猫からの恩返し

海沈生物

第1話

 昨晩遅く、C地区にて集団殺人事件が起きた。しかも、その事件の犯人は人を殺さぬ顔をして、事件現場でご飯を食べていたのである。隣には安楽椅子へ座るおばあさんがおり、その犯人がご飯を食べている姿を嬉しそうに見ていた。私たちは犯人を両手で掴むと、その血で滲んだ”肉球”を見て、溜息を漏らした。


 捜査員の調べによると、被害者はC地区の住人全員。無論、目の前で眠そうな顔をしているおばあさんを除いた全員だ。付近の地区の人々に聞き込み調査をした限り、このおばあさんは野良猫へ餌をやっていることが前より問題視をされていたらしい。無論、ただ餌をやっていたわけではない。彼女は毎月受給している年金のほとんどをその猫に費やし、時には自分の食費の分すらも使い、餌をやっていたのだ。そのせいか、一度ならず三度までも救急車で運ばれたことがあるのだ。

 その度に「もう良い歳なんですから。猫よりもまず第一に、自分の身体を大切にしてあげてください」と医者から注意を受けていたが、「はい、はい」と生返事をするばかりで、帰宅することが許されると、また猫へ傾倒する日々へと戻ってしまったらしい。


 そんなおばあさんの様子を見た同じ地区の人々は、彼女に対して憐憫の感情を抱いた。

 早くに夫を亡くしたおばあさんにとって、家にいてただ日々を過ごすというのは、とても辛いものだったのだろう。しかも彼女は市が開催している、そのような高齢者向けのイベントやサービスを一度も利用したことがなかった。ポストには市から届いたチラシが放置されており、最低限のインフラ等を支払うお金だけは、専業主婦の頃からの名残かしっかりと支払っていたらしい。なぜチラシを取らなかったのかは不明だが、おばあさんをよく知る元知人(今は遠方に住んでいるらしい)が曰く、彼女の両親の「家事さえできれば、女には何もいらない」という古びた思想の上で育てられたのが原因ではないか、とのことだった。


 話を戻すが、地区の人々は頑なに家から出ようとしないおばあさんを、どうにか外へ出そうと考えた。何度かの説得は既に地区の中心人物の女性が名乗り出てやっていたが、「はい、はい」とあらゆることに生返事で応えるばかりで、最後には「それでは」と笑顔を見せてドアを閉めてしまった。

 どうにか用事を考えて連れ出そうとしても、「あの子が、そろそろやってくる時間ですので」と言われ、同様にドアを閉められていたらしい。

 これには、さすがの女性もお手上げ。市の職員の方に相談して、それなら介護施設に入れてしまおうと考えた。しかし、近くの施設は軒並み空きがない。それどころか、おばあさんの方から「まだ介護されるほど弱ってませんし、認知症でないことは検査済みですから」と珍しく声を張られ、断られてしまったらしい。あまり無理に引っ張っていけば暴力で訴えられる可能性があり、市の職員もそれ以上どうこうすることはできなかった。


 そんなことを経て、今度は地区の一部の人間からおばあさんへの不平不満が漏れてきた。これほど私たちがよくしているのに、向こうがそれを拒否してくるのはどうなのか。もう既に認知症であるから、私たちの説得が効かないのではないか。様々な憶測が飛び交い、様々な悪口が飛び交い、いつしか嫌悪的なムードが立ち込めていた。ちょうどそれが、今日から遡って一週間前に当たるらしい。


 そこから、どうしてあの肉球が可愛い「猫」がこんな酷い行為をしたのか。そもそも、いくら状況証拠が全てを物語っているとはいえ、猫が人を殺すなんてことが可能なのか。むしろ、おばあさんが犯人であった方が納得のいく話なのだが。

 そう思いつつ遺体現場だらけの家々を見回っていると、ふとおばあさんの家と隣の家を隔てる壁のところに手帳が落ちていることに気付く。指紋を付けないように手袋を付けると、拾い上げ、適当なページを開いてみる。


『あの猫は、おかしい。普通じゃない。見た目ではない。中身が、猫ではないのだ』


 これが平時なら、二束三文の価値しかないSFかホラー小説の一文であろう。すぐに子どもの落書きだと鑑識の方へ回していた。しかし今の奇妙な状況のせいか、その一文は私をひどく捕えた。吸い込まれるようにその手記を読み耽る。


 その手記に書かれていることは、端的に言えば「事件の一部」である。言わずもがな、それを書いたのはあのおばあさんである。今は重要参考人兼容疑者としてうちの警察署で勾留してもらっているが、事件については口を閉ざしたままである。そんなおばあさんが書いた、手記。

 強い期待を抱いて読み進めていくが、反して文章はずっと単調であった、やれ「今日はかぼちゃの煮物を作りました」だの、やれ「今日は近くのお店で新商品のパンを買いました。クリームがもっちりとして甘く、とても美味でした」だの、まるで猫の話がでない。ではさっき開いたページの一文は一体何だったのかと適当に読み飛ばしていると、ちょうど事件の一週間前の話になって文章の雰囲気が変わった。


『×月○日水曜日、雨。私の元へやってきていた野良猫ちゃんが、手を差し出してきた。死んだおじいさんがサラリーマン時代に取引先の人間と熱い握手していたのを思い出し、懐かしんでいた。だけど、いつまで経っても野良猫ちゃんは手を下ろさない。それから一時間以上その態勢でいたので、あまりにも可哀想に思って猫の手を握ってあげた。プニプニと、軽く、肉球の感触を楽しむように握った。その時、身体に杭が撃ち込まれるような痛みを感じた。まさか、今度こそ心臓発作なのではないか。地区の人たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと改心して、ちゃんと健康な生活を送っていたつもりだったが、もう寿命が来てしまったのか。息が出来なくなるのを覚悟してその場で疼くまったが、一向に苦しくならない。それどころか、息がしやすくなっている。一体どういうことかと思っていると、野良猫ちゃんは返事をするように、”それじゃあ”とだけ言うと、その日は帰ってしまった。一体、どういうことだったのか』


 その日からというもの、手記には猫の異様な行動について記されていた。それらはおよそ猫の知能を超えた行動であり、たとえば「猫が鎌を口に加え、庭の雑草を刈り取ってくれた」というのは、あまりにもおかしい。それこそ、人間か機械でもないと、できない芸当である。


 そして、事件当日。ここでついに、あの一文が出てくる。『あの猫は、おかしい。普通じゃない。見た目ではない。中身が、猫ではないのだ』と書かれているが、ここまで読み進めていると、なんで逆に今まで気付かなかったのか、と疑問に思う。それほどまでに彼女にとって猫が大切であり、異常性を認知することができていなかったのか。

 真実は不明であるが、同時に当日の手記にはその一文だけしか存在しないのも真実だった。それ以降のページは白紙であり、レモン水で隠された文字が書かれているという感じでもない。さすがに貴重な証拠品を炙るわけにはいかないので大人しく本を閉じると、近くにいた鑑識へ「落ちていた」と嘘を言って渡した。


 私はそのままおばあさんの家の中へ足を踏み入れると、ふむと声を漏らす。リビングにある窓からは、手記に書かれていたように、綺麗に庭の草が刈られていた。

 別に猫が刈ったとは限らないわけだが、ちょうど猫の頭一つ程度の場所から草が切られており、草の根っこのあたりだけが軒並み残されている光景は、実に異様だった。やはり、あの手記に書いてあったことは本当だったのか。


 人を殺す意思を持った、猫。この猫が溢れている世界において、猫は「ペット」や「家族」以上の意味を持たない。だがもしも、彼らが今回の猫のように反乱を起こしたのなら? 人間同士のくだらない争いで死ぬよりは「救済」であるのかもしれないが、それはとても恐ろしいことのように思えた。最も愛する相手から殺されてしまう、なんて。


 ちょうどその時、電話がかかってきた。警察署へ例の猫を運んだ鼠川である。電話を取って耳に当てると、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてくる。


「おい、どうしたんだ鼠川!」


「大勢、来た、あの子が連れて……っあああああああああああ!」


 悲鳴のまま、電話は切れてしまう。一体、何があったというのだろう。私が首をかいていると、ドアの開く音がした。もうこの家の調査は終わっているのだし、何か忘れ物でもしたやつがいるのだろうか。そう思って振り向こうとした時、ザッと鋭い爪が私の首筋を抉った。首が外れるのではないかという痛みに呻きながら、その場へ倒れる。

 薄れていく意識の中、私の目の前で黄色の目を輝かせている四足歩行の生き物が、笑っているように見えた。

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