真夜中のチューリップ

飯田太朗

重なる。

 真夜中。

 かすみ姉ちゃんのぬくもりを感じる。

 霞姉ちゃんの吐息を、霞姉ちゃんの汗を感じる。

 肌と肌が触れ合う。目線と目線が交わる。頭に響く、霞姉ちゃんの声。

「いけないことなの」

 分かってる。分かってるさ。

「未成年にこういうことはしちゃいけないんだよ」

 それはちょっと分からない。大人じゃなくても愛に気づくことって、あるじゃないか。

 霞姉ちゃんが俺の唇に噛みつく。痛い。でも、嬉しい。

 俺も噛みつき返す。姉ちゃんの胸を、姉ちゃんの首を、姉ちゃんの耳を、噛む。噛む。噛む。

 姉ちゃんが声を絞り出す。それが嬉しくて、嬉しくて、でも悲しくて、俺は噛むのをやめる。代わりに撫でる。霞姉ちゃんの綺麗な髪を。絹みたいな、って言っても絹なんて触ったことないけど、でも多分そういう感じの髪を、丁寧に。

 霞姉ちゃんに飲み込まれている時、俺の体はどろどろに溶けている。足に力が入らない。手が動くのが不思議なくらいだ。体の芯が心地よく痺れて、何もかも零してしまいそうになる。頭がくらくらしてきたら終わりが近い。

 嫌だ。終わりたくない。嫌だ。終わりたくない。嫌だ。終わりたくない。

 体に力を入れる。芯が痺れているから、本当に何か、自分の中の細いものに縋りつくような気持ちで力を入れる。霞姉ちゃんが動く。吸い取られる。何もかもを吸い取られる。

 呻き声が出る。出てしまう。必死に霞姉ちゃんの腕にしがみつくと、姉ちゃんが俺の右手を握ってくれた。掴んだ姉ちゃんの左手。その薬指が寂しいことに意識がいって、俺と抱き合う時に外してくれた指輪のことを思い出す。結婚するそうだ。大学の卒業とともに。

 沸騰するような怒りが湧いて、俺は再び力を取り戻す。何が結婚だ。何が結婚だ。霞姉ちゃんを今幸せにしているのは俺だ。俺が霞姉ちゃんを、俺こそが霞姉ちゃんを……。

「いけないことなの」

 分かってる。分かってるさ。

 恋人がいる女の人とこういうことをするのはよくないことだって分かってる。他人の彼女を奪うのは悪いことだって分かってる。

 でも、でも、じゃあ、人の気持ちを宙ぶらりんにして苦しませるのはいいのかよ。男らしさにかこつけた強引さと不機嫌で女を支配するのはありなのかよ。笑顔を作らせることは、電話の度に正座させるのはありなのかよ。

 俺は霞姉ちゃんにそんなことはさせない。好きな気持ちは真っ直ぐ伝えるし自由にどこへでも行っていいし笑いたい時に笑ってもらうし好きな姿勢で向き合ってほしい。何でだよ。何でなんだよ霞姉ちゃん。

「何でだよ」声に出てしまう。慌てて俺は姉ちゃんの胸に顔を埋めて口を塞ぐ。

「ごめんね」姉ちゃんが俺の頭を撫でる。指輪の記憶のない、右手の方で。

 霞姉ちゃんがまた動き出す。俺の体はまた痺れて、頭の奥がちかちかする。また、呻く。ああ、駄目だ。俺もう駄目だ、もう……。

 夢中で姉ちゃんに抱きつく。唇を、喉を、鎖骨を胸を、めちゃくちゃに吸う。姉ちゃんも俺にしがみついた。ぎゅっと締め付けられる。嬉しい。姉ちゃんも零しそうなんだ。嬉しい。俺も零しそうだ。もう、もう、もう……。

 静かになる。

 お互いの吐息。上り坂を駆け切ったみたいな。

 姉ちゃんに抱き締められる。柔らかい感触とぬくもりが嬉しくて、俺も抱き返す。

「ごめんね」

 いいんだ。

 でも声に出ない。いや、出さない。これはもしかしたら、俺なりの復讐なのかもな。

 知ってた。知ってたさ。

 霞姉ちゃんが息苦しい毎日の、ちょっとした休憩所として俺を求めたことくらい。

 知性や立場を振りかざしてくる男たちにうんざりして、何も知らない俺をからかっていたことくらい。

 強引に主導権を握る彼氏との鬱憤を晴らすために俺を誘ったことくらい。

 最初はただの幼馴染だった。俺が一年生の頃、霞姉ちゃんは六年生で、登校班が一緒だった。ただそれだけだった。

 それが俺が高校受験を迎えた時に、勉強を教えてもらう関係になって。

 こんな関係になったのはいつだっけ。高校に入ってすぐかな。学ランがいいって言われたんだ。背も伸びたねって。確かに、昔手を繋いで学校に行っていたはずの姉ちゃんは、いつの間にか俺の肩くらいになっていた。そうだ。服の上からだけど、そっと胸板に触られたんだ。キスはその後俺からした。我慢できなかったんだ。でも姉ちゃんは、拒まなかった。

 初めてはどうだったんだっけ。もう忘れちゃったや。でも俺は夢中だった。気分は、そうだなぁ。気持ちいいくらい真っ暗な海をひたすらに泳いでいるような感じだった。どこまでも行ける。どこまでも、どこまでも……。

 月明かり、だろうか。

 街灯の明かりかもしれない。

 ぼんやりとした影が姉ちゃんの部屋の床に落ちる。俺たちの影。俺と姉ちゃんの影。

 ぽたぽたと、腹に何かが落ちた。俺は姉ちゃんを見上げた。

「ごめんね、ごめんね」

 姉ちゃんが泣いていた。堪らなくなって、俺は姉ちゃんを抱きしめた。

「泣かないで。泣かないでよ、霞姉ちゃん」

「だって私、あなたを壊して、めちゃくちゃにして……」

「いいんだよ、姉ちゃん。俺、霞姉ちゃんに壊されるなら本望だよ」

「好きだった。すごく好きで、愛してた」

「……過去形なの?」

「ううん、ううん」

 姉ちゃんが首を振る。

「ああ……」

 姉ちゃんが震える息を吐く。

 俺は謝る。

「ごめん、姉ちゃん」

 俺がもっと、早く生まれてたら。

 例えば姉ちゃんの一つ上くらいに生まれてたら。

 もしかしたら二人は、結ばれてたのかな。

 ふと、思い出す。

 二人で学校に行っていた頃。そうだ、俺は霞姉ちゃんが園芸委員だと知って、好きな花を訊いたんだ。そしたら姉ちゃんはチューリップって言って、校庭の隅にある花壇を指した。いろんな色のチューリップが花を咲かせていた。かわいい花だった。中でも黄色いチューリップが眩しかったのを覚えている。元気な色、明るい色なのに、風に揺れる姿が儚くて……もちろん当時は「儚い」なんて言葉は知らなかったけど、移ろう感じは何となく分かって、その寂しい気持ちが妙に胸に残っていて……。

「姉ちゃん」

 俺は訊ねる。手を握って、俺の上にいるからほんのちょっとだけ俺より目線が高くなっている姉ちゃんを見上げて、真っ直ぐに。

「今でも花は好き?」

「うん」

「チューリップ、好き?」

「うん」

「俺はさ」

 と、好きなチューリップの色をつぶやく。

 姉ちゃんが静かに俺を抱いた。

 窓の外のことはよく分からなかったけど、多分月が、昇ってたんじゃないかな。


 了

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真夜中のチューリップ 飯田太朗 @taroIda

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