就職戦線異状なし。されど猫あり
柴田 恭太朗
ワレ個室ニテ、カク戦エリ
就活まっただ中の俺は、面接へ向かう電車の中で真っ青になった。
さっきからギュルギュルとお腹が悲鳴をあげている。緊張しすぎたせいか、消化に悪いものをたべたせいか。
原因はどうでもいい。いまはトイレだ。全身から冷や汗が吹きだす。切羽詰まったエマージェンシー。駅についたら、とにかくトイレだ。
目的の駅につくやいなや、俺はトイレめざして猛然と駆けた。
その甲斐あって、なにごともなく緊急事態は去り、状況終了となる。ほっとした俺は壁を見て、ふたたび青くなった。
あれがない。
いや、壁に取りつけられたホルダーはあるのだ。トイレットペーパーをカットする金属の
信じられない思いで俺は、フラップをめくって中を確認した。
そこにあったのは、茶色いロール芯がひとつ。
芯にはなにやら文字が書きこまれている。俺は芯をホルダーから取りだして読んだ。
『かみは死んだ……』
黒々したボールペンの手描き文字。先客はニーチェかな?
昭和なジョークに俺は腹が立ち、力まかせにロール芯を床に投げつけた。芯はコロコロと転がり、個室のドア下から外へ出ていく。
投げてから俺はちょっぴり後悔した。もしかしたら芯の紙をうすーくはがしながら使えば、なんとかこの危機を抜け出せたかも知れない。たしか所属ゼミの先輩がそんな笑い話をしていたことがあった。
いまこのときが先人の知恵を活せる瞬間だったのではあるまいか。ああ、後悔先に立たずとはよく言ったものよ。
つぎに俺はスラックスのポケットを探ってみた。花粉症の俺はいつも多めにティッシュを持ち歩いているからだ。しかしポケットの中は無情にも空。ここに来る電車の中で使い果たしたことを思い出した。今年の花粉飛散量は例年になく凄まじかったのだ。
俺は腕時計に目を走らせた。
ヤバい。就活の面接時刻が迫っている。
最悪、このまま拭かずにパンツを履いてしまうことも考えたが、わが人生で新記録クラスの豪快な『下り超特急』だったので、さすがにそのまま、というわけにはいかない。拭かずに面接へ行ったら、文字通りの『鼻つまみ者』になること請け合いだ。
落ち着け、俺。頭を回転させるんだ、俺。きっと打開策はある。
(そうか。頭が回ってなかった!)
気づいた俺は物理的に首を回して後ろを見た。
個室へ入ったときは気がつかなかったが、便座の背後には棚があって、そこに鎮座ましますは、1巻のトイレットペーパーではないか。
――おお『かみ』よ。そこにおられましたか。
よろこび勇んだ俺は、便器に座ったまま体をひねって、恵みのトイレットペーパーに手を伸ばす。
「ぐげ! ぽばっ!」
北斗のなんとかのような断末魔の叫びをあげ、俺は白目をむいた。
脇腹が
事態は、ますます悪化した。
上半身をひねった体勢のまま動けない。これではロールペーパーを取るどころか、便座から立ち上がることすらできない。
手の打ちようがなくなった俺は、個室の外に声をかけた。
「すいませ~ん、どなたかいませんか?」
――シーン。
「紙がないんですー」、状況を説明して情に訴えてみた。
「ミャア」
ありがたい。俺の呼びかけに返答があったではないか。ってミャアって言ったよね、たしか今?
「ミャアゥ」
ほら、まただ。その声は意外と近い。足元からする。
俺はねじれた姿勢のまま、流し目をして床を見る。声の主はそこにいた。全身真っ白の猫、ブルーの眼がきれいだ。
白猫は体の前で、両の前足をピタリとそろえ、タイルの床にチョコンと座った姿勢で俺を見上げてくる。毛並みがキレイに整っているので、パッと見では精巧な縫いぐるみのようにも見えた。
「ミィウ」
造りものじゃないと否定するように白猫が鳴いてみせた。
どこから入ってきた? 個室を見まわす。壁は天井まで続き、密閉されている。ということは、ドアの下しか開いているところはない。ドア下のすき間は目測で5,6センチ。こんな狭いところから入ったのか。
「ちょうど良かった。猫の手を借りたかったんだよ~」
俺は猫なで声を出した。
「ニャー」
「そこにトイレットペーパーがあるだろ」
「ニャ」
「それ取って、俺に渡してくれないかな?」
「ニャゥ」
俺たちは気心の知れたバディのように言葉を交わした。信じられないことに白猫は言葉を理解しているようだ。トイレットペーパーが置いてある棚へヒョイと飛び乗る。
「いい子だね。それをこっちに投げてくれないか」
俺はロールペーパーを目とアゴで示した。
白猫はミィと一声鳴くと、ロールに前足を乗せ「これ?」というように顔をこちらに向ける。
「それそれ!」
俺は何度もうなづく。なんて賢い猫ちゃんなんだ、俺もう泣きそう。
白猫はロールを前足で横にはらって、俺にパスを送りだした。絶妙なパスは理想的な放物線を描き、新品のトイレットペーパーが俺の右手に乗った。ありがてぇ!
「ひギゃひンっ!」
これは、よろこびの雄叫びじゃない。俺の脇腹にまた激痛が走ったのだ。
あろうことか俺は、一度しっかりと手のひらに受けたトイレットペーパーを取り落としてしまった。ロールはタイルの床の上でポンポンと面白いように跳ねて、個室内を転げまわっていく。
「ミギャゥ!」
跳ねて転がるロールを見た白猫が、獲物を発見したよろこびに野生の喊声を上げた。棚を蹴って、個室の壁を利用した三角跳びで転がるロールペーパーに飛びつく。
「フギャゥワゥ!」
白猫はロールに爪をたて引き裂き、ほどけた紙を前足でたぐり、グチャグチャにしていく。狩猟動物ならではの、目にもとまらぬ俊敏な動きだ。個室の中をほどけた白いビデオテープのように、シュルシュルとトイレットペーパーが舞う。
「あのぅ、猫さん? 白猫さん? その紙が欲しいんですけど、俺」
「ミギャフゥ!」
一度野生化した猫は、さっきまであれほど心をかよわせた俺の言葉に、二度と耳を傾けてくれなかった。
この白猫って真っ白で、よく見りゃトイレットペーパーに似ている。猫の手を借りるって言葉があるなら、猫の手で拭いてもいいかな。フワフワモコモコして具合が良いかもしれない。悪魔のようなアイデアに憑りつかれた俺は白猫の毛並みに熱い視線を注いだ。
トイレットペーパーと戯れていた白猫の手がピタリと止まる。
「ミ?」
猫は俺の顔つきを見て身ぶるいすると、たちまちしなやかな体を『液体』のように平べったくして、スルスルとドアの向こうへと消えていった。
結局のところ、白猫は俺を助けるどころか邪魔をしていたにすぎないではないか。
「この泥棒猫!」、腹が立った俺は、罵り言葉をはいた。
もうとにかく自力でやるしかない。トイレットペーパーはすぐそこにあるのだ。
俺は痙攣しっぱなしの脇腹をだましだまし、試しに便座から立ち上がってみる。よし、立てた。これなら、なんとかなりそうだ。今度はゆっくりと膝を曲げてゆき、床のペーパーの残骸に手を伸ばす。
もう少しで届くとさらに手を伸ばした瞬間、ドアのすき間から、怒りで爪をあらわにした白猫の手が差し込まれてきた。
「ミャミャミャミャミャミャミャ!」
あの狩猟動物の敏捷な手がトイレットペーパーを手繰りはじめた。みるみる個室の外へと出ていく、俺の希望の『かみ』。
最後の一片がトイレから消えたとき、ドアの外で白猫が「ミャッ!」と鳴いた。
捨て台詞だ。俺にはわかる。
猫の捨て台詞とともに、ドア下から転がってきたものがあった。
例のロール芯。
転がる茶色の芯が俺の靴にあたり、ピタリと止まる。黒々とした手描き文字を上にして。
『かみは死んだ……』
その一言で、俺の就職面接も死を迎えたのさ。
おしまい
就職戦線異状なし。されど猫あり 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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