にあるグラス、氷、アイスコーヒー。

 ペットボトルの表面、露が満遍なく付いて少し曇って見える向こう、外の夜空を溶かし込んだみたいな漆黒が中に。

 おもむろにペットボトルを持ち上げる。冷たい。手の表面に雫がついて少しぬめる。

 てっぺんのキャップをひねると、パキリと小さな音が鳴る。

 そのまま回したキャップを外して、それをテーブルの上に放ると、からり、と小さな音が立った。

 このペットボトルから直接、この泥濘でいねいを口に流し込むのも考えたけれど、それでは涼を得るには足りまいか。

 目の前のグラス。氷に満たされたそんなに背の高くない寸胴のグラス。

 ここに、泥濘を流し込む。


 からん。からん。

 氷がグラスの中で鳴る。

 空虚だったグラスの中を、アイスコーヒーという闇が満たしていく。


 ただ、空虚だ。

 空虚だったグラスの中で、闇が揺れている。泥濘が波打っている。

 その泥濘のうみの中で、氷という漂流物が浮かんで、グラスの中でぶつかって、沈んで。

 ふと、目を細めた。

 ああ、この泥濘の苦々しい液体が、なんと凛として私の目の前に佇んでいることか。

 グラスを持ち上げる。キリリと冷えて、手にひやりと冷気が伝わる。口元にグラスを寄せれば、ガラスに伝わった冷感が唇を引き締めた。

 そのまま、く、と中の泥濘を私の中に押し込んでいく。


 ああ。

 苦い。

 冷たく、苦い。

 そして静かで、冷厳で、さらに言うなれば静謐で。


 こういう、凛としていながら混沌とした味わいこそが、アイスコーヒーだと思うのだ。

 冷たい、厚みがある。酸味も、苦味も、渋味もある。

 混沌だ。混沌としながら、しかし秩序だってもいる。

 そういう、黒く、暗く、濁った液体の中にまぜこぜになった秩序と混沌。

 それが私の中で渦を巻き、波打ち、飲み込まれ吸収され。

 そして私の臓腑ぞうふに溶け込んで染み込んでいくのだ。


 ああ。

 静謐だ。

 この夜は静謐だ。

 静謐でありながら、しかし騒ぎ立ってもいる。

 その夜を、私は飲み込む。

 静かに、静かに、飲み込む。

 そして、ひとつ息を吐きながらのたまうのだ。


「……寝れるかな、今夜」

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泥濘の中で氷の鳴る 八百十三 @HarutoK

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