KAC202210 カマキリを飼う女
星都ハナス
真夜中
「田中さん、目が覚めましたか? 田中アヤトさん」
───消毒液の匂い。うっ、眩しい。目が開かない。
「田中さん、いっ、今先生を呼んできます!」
ここは何処だ? 誰か俺の名前を呼んだか?
「田中さん、気づかれましたか。……麻酔から覚めたようです。いいですか、五分間だけですよ、刑事さん」
甲高い女性の声の後、低い男の声がした。ケイジさんとは誰だ?
「田中さん、頭は痛みますか?───私は岡部と申します。たった一つだけお伺いしたい事があるのですが、昨夜、あなたは誰と一緒でしたか?」
「刑事さん、いきなり患者さんを刺激する質問は控えてください。手術が終わったばかりだ。うちの病院でも症例のない、あっ、先に脳波の検査を……」
麻酔、手術、脳波の検査? まさか俺の事を言ってるのか、ここは病院なのか?
俺は開かない目の代わりに、右手を動かす。なんとか動くがチューブに引っ張られているのを感じた。
「田中さん、点滴中です。どこか痛いところはないですか?」女性の声と同時に腕をおさえつけられた。仰向けになったままなのが分かる。体は鉛のように重く自分の意思では微動だにしない。
「……ここは病院ですか?……俺はなんでこんな所に?」
声は辛うじて出るようだ。眩しいと感じていた光に慣れたのか、少しだけ目が開く。白髪混じりの男は医師か。まるで実験動物を見るような好奇の目を俺に向けている。反対側の男は誰だ? 眼鏡の奥の鋭い眼光。
「検査に連れて行く前に、一つだけ確認させてください。田中さん、昨夜はあなた一人だけでしたか! それとも女性と一緒でしたか?」
言葉こそ丁寧だが、眼光鋭い男は、挑みかかるように声を荒げた。こいつ、刑事か。俺はまた何かしでかしたのか。
───昨夜は女と一緒だった。
いつものように仕事が終わって帰宅。いや、確か帰宅途中でコンビニに寄った。単身赴任だ。ビールがきれていたのを思い出し、ツマミ三袋を買った。
「田中さん? もしかしてあなたアヤトさんじゃない?」
レジで精算している俺に声をかけてくる女がいた。誰か分からなかったが、俺の下の名前を知っている。高校時代か大学時代の同級生か。どっちだっていい。
「アヤトさん、ヨウコだけど覚えてる? 久しぶり。まさかこんな所で会うなんて。仕事帰りですか?」
「まっ、まぁ」
俺は曖昧な返事をした。やけに馴れ馴れしくヨウコと名乗る女は、コンビニを出た途端、幼馴染のヨウコだとか、歩いて五分の所に住んでいるとか、色々と語った。
「……アヤトさん、よかったらうちで飲まない? 再会の乾杯しよ」
そう言って俺の腕に手を回す。久しぶりに女の柔らかい身体に触れて、本能のまま俺は女の家に行ったはずだった。
「田中アヤトさん、大井川商事勤務。三十五歳で間違いないですか? あなたの背広のポケットから財布と名刺が見つかり、会社に確認しました。今日、無断欠勤をされているとの事で、事情はこちらから伝えておきました」
眼光鋭い刑事が恩着せがましく言う。
「で、一緒にいたんですね。女性の名前は?」
「……ヨウコ、確かヨウコって言ってました。彼女は今どこに?」
「それはこっちが聞きたいんです。いいですか、思い出してください。田中アヤトさん、あなたどこで発見されたと思います。近くの大川の川原です」
川原だと。俺がなんでそんな所にいなくちゃいけないんだ。昨夜俺はヨウコの家に行ったはず。一人暮らしの家より、ヨウコと名乗る女とあわよくば一夜過ごせるという期待を抱いて。俺には分かった。あの女は幼馴染だと嘘をついて俺を誘った。
長い黒髪。白く透き通るような肌。整った細い眉。男好きのする目、口元。
コンビニできっと男漁りをしていたに違いない。幼馴染という割には俺より十才は若く見えた。俺は騙されたふりをして女の家に行った。
金を払えと言われたら払うだけの余裕が財布にあった。案の定、家に着くと同時に女はシャワーを浴びるといい、俺に飲んでいるようにと言った。
ワンルーム。シングルベット一つ。小さなテーブル。男を誘い込んで金を貰うだけに借りた部屋なのだろう。その目的ならば十分な広さだ。
俺は自分で買った缶ビールを一つ空ける。ベッドの横に白いドッレッサーがあって俺の下ごごろのある醜い顔が鏡に写る。
女なんかクソ喰らえだ。女なんか俺にとったら公衆便所と同じだ。
便所。俺は腹に違和感を感じトイレに行きたくなった。尿意を催した。
「すいません、ちょっとトイレに行きたいんですが。点滴を外して貰えますか?」
「田中さん、尿意を感じるんですね。良かったです。一時はどうなる事かと思いました。大丈夫ですよ、管が入っていますので……」
「どういう事でしょうか? そもそも俺は、いえ、私はなぜ、川原にいたんでしょうか? そこら辺が記憶が曖昧なんです」
俺の言葉に医師はやっぱりという怪訝な顔をし、刑事と目を合わせて頷く。
「大変申し上げにくいのですが、あなた、背広は着ていたのですが、実は、うっ、下半身には何も身につけておられませんでした。どこでお脱ぎになったのか。いや、本当の事を申しますと、目撃者がいて……」
───下半身は何も身につけていなかった。だと。
脱いだとしたら、あの時しかない。ビールを二缶空にした後、俺は女の家でトイレを借りた。流石に女性一人の家だ。座ってした。
───カポッ、カポ、コポッ
何の音だ。トイレが詰まった時に聞いた事がある音。
俺は一瞬焦ったが、水を流すと普通に流れて安堵した。その時、女が俺をシャワールームから呼んだ。どこでやってもいい。そう単純に受け取った。
背広を脱いだ時、腹に違和感を感じる。一瞬針で刺されたような痛みが走る。その時の痛みを思い出して顔が歪む。
「田中さん、大丈夫ですか? お腹が痛みますか。手術で全て取り除いたのですが、まだいるのかもしれない。下剤でも処置しましたから、もしかしたら出てくるかもしれない」
「下剤で処置? どういう意味ですか? 腹の中に何かいたんですか?」
俺は川にでも入って汚水を飲んでしまったのか。はっきり言ってくれ。
「田中さん、あなたが負った身体の症状についてお話ししたいのですが、検査が終わり、経過観察後、一つずつお伝えした方がいいと思います。こちらも今までに見たことのない症例でして。先ほど、目撃者がいると刑事さんが言ってましたが」
医師は言葉を濁し、刑事にこれ以上話すべきではないと確認すると首を振った。
「俺の身体だ。知る権利がある。先生、何を聞いても驚きません。教えて下さい」
「……あなたの身体中に寄生虫がいました。ハリガネムシと言われる寄生虫てご存知ですか? 例えばカマキリなどに寄宿し……」
───カマキリ。カマキリ。最近どこかで見たような気がする。
女の部屋だ。ビールを飲みながら、ふと出窓を覗いた時だった。飼育ケースがあって、腹が異様に膨らんだカマキリが二匹ほどいたのを見た。
一人暮らしの女の部屋には不釣り合いなカマキリ。気味が悪いと思ったのも事実だ。覗き込む俺の視線に気がついたのか鎌を持ち上げて威嚇してきた。
そうだ、思い出した。俺は腹が立って飼育ケースの蓋を開けて、餌をやるための割り箸で、カマキリを挟み……首を捻った。もう一匹は腹を刺した。
「まさか、その時出てきたハリガネムシが口に。そんなバカなことありませんよね? 少し酔っていたので」
俺は小さい頃、臆病だった。昆虫図鑑でカマキリを見た時、怖くて大泣きし母親にこの弱虫とつねられた記憶がある。
中学生になった頃、カマキリを見つけるとあの頃の母親の顔を思い出して、苛立ち踏みつけた。カマキリは俺の自尊心をズタズタにする存在だった。
「田中さん、正直にお話ししましょう。あなたのお腹の中からは一メートル弱のハリガネムシが三匹出てきました。そして脳内にも五十センチ大のが五匹いました。そしてあなたの性器は傷だらけでした。こちらはすぐ治ると思われますが」
俺は吐き気を催した。思い出した、全てを思い出したのだ。あの後、俺はシャワールームで女を抱いた。いや、入れた瞬間に全身に痛みが走ったので、すぐに抜いた。その時の傷なのか。
目撃者の話によると、俺は川原をヨタヨタと歩き、光に導かれて川に入っていったという。真夜中に光る川面。初めて見た光景だったので、近づいて確かめてくれたらしい。
俺は命拾いをした。あと少しで川で溺死するところだった。
カマキリに寄生したハリガネムシは宿主として、カマキリの脳をマインドコントロールし、水の中にカマキリを沈ませる。カマキリの尻から出た瞬間、ハリガネムシは卵を産む。子孫繁栄のためだ。
ヨウコは何者だったのか。川面に入るまで女は笑って俺を見ていたという。
俺を助け出した後は、もうそんな女はどこにもいなかったそうだ。
まさか、ヨウコはカマキリ。痛めつけられてきた仲間への復讐のため、俺を自殺に見せかけて……それは考えすぎだ。
医師も刑事も非現実的だと笑い、検査に行くよう手配してくれた。
俺が女と無理心中したかもしれないという疑いも晴れ、一ヶ月ほどで退院できるところまで回復した。
退院の日、メッセージ付きの見舞いの花が俺宛に届いた。
「田中さん。受付にお見舞いが届いたんですが、とても素敵な花束です。……あら、この白いふわふわしたもの何かしら?」
受付の女性がメッセージカードを手渡してくれた。
子供たちを贈ります。ヨウコより。
了。
KAC202210 カマキリを飼う女 星都ハナス @hanasu-hosito
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