猫せんべい

水瀬 光

猫せんべい


とある商店街の一角にそのせんべい屋はあった。神田広則はその店を一人で切り盛りしている。

今年で31歳になる広則は、20代の頃よりも疲れやすくなった体をなでながら誰もいない店内を見渡す。


別に自分はせんべい屋になりたかったわけではない。

広則が幼い頃、両親がこのせんべい屋を開業したが、広則が28歳の頃に二人とも事故でなくなってしまったため、広則が跡を継いだのだった。


両親がいた頃は父の確かな技術と母の明るい人柄で人気だったこの店も、今は活気のない廃れた店になってしまっている。


両親が亡くなったばかりの頃は「頑張ってこのせんべい屋さんを続けてほしいから」と常連さんたちもよく来てくれていたが、父の味には劣るせんべいと広則の内気な性格に次第に客足は遠のいた。


両親が亡くなってから赤字続きのこの店は、二人が何かあった時のために広則に遺してくれた貯金を切り崩して何とか成り立っている。


「もうやめた方がいいのかな、この店」

広則はカウンターに座りながら一人つぶやいた。


すると、店のベルが鳴った。今日はじめてのお客さんだ。


「いらっしゃいませ」と言いながら入口の方を見るが、誰もいない。


風か何かで間違って開いてしまったのかもしれない。広則はふっと短いため息をつき、店の奥に行こうとしたが、その瞬間、視界に白いふわふわとした物体が映った。


「うわっ」

突然のできごとに驚いて声をあげると、その物体は「ナーン」と鳴いた。

顔を見るに猫のようだが、普通の猫の2倍はある胴体、短い手足、丸い尻尾、横長のふてぶてしそうな目、黒くて丸い鼻はお世辞にも可愛いとは言えない。白地に薄茶色の模様で唯一かわいらしさを醸しだそうとしているようだが、かえって胴体のずんぐりさを膨張させてしまっている。


「何だよ、あっちいけ!」

食べ物屋に動物がいるところを見られたら評判が落ちてしまうかもしれないと思い、広則は追い払おうとした。すると、


「もうこれ以上落ちないから大丈夫だ」


広則の心の声に反応するかのように、どこからか低い声がした。


誰かいるのかとあたりを見回したが誰もいない。とうとう自分は幻聴でも聞こえるようになってしまったのだろうか。


「幻聴ではない。私がしゃべっている」


声は下の方からする。まさかこの猫か。どこかに仕掛けがあって猫が話しているように見せているのかもしれない。


「残念ながら種も仕掛けもないぞ」


もしかして本当にコイツが?でも、仮に猫がしゃべれたとして、どうして俺の心の声まで読めるんだ?


「お前、猫は神が創った最高傑作だって言葉知らないのか?神が創ったから人間の考えてることなんかすべてお見通しなんだ。イスラエルのムハンマドくんなんかは、それにいち早く気づいて言行録に[ネコを大切にするように]なんて言葉を遺したもんだから、神様も彼を気に入っちゃってねえ。苦労して創ったものを認めてもらえるとやっぱり嬉しいんだろう」


猫はうんうんと頷いた後、広則の方を見た。


「私はね、お前の両親にとってもお世話になった。こんな見た目だから、食料がほしくて人間に近づいても追っ払われてばかりだったが、お前の両親だけはこんな俺にも優しく食料を恵んでくれた。可愛いとなでてくれた。いい人ほど早く逝ってしまうというのは本当にこの世の不条理だよ。残されたものはろくなものがありゃしない」


そう言って広則の方を見る猫。


「何だよ。悪かったな、ろくでもなくて」


「自覚があるだけましだ」


「そんなことを言いに来たのかよ」


「いや、そうじゃない。俺はお前の両親が亡くなってからもずっとこの店を見守ってきた。別にお前のためじゃない、この店のためだ。あの二人が大切にしていたものがなくなるのは嫌だと思ったからな。

 少し客が減ることはまだ我慢ができた。しかし、今日店の前を歩いていたらやめようかななどという声が聞こえてきた。お前のもろい精神力のせいでこの店が終わってしまうのはどうしても納得がいかない。だから、喝を入れにきたんじゃ」


「お前に俺の何がわかるんだよ。いきなり店も何もかも一人でやらなきゃいけなくなって、でも売り上げは落ちてくばっかで。一生懸命やったって何にもよくならない。俺は親父みたいに経営の才能もせんべいを焼く技術もないし、お袋みたいに明るくないから人望もない。神が創ったか何だか知らないけど、俺はもうこんな生活疲れたんだよ」


「言い訳は終わったか」


「言い訳じゃねえよ。事実なんだよ」


「じゃあ言うが、一生懸命やったとお前は言うが具体的に何をやった?やれることは全部やったと本気で思ってるのか?少しでも認知度をあげるためにチラシを作ったり、また来てもらえるようにクーポンを配ったり、広告に載せてアピールしたり、サイトを立ち上げてネット販売をしたり、せんべいを焼く技術を学びに行ったり、経営者としてやれる今言ったことを全部やったのか?何もやっていないだろ。言い訳は全部やってから言え。」


広則は何も言い返せなかった。この憎たらしい猫が言うことはもっともかもしれないと思ったからだ。


「…わかったよ。やればいいんだろ」


「わかってくれればいい。人間はピンチの時によく『猫の手も借りたい』と言うだろう?でも、猫だって自分の大切な手を貸す相手は選ぶ。さっき言ったのはほんの一例だが、これからはビシバシ厳しく指導させてもらうぞ。二人の大切なせんべい屋を立て直すんじゃ」






3年後、幼い女の子がテレビを見ながらはしゃいでいる。


「あっ、猫さんのせんべい可愛い!」


「ほんとね~」


そんな娘とともに微笑みながらテレビを見る母親の視線の先には、ふてぶてしい目の猫の顔をしたせんべいと、ぼてっとした肉球の形をした猫の手せんべいが新食感で今大人気だというニュースが流れていた。


インタビューされている青年はこう言う。


「僕の恩師である猫の厳しくも愛のある指導をモチーフに、カリッとした食感とふわっとした食感を掛け合わせてみました」

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