地獄で地獄を見てる

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

地獄で地獄を見てる

「高校時代、クラスの不良女子に目をつけられ、いじめにあい不登校になる。その後何とか社会復帰して大学に入学し、人生初の彼氏ができるがその癇癪野郎に散々振り回され挙句棄てられる。その直後よりによって就活で忙しい時期に、突然離婚した姉が子供を連れて戻ってきて自身は遊び歩き、我儘な三歳児の面倒を君が見る。地元の中小企業に入社し、そして入社三ヶ月にも拘らず人不足を理由に超絶サボリ魔中途新入社員の教育係に回される。何をやっても上手くいかなくて自分に自信をなくし、ヘトヘトに疲れた君は、朝の通勤時間に電車のホームから線路に落下、今に至る」

 私の目の前に立つスーツ姿の男は、手元のペラ一枚を眺めつつ滞らない滑らかな口調で長文を読み上げた。そして手足を縛られ身動きが取れない私を一瞥し、嘲笑した。

福富ふくとみさち。こんなにハッピーネームなのに散々な人生だねえ」

「はあ」

 私はぺたんと座り込んだ姿勢で、スーツの男を見上げていた。

 歳の頃は、見た目でいうと三十代から四十代くらいだろうか。しかし表情は幼い子供のようにあどけなく、それでいてこの余裕に満ちた態度は子供と遊ぶおじいちゃんのようでもある。

「あの、失礼ですが……」

 そろり、口を挟んでみる。

「あなたはどちら様ですか?」

「ん? エンちゃんだよ」

「どうして私の半生を知ってるんですか」

「お仕事柄、資料を作ってるからだよ」

 だめだ。何が何だか全く理解が追いつかない。

 そもそも、私は気がついたらこの場所でこのように手足を拘束され、この男の目の前に座り込んでいた。

 白い壁に囲まれた空間に、事務机とパイプ椅子が一つ、床には安物の手触りの黄ばんだカーペット。事務机に寄りかかるように立つ男が一人と、壁に寄せられた大きさがバラバラのファイル、書類、お菓子のゴミ……。

 この訳の分からない部屋に私はいつの間にか連れてこられて、この男と対峙しているのだ。言葉が出ない私に、スーツの男は勝手に続けた。

「状況が分からなくて困ってるみたいだね。ちょっと整理しよう。駅のホームから落ちたことは覚えてる?」

 それは、覚えている。眠れなくて疲れがとれなくて、頭がぼうっとして、ふらっと倒れて線路に落ちた……その感覚は、しっかり覚えている。

 頭ではおかしいと思ったが、体に残っているホームから落ちるあの瞬間が、自分の中の仮説を肯定する。

「もしかして私、死にました?」

 男は残念だねと微笑んだ。

 そうか。死んだら幽霊になるって、本当だったのか。

 男の言うとおり、散々な人生だった。酷い目に遭い続け耐え続け、挙句の果てにこの若さで命を落とすなんて。

「よかった……」

 ぽつり、呟くと男は眉を顰めた。

「よかった?」

「本当に死んだんだとしたら、とても助かりました。もう疲れていたので……」

 汚いカーペットに視線を落とす。涙は出なかった。

「生きてても地獄でしたから……」

「なんだよサッチー、地獄はもっと地獄だよ」

 スーツの男が馴れ馴れしく呼んだ。目を上げると、彼はよいしょと背後の机に腰を下ろした。

「地獄、本当にあるんですか?」

 尋ねると彼は、あは、と笑った。

「ある。ここが地獄だよ」

 さらっと返されたこたえに、私はしばし絶句した。

 今いるこのプレハブ小屋みたいな部屋が地獄だなんて、にわかに信じられない。冗談だと思いたいが、冗談にしてもセンスがない。

「私の聞いてる地獄のイメージと違うんですが」

「マジだって、俺、エンちゃんだよ。閻魔だからエンちゃんだよ」

 更に驚いた。地獄のイメージとも違うし、この人が閻魔大王というのも想像と違う。

「大王って言うのやめてね、恥ずかしいから。エンちゃんって呼んで」

 あまりにもフランクな性格だが、ここで信じられないと言い続けても無駄な問答になる。

「……仮にここが本当に地獄だとして。なぜ私が地獄行きなんですか」

 私は胡散臭いスーツの男を睨んだ。

「その手元の資料があれば分かりますよね。私はこんなに真面目に生きてきたんですよ。悪いことなんて一つもしてない」

「真面目ねえ。本当にそうかな?」

 彼は意味深に口角を上げた。

「自分の人生をめちゃくちゃにした奴らを全員、『こいつさえいなければ』って思ったでしょ?」

 びくっとする。心の奥底の悪意を読み取られたみたいだ。

「そんなこと思ってなんか……」

「嘘ついたら、舌抜くよ?」

 脅かすように言ってから、彼は黙った私を一瞥した。

「なんてね。そうだね、サッチーはとっても真面目だ」

 行儀悪く机に座る彼は、また一枚の用紙で纏まってしまう私の人生に目をやった。

「因みに『自殺した奴は地獄行き』のルールはご存知?」

 言われて、ハッとなった。

「自殺じゃないです!」

 慌てて叫んだ。が、彼は無言で資料を見つめるだけ。

「自殺じゃないです、ただ体が弱ってて、立っていられなくて、線路に落ちてしまっただけなんです。自殺じゃありません!」

 この酷い人生を終えてこの若さで死んだ上に、冤罪で本物の地獄行きだなんてたまったものじゃない!

 青ざめる私に、男は表情一つ変えずに言った。

「そんでさ。運悪く地獄なんぞに来ちゃったサッチーに、来ちゃったついでにお願いがあるんだけど」

 私の必死な訴えも虚しく、完全に無視された。

「『小鬼強化レッスン』に参加してくれないかな?」

「小鬼……強化?」

 呆然とする私に、スーツの男は長い人差し指を立てて続けた。

「小鬼といっても、子供の鬼という意味じゃなくてね、半人前の鬼を総括して小鬼と呼ぶんだ。で、その未熟な鬼たちを教育してほしい。まずは面接から」

 嫌な予感しかしない。

「相手は鬼だからね。人間のような躾とは違うよ。君に育ててほしいのはとびっきりの悪い子だ」

 絶対向いていない。私は床から彼を睨んだ。

「嫌です。死んでからもそんな大変そうなこと」

「言ったでしょ、地獄は地獄だって」

 私がどんなに逆らっても、男の態度は変わらなかった。


 *


 プレハブみたいな造りの部屋だったが、ドアを出ると同じような薄い白い壁に囲まれた廊下が伸びていた。私はやっと手足を縛る紐を外してもらい、例の男と共にその温度のない廊下を歩いていた。

「鬼には五色のタイプがあってね。それぞれが違う役割を司ってるんだ」

 話す男は私が逃げないように手首をしっかり握っている。

「人の心の蓋を五蓋といい、その五蓋に一色ずつ担当してる鬼がいるわけさ」

 男の手は冷たかったけれど、肌の質も爪も、普通の人間と変わらなかった。

「サッチーにはこれから各色一匹ずつ五匹の小鬼と会ってもらう。まずは相手の個性を知ってくれ」

 めちゃくちゃだ。いきなり死んで、勝手に話を進められ、訳が分からないまま得体の知れない小鬼とやらの面倒を見させられる。本当に地獄だ。

「まずは、この子を紹介しよう」

 スーツの男が、廊下に沿って付いているアルミ戸を開けた。瞬間、きゃあっと悲鳴が上がった。

「ちょっとエンちゃん! ノックくらいしてよ」

 中は六畳程度の部屋で、敷きっぱなしの布団の上に脚を投げ出す少女がいた。背中まである長い髪は目が覚めるような赤。口から覗く鋭い牙。髪を貫いて伸びる角。きっとこの少女が鬼だ。ただ、ごく普通の高校の制服みたいな格好をしているが。

「彼女は貪欲とんよくの鬼、シュカだ」

 スーツの男が私に少女を紹介する。

「貪欲というのは渇望、欲望、全ての悪心って意味。だからこの子は総合的に悪い子でなくちゃならない」

「何よエンちゃん。今度はこの女がターゲットなの? ふーん。トロそうね」

 シュカが立ち上がり、私の前にずいっと近づいてきた。ぞっと背筋に汗をかく。この距離感。ターゲットという単語。嫌な奴を思い出す。


「へえ、そいつ庇うんだ。じゃあ次のターゲットはあんただね」


 高校時代に私を不登校に追いやった、クラスの女子生徒がどうしても重なってくる。声が出せなくなって額に汗を浮かべた私を見、シュカはふいっと背を向けてまた布団に転がった。かと思えばまた起き上がり、私に詰め寄ってきて、手汗を握った私の手をとる。

「これやるよ」

 シュカの柔らかい手が離れた。私の手の中に、何かが握らされている。指を開いてみると飴玉が一つ、乗っていた。

「私は人間なんか嫌いなんだけどね! あんたたち弱っちいから、たまには甘やかしてやんないとすぐへばるから!」

 目を逸らして壁を睨み、シュカは早口に言った。ぽかんとする私を横目に、スーツの男は笑った。

「シュカは貪欲の鬼でなきゃならないのに、すげえいい子なんだよ。汚い言葉を使うのも、悪い子にならなきゃ! って真面目に思ってるからだし」

 私は言葉を失った。彼女を見て私が思い起こしたのは、不良の女だったのに。シュカはどうも、そんな娘ではない。

「エンちゃん仕事残ってるよね? この女の案内は私がするから、エンちゃんは事務室戻ってなよ」

「気が利くねえ」

「ち、違。働け、バーカ!」

 重ねてしまったのが申し訳なくなるほど、いい子だ。


 *


 スーツの男はシュカに促されるままいなくなり、私はシュカと共に再び廊下に出た。

「名前、サッチーだっけか。エンちゃんの説明は雑だから全然事態が掴めないでしょ。悪いけど私からは説明できなくてさ。でもあいつがしたいことは分かってるから、私についてきてくれればいいから」

 鬼なのに、とても親切な子だ。

「っと、違った。ええと……悪い子はこういうときなんて言えば……つ、ついてきたきゃくれば?」

 そしてとても健気だ。見ていて気の毒になってきて、私はつい、助けたくなった。

「あの、シュカちゃん。無理しなくていいよ。悪い子でいなきゃならないっていう使命は分かるけど、折角優しい子なんだから。せめて私と話すときくらいはありのままでいていいよ」

「バカじゃないの、日頃からちゃんとやらないと」

「力抜かないと、壊れちゃう」

「うるさいな、ほっといてよ」

 こういう言葉遣いも本心ではないと分かってしまうから、何だか申し訳なくなる。

「それより、次の鬼の部屋に着いたよ。ここにいるのは青鬼のソータ。瞋恚しんにの鬼」

 シュカが一枚のアルミ戸の前で立ち止まる。耳慣れない言葉に首を捻る私を見て、親切な彼女は続けた。

「悪意とか憎しみ、怒りの鬼だよ」

 それから彼女は戸をノックし、声をかけた。

「ソータ。シュカだよ」

 シュカの声かけに反応して、戸が開いた。今度は真っ青な髪の青年が出てきた。背が高くて細身。長い前髪で少し隠れた目がとろんとしている。

「シュカ……俺、昨日遅番で寝たの今なんだけど」

 私はまた、びくっと肩を縮こませた。

 私の訪問のせいで、安眠の邪魔をしてしまった。怒りの鬼らしいし、そうでなくても怒られても仕方がない。

 咄嗟にそんな恐怖が過ぎったのは、大学時代の元彼を思い出したからかもしれない。寝ていたとか食事をしていたとか、そういうタイミングに携帯を鳴らしてしまうと、怒鳴られ殴られるのだ。

 そんな私の恐れも気にせず、シュカは全力で「悪い子」を演じた。

「今寝たから何? 私には用事があるんだけど」

 今すぐ彼女の腕を引いて逃げようかとも思ったのだが、青鬼のソータはしばし目をぱちぱちさせて、それから口を開いた。

「そっかあ。うん、お話しようか」

 彼がふわっと穏やかに笑う。私は絶句した。人間でも怒るようなことを、鬼があっさり許した。

 そうだった、私が今会っているのは未熟な鬼。ソータも、瞋恚の鬼とは思えないくらい、悪意も憎しみも怒りも出さない性格なのかもしれない。

「サッチー、挨拶は?」

 シュカに促されてハッとした。慌ててソータに近寄る。

「こんにちは、よろしくお願いし……」

 近寄りながら会釈をしようとして、滑る床に足を持っていかれた。ひゃあっと叫びつつ前のめりに転げた私は、目の前の青年のジャケットを思わず引っ掴んだ。ぷつん、と糸の切れる音がする。

「あっ。取れちゃった」

 ソータの声に、バッと顔を上げた。私が掴まったせいで、ソータのジャケットのポケットが引きちぎれてしまったのだ。普通の血色の青鬼よりも、私の方が青ざめた。

「ごめんなさい!」

「いいよ」

 またもや温厚に返される。私はうーんと苦笑した。

「もっと怒っていいと思いますよ? 疲れませんか?」

「怒る方が疲れるよ」

「でも、溜め込むのはよくないですよ」

「溜めてないよ。嫌な気分のときは寝て忘れるから」

「でも寝てるときに、こうやって邪魔されてる」

「んん……」

 今度はソータが苦笑いした。


 次に会ったのは、黄色と緑の二匹の鬼だった。カスタード色のふわふわの髪をした三歳くらいの女の子と、深緑色の髪をパキッと固めてパソコンに向かう大人の鬼だった。

 部屋の戸を開けた私たちを見て、黄色の女の子がてくてく歩いてきた。シュカがそっと抱き上げる。

「この女の子はナオ。掉挙悪作じょうこおさ……つまり、自己中な甘えを司ってるんだけど」

「シュカちゃん、今ハノちゃん忙しいからシーッね。ナオも静かにしてるから」

「見てのとおり、甘え方を知らない」

 歳の頃は、姉の娘と同じくらいだ。もっとも、姪は我儘で私に懐かなくて、言うことなんか聞いてくれない三歳児だったけれど。

「緑鬼のハノは、私たちより比較的優秀な鬼なんだよ」

 シュカが目を血走らせる緑鬼を指さした。

「こん沈睡眠ちんすいめんの鬼。倦怠、眠気、不健康を司ってるんだけど、ハノは倦怠以外は満たしてるの」

 目の当たりにする緑の鬼は、狂ったように仕事に明け暮れている。倦怠は突破して眠気と戦いながら不健康に仕事をする……。

「社畜だ」

 叫びそうになったが、ナオから「シーッ」と言われているので声を潜めた。あまりに真面目すぎる。今務めている会社で教育を任された新人もこれくらいに……いや、こんなになられたら逆に困る。

「ハノさん忙しそうなのに、なんでナオちゃんの面倒を見てるの?」

 同じ部屋にいたこの組み合わせに、疑問を浮かべる。忙しそうな人のところに子供がいたら集中できないし、ナオも甘えられない。シュカがナオの髪を撫でてこたえた。

「ナオは私のところで預かってもいいんだけど、ナオ本人がそれじゃ甘えちゃうから申し訳ないって。何もできない自分だけど、忙しそうなハノを少しでもお手伝いしたいんだって」

「ナオちゃんはもっと甘えていいと思うよ」

「ハノはハノで、小さい子がいれば目を離せなくなるから眠らない理由になるんだって」

「ハノさんは休んで……」

 なんでだ。なんで皆して、そんなに自分を追い込むんだ。


 *


「次が最後の鬼だよ」

 シュカに手を引かれて、白い廊下を歩く。何だろう。無性に疲れる。私は額に手のひらを押し付けて、頭痛を耐えた。

 スーツの男の読んでいた、資料を思い出す。私の中の苦い記憶ばかりを記録したA4用紙だった。記されていたのは高校時代のいじめっ子、続いて大学の頃の元彼、姉の娘の幼い子供、働かない新人社員。その一人一人が、出会う鬼がそれぞれ嫌な誰かを思い出させる。わざとそういう巡り合わせに嵌めているかのように。

「最後の子はとっても優秀なの。もう未熟な小鬼じゃなくて、一人前として認められてもいいと思うんだよね」

 シュカの赤い髪が目の先で揺れている。

「あっ、いい所に! 会いに行こうと思ってたとこだよ、フウコ」

 シュカがひらっと手を上げた。私は彼女の視線を追い、その先の鬼を見上げた。

 立っていたのは肩までの黒い髪の、私と同い歳くらいの女の人だった。

「こ、こんにちは」

 私はシュカの後ろから、フウコに会釈した。黒い髪に黒い瞳、飾り気のない服に身を包んだ彼女はシュカ越しに私を見据えた。

「……誰……?」

 フウコから発された声は、酷く怯えて震えていた。

 鬼なのに、人間を怖がっている?

 戸惑う私をちらと見て、シュカが苦笑した。

「フウコは黒鬼……の鬼なの。疑いの心と愚痴の鬼」

 なるほど、一人前として認められてもいいレベルの疑の鬼だから、こんな風に私を警戒しているのか。

 私も、恐る恐る彼女を観察した。

 高校時代のいじめっ子、大学の頃の元彼、姉の娘の幼い子供、働かない新人社員ときて、この女性は私の人生の何を表しているの? 年齢的には子供を押し付けた姉に近いが、それは自分の中でリンクしてこない。

 じっと見ていると、フウコは少しずつ顔を青白くしていった。

「シュカ、私、この人怖い」

「サッチーは怖くないよ」

 シュカが小首を傾げても、フウコは肩を竦めて私を凝視していた。

「怖い。私のこと睨んでる」

 フウコのもともと色白の顔がどんどん青ざめていく。

「どうして私がこんなに怖い顔をされるの? 私が何をしたの? どうして私なの?」

 優秀な疑の鬼は、被害妄想を重ねていく。それから諦めたように目を細めた。

「……睨まれても仕方ないんだわ。私がこんなだから。私がだめな存在だから。シュカだって、本心ではバカにしてるんだわ」

「してないよ! フウコっていつもそうね」

 シュカが笑い飛ばしても、フウコはまだ俯いていた。

 何だろう。

 高校時代のいじめっ子や元彼とか、具体的な「誰か」に結びつかないのに、フウコの性格はものすごく私の胸に刺さる。

「フウコさん、あの……」

 刺さるから、放っておけない。

「そんなに自分を責めないでください。シュカちゃんもこう言ってるし、あなたが思ってるほどあなたの周りは意地悪じゃないです、よ」

 しっかり諭したかったのに、語尾が震えた。

 言いながら気がついたのだ。

 フウコが誰をうつしている鬼なのか。分かってしまったら、もう、目の前に立っていられない。

「サッチー」

 シュカが私の名前を呼んだときには、私はフウコから逃げるように、廊下を一人で走り出していた。


 *


 やっぱりだ。気のせいなんかじゃない。

 高校時代のいじめっ子、大学の頃の元彼、姉の娘の幼い子供、働かない新人社員。その全ての正反対のような鬼たちと、そして、疑心暗鬼の黒い鬼。

 私は元来た道を逆走して、最初に鎮座させられていたスーツの男のいる事務室の扉を開けた。

「お、帰ってきたね」

 スーツの男は私が来るのが分かっていたみたいに、机に座って背後に手をついていた。彼を見るなり私は、開口一番に洩らした。

「閻魔さん……じゃなくて。エンちゃん、さん。あなたが私に紹介した鬼たちは、私が鬼だと思っている人間たちを表す存在なの?」

 性格は違ったけれど、どうしても頭の中で結びついてしまっていた。

「そして黒い鬼のフウコさんは、私自身なの?」

 彼女はまるで、私自身の影法師のようだった。

 スーツの男は私を見据え、ふっと口角を上げた。

「惜しい」

 とん。スーツの男の爪先が床を蹴る。

「君が気づいたとおりだ。鬼は人の心に巣食う毒……言ってみれば、精神活動の闇の部分が偶像化したもの」

 彼の足がカーペットに降り立った。

「ただ、君自身の鏡だったのはフウコだけじゃないよ。シュカもソータもナオもハノも。全部、君自身の鬼だ」

「えっ……」

 咄嗟に、言葉が出なかった。理解が追いつかなかった私に、スーツの男が静かに歩み寄ってくる。

「人間は都合の悪いことは人のせいにしたくなる生き物だから、サッチーが小鬼たちを見て他人を連想したのも無理もない。でも他人の鬼は、君の地獄にいるはずないでしょ?」

 戸惑う私の正面で微笑み、すっと歩を進める。

「シュカは、いじめられても反撃せず、誰かに言いつけることもしないで自分の中の『いい子像』を貫き通したサッチー」

 長い指を一本立て、私の横に立った。

「ソータは元彼に酷い目に遭わされても無理やり許し続けたサッチー。ナオは子供を預けられて納得がいかなくても、誰にも甘えず文句も言わずに面倒を見ていたサッチー。ハノは力量に合わない仕事を与えられて休む間もなく不健康に働いたサッチー」

 男が私の脇を通り抜け背後に回る。

「そして、人を信じられなくなって、自分を責めていたサッチーが、フウコ」

 私の周りを一周し、スーツの男はまた事務机に上って腰を下ろした。

「そりゃ疲れるわな。自分自身を見つめ直してたんだから」

 彼らに言った、私の言葉を思い出した。

 無理しないで。怒っていいよ。甘えていいよ。休んで。そんなに自分を責めないで……。

 つまりそれは私自身が、もっと楽にしていてよかったということ。傍から見たら、そんな自分になっていたということ。

「サッチーは鬼を飼うのが下手すぎたね。バランスが悪すぎる。人間ってのはもっと、心の中の鬼を容認して上手く付き合ってくもんなんだよ」

 ああ、なるほど。妙に納得した。私は不器用すぎたのだ。

「でも、だから何だって言うのよ」

 私はスーツの男を睨んだ。

「それで、小鬼強化レッスンとして、私を意味するあの未熟な鬼たちを育てればいいの?」

 心の鬼を強化して社会の荒波に強くなったとしても、もう遅い。

「私はもう死んでるのに? 何の意味があるの」

 力の抜き方を知らずに勝手に自分を追い込んだ、愚かな私を知っただけ。人生に疲れて地獄でも疲れて、この先も意味のない活動で疲れさせられるというの?

 しかしスーツの男は、くりんと首を傾げて笑った。

「次の準備をするから、サッチーはちょっと扉の外にいて」

 スーツの男がぴょんと机を降りてアルミ戸を開けた。唐突な指示を受けて目を白黒させる私の背中を押して、戸の外に閉め出す。文句も挨拶も言う前に追い出され、きょとんとしていると、白い廊下に映える赤が視界に飛び込んできた。

「お疲れ様」

 私に一言だけ添えて、シュカは事務室の戸を開け入っていった。


 その後のことは、あまりよく覚えていない。覚えているのは薄いアルミ戸の向こうから聞こえた、スーツの男とシュカの会話だけ。

「ねえエンちゃん。サッチー、あれで強化されるの?」

「まあ、真面目な子だからね。あれだけ自分を見つめ直せば、次どうするかちゃんと考えるよ。今までだってそうやって、不登校を克服したし就職だってしたし、乗り越えられる子だから」

「最初に説明すればいいのに。『小鬼強化レッスン』は小鬼をレッスンするんじゃなくて、小鬼を利用して人間を強化するレッスンなんだって」

「言わない方がいいんだよ。自分から気づくことが大事なんだ」

「それにサッチー、自分が死んだと思ってたみたいじゃん。ただ一時的に意識を失ってここまで来ちゃっただけで、すぐに帰してあげられるのに。どうして死んだだなんてそんな嘘ついたの?」

「俺は嘘は言ってないよ。死んだの? って聞かれても返事しなかっただけ」

「騙してるんなら、結局嘘つきだよ。閻魔なのに嘘つきだね」


 *


 ハッと意識が戻る。

「女の子が落ちたぞ!」

「すぐに助けろ!」

 知らない人々の声が頭上から降ってくる。私は通勤に使う駅の線路の上にうつ伏せに倒れていた。

 どうも額を打ち付けて意識が飛んだようだが、電車が来ていたわけではなかったので、轢かれる前にホームに戻ることができた。

「電車が来てたら死んでましたよ。あなたツイてますね」

 駅員が汗を拭いながら微笑んだ。

 本当に運がいい。ハッピーでラッキーな「福富幸」の名前は伊達じゃない。


 この世界は、案外私に甘いらしい。

 私がもっと上手に鬼を扱うことができれば、もっと軽く、もっと楽に、もっと自分を愛せるはずだ。意識のスイッチは確実に切り替わった。そんな不思議な、午前八時の出来事だ。

 体は相変わらず疲れていたけれど、ホームから見える空はやけに青々と高く明るく見えた。

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地獄で地獄を見てる 植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売 @sui-uehara

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