ネコノテの功罪
群青更紗
第1話
借りるんじゃなかった、と芹香は思った。ずっと誰にも頼らず生きてきたのに。貸すことはあっても、貰うことはあっても。その「貰う」だって、こっちがせびるんじゃなくて、相手が勝手に持ってくるもので、仕方なく受け取るもので。借りを作るなんて。絶対にあってはならなかったのに。
芹香はしっかり者だった。その大半は生育環境に起因していた。伊賀の忍者のトップの祖母の、その娘である生母が、芹香を生んで三日で逃走したこと。結果、祖母の養女となり、歩けるようになるやいなや、忍術の修行をさせられたこと。様々な隠密活動の中で、人間というものの醜悪というものを、これでもかというほど見せられてきたこと。そんな訳で、芹香は幼稚園に通う頃には、「頼りになるのは自分だけ」という座右の銘を持つことになった。その幼稚園でさえ――祖母の意向で私立の名門女学園だったが、――通って早々「わたくしのおとうさまはあなたのちちおやのじょうしなのよ、だからわたしにしたがいなさい」などと、「お前の手柄じゃねぇだろ」ということをドヤ顔ででクラスメートにのたまう同級生らを目にし、「アホくさ」と自らの意思で退園した。その後、公立の幼稚園・小学校・中学校を経て、自らの意思で選んだ高校と大学に進学している。
借りてしまったのはほんの気まぐれだった。というより借りるつもりなどなかった。でも、あまりにもそれが、芹香のこれまでの人生の中で、見たことのない魅力を放っていたから。
ネコノテ。
最初見た時は仰天した。隠密として生きて18年、起こした修羅場は幾千万、芹香の肝は「驚く」という感情ごと火薬で消し飛ばした不動明王となっていたが、その明王を動転させたのが紗矢だった。
紗矢は一般市民である。しかしその佇まいに芹香は、これまでの仕事で見てきた「社長令嬢」だの「華族の血を引く者」だのと同じ匂いを感じ取り、ひとまずその時点で感心していた。「メッキだらけのお嬢様学校に、たまに紛れ込む本物を久しぶりに見た」という意味でだ。腰にまで届きそうな真っすぐな黒髪、足首にまで届かせるロングワンピース、白い肌。へえ、と思った次の瞬間、その持ち物に目が点になったのである。
ネコノテ。
紗矢は講義を受けに来ていたので、もちろんそのための用具を揃えていた。教授執筆の分厚くて高いテキスト、ルーズリーフ、筆記用具。そう、筆記用具。
彼女は何と、猫の腹を裂くようにして筆記用具を取り出していたのである。赤黒い中から取り出されるシャープペンシル。
「えっ」
芹香は思わず声を出した。瞬間、紗矢が振り向いた。あどけない表情。高貴な両親に優雅に育てられた顔。芹香は隣の席に腰かけ、食いつく勢いで彼女に迫った。
「ちょっと、それ、何!?」
「え?え?」
言われた紗矢――この時はまだ芹香は彼女の名を知らなかったが――は、何事かと目を白黒させている。やがて、何のことを言われているのか理解した彼女は、「ああ、」と答えた。
「筆箱」
「ふでばこ」
紗矢に渡され手にした芹香は、それが本物ではなくぬいぐるみポーチであることを理解した。しかし。
「何で中が真っ赤なの」
「本物に近づけたかったから」
「グロいじゃん」
「うん、でも可愛いでしょう」
確かにそうだ。ファスナーを閉じて、表を向けられたポーチは、芹香が本物と見間違えたくらいだから相当に可愛かった。そう、芹香は猫が好きであった。しかし、好きゆえに、このポーチの形態は解せないものがあった。なぜいわゆる「腹見せ」にした猫の、腹を縦に割く形にしたのだ。しかも中の布は真っ赤って。赤黒って。
「女子が使っていいデザインかよ」
「男子でもどうかと思う」
「いやそうかもしれないけど。少なくともお嬢が使っていいデザインじゃないだろ」
「お嬢?」
教授が来たので話はここで終わりになった。芹香と紗矢は並んで大人しく講義を受け、次の休み時間と昼休み、そして放課後を使って二人は友達になった。
グロネコポーチは、何と紗矢の手作りだった。高校卒業から大学入学の間に作ったという。他にも色々と、猫好きをこじらせたアイテムを紗矢は持っていた。そのうちの一つがネコノテだった。
紗矢とすっかり打ち解けて、共に過ごす時間が増えるうち、芹香は自分の隠密としての顔も教えた。紗矢は大して驚かず、「そういうところもお嬢っぽいんだよな」と芹香は言った。芹香がその手の発言をするたび、紗矢は苦笑して「田舎住まいの公務員の両親を持つ普通の家庭の小市民だよ」言ったが、「いや、お嬢というのはそういう問題ではない」と取り合わなかった。
で。
ある日、芹香が死んだような顔で講義室に現れた。さすがの紗矢もぎょっとして、とりあえず手にネコノテを握らせた。「はい、握って握って」フニフニフニフニフニフニフニフニフニ。芹香の顔に血の気が戻ってきた。
「……なんじゃこりゃ」
ネコノテ。猫の前足をリアルに再現したぬいぐるみで、肉球のところはシリコン。これも紗矢の手製だという。猫の手だから、ネコノテ。
「堪らんものを作ったな」
「でしょう」
そういう訳で、芹香は一撃でネコノテの虜になってしまったのである。その日は一日、ネコノテをフニフニしながら講義を受けた。休み時間も昼休みも、ひたすらフニフニしていた。そして放課後、やっと紗矢にそれを返しながら、芹香は言った。
「……これ、私にもひとつ作って」
芹香はその日、隠密を引退した。
ネコノテの功罪 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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