命に執着してるだけ

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

命に執着してるだけ

「うわあああ! 出たあああ!」

 絹を割くような悲鳴、それはまるで女声のように甲高く裏返っていたが、発していたのは男である友人の勝也だ。

「恭平助けて! ゴキブリ! 出た! 無理!」

「うるせえなあ……お前の部屋だろ、勝也。あんたが日頃からちゃんと掃除して虫の出入口をきちんと塞いでいれば……」

「説教は後でいいから! あの黒き悪魔を早く滅してくれ!」

 普段はこんなみっともない姿を見せない勝也だが、彼は虫に滅法弱い。特にゴキブリがいちばん苦手なんだそうだ。へっぴり腰で俺にすがり付く姿は、何とも情けない。

「今、その棚の裏に入った」

 棚を指さす手はぷるぷる震えていた。こいつの部屋なのだからこいつが対処すべきだし、客人の俺にやらせるのかよと不満はあるが、ここまで怯える勝也を見ていると仕方ない気がしてくる。

「はいはい、始末してやるから。殺虫剤ある?」

「ありますあります。お願いします」

「情ねえなあ。虫けら如きにそんなにびびって」

 ため息をつくと勝也はキッと俺を睨んだ。

「言っとくけどな! オバケが怖い人よりゴキブリが怖い人の方が、絶対多いからな!」

 それはちょっとうなずける。

 俺は勝也から手渡されたスプレー缶を握り、棚の隙間に吹きかけた。もぞり、苦しむ虫が這い出てくる。それを見て勝也がまた悲鳴を上げた。

「ぎゃあああ! 嫌!!」

「勝也、あんまり叫ばない方がいいぞ」

 俺はひたすら毒霧を噴射しつつ、背後の男を窘めた。

「ゴキブリはな、悲鳴を聞き分けるんだ」

「え、何それ」

「いちばん騒ぐ奴のところに向かってくんだよ。そういう人間は逃げるだけで自分に攻撃してこないと分かってるんだ」

 冷静に諭すと、勝也はまた大声を上げそうになったが、呑み込んだ。床で黒い楕円がもぞもぞ暴れている。

「ひいっ……なかなか死なない」

 勝也はいちいち肩を縮こませた。俺はそんな彼を振り向かず、ただただ殺虫剤を吹き付けていた。

「ゴキブリは生命力が強いからな」

 しゅー、という無機質な音と白い噴霧、独特の匂いが充満する。霧の中で虫がのたうち回る。怖がっている勝也は、虫が急に飛んだりしないか不安なのか、目を離さない。

「生命力なあ。そっか、叩いても死なないもんな」

「そんだけじゃない。ゴキブリは髪の毛一本食べたら一ヶ月生き延びるんだ」

「マジかよ!?」

「それにゴキブリは脳が二つあるから、頭を切り落としてもまだ生きてるんだよ。あろうことか繋げとくと再びくっつくんだぞ」

「マジかよお!?」

 同じような反応ばかりする勝也にはうんざりするが、こんな気持ちの悪い知識がやけに頭に入っている俺も大概だ。

 勝也は高校の頃から同じ学校で、進学した大学が同じだったことをきっかけに急速に仲良くなった。というのも、高校が同じでもなければ俺と勝也が交流を持たなかっただろうというほど、俺たちはタイプが異なる。

 俺は割と、真面目で実直な人間である。恋人も作らず勉強ばかりしてきた、所謂つまらない男だ。父親が生物学の教授で、お堅く育てられてきた。

 対して勝也は、いつでも友達に囲まれて大騒ぎしている。明るい性格が人を惹き付けるのだろう。いつも楽しそうなこいつは、見ていて少し羨ましい。

 だがその手のタイプにありがちな欠点が、デフォルトのように勝也にも搭載されている。

「勝也、こないだの女はどうなったの」

 スプレーを吹き付けられたゴキブリが息絶えた。俺はそれを箒で掃きつつ聞いた。ゴキブリが死んで安心した勝也は、いつもの調子に戻っている。

「あー、キリちゃん?」

「うん、なんかそんな名前の。髪の長い子」

「別れた」

「ふうん……」

 勝也の欠点。彼は酷く女好きなのだ。明るくて人を惹き付ける勝也は、友達が多いのはもちろん女も途絶えさせることがない。彼に惹かれる女性は多いし、勝也自身も飽き性だから、平気で乗り換える。真面目で実直な俺には到底理解できない行動だ。

「やっぱりな、って思った?」

 勝也が先回りしてきたが、俺は首を横に振った。

「いや。意外だなと思ったよ」

「そう?」

「勝也が女の子を取っかえひっかえなのは知ってたけど、あの子は特別なのかと思ってたから」

 勝也が「キリちゃん」と呼ぶ女は、俺は一度も会ったことがない。勝也が写真を見せてきたから、顔は知っているというだけだ。ハズレの合コンの帰りにその店の裏で出会い、一目で吸い寄せられたそうだ。

「あの子のこと、運命の相手だとか言ってなかったか?」

「言ったね」

「お前が惚れっぽいのは見てりゃ分かるんだけど、『運命』だとか言い始めたのは初めて聞いた。だからあの子は他の子とは違うんだと思ってた」

 写真でしか見たことがない「キリちゃん」は、その容姿も今までの勝也の彼女たちとは違う雰囲気だった。派手好きの勝也が選ぶにしては珍しい、長い黒髪の内気そうな女性だった。

 履歴から察する勝也の趣味と全く合致しないし、関係ないけれど正直俺の好みのタイプでもなかった。写真を見たときは、なんでこの子なのだと疑問を持った。勝也に聞いても「運命だ」としかこたえないから、写真では伝わってこないだけで、余程魅力的な女性なのだろうと思うことにしていた。

 勝也は、部屋の空間を見上げてうなずいた。

「あー、うん。最初は俺も運命感じたし、キリちゃんと付き合ったら、もう他の女にはいかないと思ってた。でも飽きたね、普通に」

 勝也が真顔でばからしいことを言っている。俺はそんなこいつにため息ばかり出た。

「何なのその、運命とかいうやつ。そんな脆いものなのかよ」

「分かんねえけど……なんか訳もなく店の裏が気になって、行ってみたら彼女がいて、目が合った瞬間惚れて。キリちゃんもそんな俺を受け入れてくれた」

 運命だろ、と大真面目に言う勝也を、俺はじろりと睨んだ。

「要は酔っ払ってふらふら店の裏を覗いたら女の子がいて、ちょうどハズレの合コンの後で女を欲してたから、もうその子でいいやーっていうお前と、知らねえ男だけどこいつでいいやーっていう尻軽女の邂逅ってわけな」

「うわ、腹立つ。反論したいけど、概ね合ってる」

 勝也は己の愚行を開き直った。

「でもなんで今、急にキリちゃんの話をはじめたんだ? 恭平から聞いてくるなんて珍しい」

 首を捻った彼に、俺も首を傾げて返した。

「たしかに。なんか突然思い出した」

「いつも俺からキリちゃんの話をしようとすると、恭平、鬱陶しがってたくせに。まあいいや、その死骸早く捨ててきてよ」

 勝也が偉そうに指図してくる。俺ははあ、とまたため息のような返事をした。

「多分あれだ。キリちゃんの自慢ばっかりしてくる勝也がゴキブリみたいにしつこかったからだ。だからこいつを見て思い出したんだな」

「害虫扱いかよ」

 勝也が眉間に皺を寄せた。実際、こいつのような奴は、女の子からしたら害虫ほかならないだろう。


 *


 勝也の顔色が悪くなってきたのは、その数日後からだった。

 ぶー、ぶー、というスマホのバイブ音と、勝也の舌打ち。講義の間だけで、もう十回は聞いている。

 昼食のときにも勝也のスマホはうるさかったので、向かいに座った俺は尋ねた。

「ついに女を怒らせすぎて、逆襲にあってるのか?」

「そのとおり」

 勝也がカレーを口に運ぶ。

「この着信、全部キリちゃんだよ」

「キリちゃん……て、あの、運命の?」

「そ。別れたばっかの頃は静かだったのに、今になって急にまた会いたがるようになったんだよ。すげえしつこくて、こっちはかえって冷める」

 勝也が携帯を睨む。近頃こいつはイライラしている。このしつこい連絡のせいのようだ。勝也の行動が招いた事態だが、たしかにこれだけずっと携帯が鳴っているというのは鬱陶しくもなる。

 あの重たい空気を背負った陰気な女が数分おきに連絡を寄越してくるのだ。どんな顔をして勝也の返事を待っているのだろう。想像すると、ちょっとぞっとした。

「どんな連絡寄越してきてんの?」

 世間話感覚で聞いてみたら、勝也はキリちゃんからのメッセージが蓄積された画面を、こちらに向けてきた。

『話があるの』

『会いたい』

『話さなきゃならないことがある』

『あなたの子のこと』

 俺は延々と続くキリちゃんの吹き出しとその横の小さな「既読」の文字を目で追った。

「あなたの子……? 勝也、お前、孕ませたのか」

「可能性はなきにしもあらず」

「それマジならスルーしてる場合じゃなくない?」

「いや、口実だろ、こんなの」

 こいつの無責任さには腹が立つ。会って話せ、と一喝しようとしたが、俺は言葉を呑み込んだ。勝也の機嫌があまりにも悪いのだ。

「大丈夫かよ、いろんな意味で」

「うーん、なんつうか、ノイローゼ?」

 勝也が机に突っ伏す。イライラしているのを通り越して、憂鬱になっているようだ。自業自得のくせに。

「とりあえずさ。会うだけ会って話してみたら?」

 逆ギレされても面倒なので、言い方をマイルドにして返す。

「本当に子供が出来てるんだとしたら、ちゃんと責任取らなきゃならないんじゃないか」

「それが怖いんだよ」

 無責任な男は、なおも机に顔を埋めていた。

「怖いかもしんねえけど、そこはちゃんとけじめつけろ」

 こればかりは逃げ惑っていられる問題ではない。勝也も頭ではそれを分かっているようで、彼はまたいらついた口調で、はいはいと相槌を打っていた。


 *


 その夜、俺がバイトを終わらせて家路についたときだった。耳にイヤホンを突っ込んで、ローカル駅を降り線路沿いの真っ暗な道を歩く。突然、イヤホンから流れる音楽が止まった。イヤホンを繋げていた携帯を見ると、画面が勝也からの着信を知らせていた。

「どした」

 歩きながら着信に応じる。最初に耳に入ってきたのは、短い吐息だった。

「どう、しよ。恭平。やばい」

「だから、どうしたんだよ。キリちゃんと話したのか?」

「キリちゃん……キリちゃん、やばい。これマジでやばい」

 そう言った勝也の声は、電話では聞き取りづらいほど震え、掠れていた。ただならぬ声色だ。

 本当に妊娠させてたのかな。それで焦ってんのか。とざっくり先を読む。

「ちゃんと連絡とったんだな。で、どうす……」

「キリちゃん、殺しちゃった」

 俺の言葉に被せてきた勝也のその台詞を、俺はすぐには理解できなかった。聞き間違えたと思ったし、そうであってほしかった。

「ころ……、は?」

「キリちゃん殺しちゃった」

 勝也が繰り返した。今度ははっきり聞いてしまった。まだ頭が追いつかないが、単語はしっかり受け止めてしまった。

「待て、どういうことだ」

「アパートの部屋に帰ってきたら、部屋の中にキリちゃんがいた」

「は!?」

 ますますよく分からない。電話口の勝也の声は続いた。

「鍵かけてあったのに、キリちゃんが部屋の中にいたんだ。合い鍵持たせてないのに。それで俺、『どうやって入ったんだよ』って言ったんだけど」

 彼も混乱しているのだろう。まとまらない言葉でたどたどしく、叩きつけるように言いたいことを並べてくる。

「キリちゃんは『あなたの子供だから面倒を見て』ってそればっかりなんだ。こっちが、帰れとか警察行くぞとか、何を言っても噛み合わない」

 以前から不思議に思っていた。

「俺もまずいことしたから、追い出そうとするのやめてキリちゃんの話を聞こうとしたんだけど……キリちゃん、『あなたの子供たちだから、あなたが育てて』とか『私は百二十日で寿命』だとか、訳の分からないことばっかり言ってたんだ」

 不思議だった。あんな不気味な女に夢中になっていた、こいつが。

「ちゃんと説明してくれないで意味の分からないことばかり喋り続けるから、俺もいらついて怒鳴ったりして。そうするとキリちゃんは余計に詰め寄ってきて無心に意味不明なこと言い続けて、俺を壁に追い詰めて体を這ってくるんだ」

 あんな不気味な、気持ちの悪い女。

 どこがいいのか、何度尋ねようとしたことか。

「俺ももう怖くなってきてパニックになって……!『寄るな』ってナイフ出して脅かした。それでもキリちゃんはやめてくれないから……」

「殺したのか」

「反射的にナイフを突き出してしまった」

 いたずらがばれた子供の言い訳みたいな声で、勝也は言った。

「それがキリちゃんの喉に突き刺さって……動かなくなった」

「ナイフで喉を一刺ししただけなんだな? じゃあ、まだ助かるかも」

 気がついたら、俺は自宅アパートではなく勝也の部屋に進行方向を変えていた。

「救急車は呼んだのか?」

「呼んでない。刺してすぐ、お前に連絡しちゃった」

 まだ間に合うかもしれない。

「血はどのくらい出てる?」

 状況を把握するために、早歩きしながら情報を聞き出す。しかし。

「血……血なのかな、これ。なんか白い液が出てる」

 勝也から流れてくる情報は、さらに俺を混乱させた。

「白い液!? なんだそれ」

「分かんねえよ! 分かんねえけど気持ち悪い!」

 それから、勝也がヒッと息を呑むのが聞こえた。

「き、恭平。今、キリちゃんが動いた」

「やっぱまだ生きてるんだな」

「死後の痙攣ってやつ……?」

「まだ生きてるんだよ、落ち着け! 落ち着いてられないのは分かるけど!」

 語尾を尖らせて電話の向こうの勝也に怒鳴ったときだった。

「わああああ!」

 音割れした勝也の悲鳴が、耳を劈く。

「勝也!?」

「キリちゃ……い、生きてる!」

 鼓膜が破れそうなほどの勝也のその声は、安堵ではなく恐怖に染まりきっていた。

「生きてる……! やばい、恭平どうしよう」

「生きてたんならよかったんじゃ……」

「うわあああ! 来るな! 来るなー!」

「勝也! 落ち着け!」

 様子がおかしい。俺は少し携帯を耳から離して、額の汗を拭った。

「叫ばない方がいい!」

 根拠もなく、直感的な助言をした。

 しかし俺の声が勝也に届いていたかは分からない。切り裂くような悲鳴と共に、ガシャンという衝撃音が俺の耳に突き刺さり、それっきり通信は途絶えてしまったのだ。

 写真を見たときは、なんでこの子なのだと疑問を持った。


 黒くて長い髪は、清楚で美しいそれとは違いぬたぬたしていた。異様に細い肢体をずるりとぶら下げ、暗いところでひっそり立つ、気持ちの悪い女だった。

 交尾の前はメスの方からフェロモンを出してオスを誘い、卵を産む。その卵からは大量の幼虫が生まれ、親の成虫は子育てをする。

 ……そんな虫を連想させる女。


 勝也の住むアパートにようやく辿り着く。俺はもはや駆け足ではなく、全速力で彼の部屋に向かっていた。家賃の安いボロアパートのカンカン階段を全力で駆け上がる。三階建ての最上階、そのいちばん端が勝也の借りている部屋だ。冷たい扉をガンガン叩く。

「勝也、入るぞ!」

 返事を待たずに扉を開けた。瞬間、異様な臭いが鼻腔に飛び込んでくる。食べ物が腐った臭いだ。床にはゴミが散乱して、お菓子の屑が散らばって、足の踏み場がない。前に来たときはこんな状況ではなかった。こんなまるで、「あいつら」が好みそうな環境。

「勝也!」

 台所の汚い床を通り抜け、居間の扉を開ける。ふわ、と風が吹き込んできた。ベランダに出られるガラス戸が開いている。

 台所同様、こちらも酷い散らかりようだ。食べ物のゴミも蓋の開いたペットボトルも、脱ぎ散らかした服も、床を覆い尽くしている。以前のそれなりに片付いていた勝也の部屋は見る影もない。

 そして、部屋中見渡しても勝也がいない。ついでにキリちゃんもいなかった。

 床で何かがきらっと光った。蛍光灯の光に当てられたナイフだ。恐らく勝也がキリちゃんを刺したというナイフだと想像できるけれど、赤く濡れてはいなかった。そういえば、キリちゃんから溢れた液体は白かったと、勝也が言っていた。

 散らかった床を遠慮がちに踏みしめて、ベランダを覗き込む。部屋にいないならベランダで縮こまっているのかと思ったが、ここにもいなかった。

「勝也」

 名前を呟いて、恐る恐るベランダの柵の下を見る。

 そして俺は声も出さずに、アスファルトに突っ伏す男の背中を眺めた。

 勝也は「あれ」が出ると自分で処理できず、俺に泣きついてくるような男だった。あの様子から鑑みるに、きっと勝也は怯えきってこのベランダから飛び下りてしまったのだ。

 三階という微妙な高さがまた運が悪い。落ちながら気を失える高さではないが、中途半端に大怪我をするか打ちどころが悪ければ手遅れになる。地代が安い代わりに街灯が少ないせいで、暗くてよく見えないが、勝也の腕や脚が複雑に曲がっているのが分かる。頭も、アスファルトに額を打ち付けて割れてしまったようだ。

 俺はベランダから引き返して汚い居間に戻った。勝也は見つけたがキリちゃんはいない。俺は部屋の隅のベッドに腰掛けた。物が乱雑に乗って布団がめくれている。どうしたものかとため息をついた。

 ふと、部屋の隅に、少しだけゴミが捌けて床が顕になっている箇所が目に止まった。よく見ると乾いた納豆のような小さな玉が落ちている。生物学の教授を父に持つ俺は、あれが何なのか察しがついた。

 多分、キリちゃんの子供たちが詰まっているのだ。

 キリちゃんは人間の姿をしていたのだからそんなはずはないのだけれど、何故だろうか、そんな非現実的な発想が、この異様な状況の中では妙な現実味を帯びていた。


 ここからは俺の想像だが、勝也から電話で聞いた話によると勝也はキリちゃんの首を切ってしまったらしかった。刺されたキリちゃんは死を察するのが自然だ。「あいつら」は身の危険を感じるとIQが一気に三百を超えるほどまで跳ね上がるらしいから、俺の仮説が正しければ勝也はきっとすごく恐ろしい目に遭ったことだろう。そう、ベランダから飛び下りるなんてバカな行動をしてしまうほどに。具体的にどんな恐怖を味わったかまでは、今となっては分からないけれど。

 相対しキリちゃんの方は、多分殺すつもりもなければ怖がらせるつもりもなかったのだ。個体の寿命が近づいてきた彼女は、単純に勝也に会いたくて、勝也に自分の卵を任せたくて、やって来ただけだったのだろう。

 そもそも虫側に悪意なんてないのだから。


 ゴミ溜めになった部屋で俺はまたため息をついた。

 ベランダから風が吹き込んでくる。べったりと湿った、夏の風だった。

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