肉球に魅せられて

冬野瞠

1

 へとへとになって帰宅した日には、いつも愛猫あいびょうのミウさんの手を借りることにしている。

 独り暮らしで恋人を作る時間的余裕もない僕にとって、猫の存在だけが毎日の癒しと言っても過言ではない。僕は特に、猫の肉球が大好きだ。

 グレーの高貴な毛皮を纏うミウさんの肉球はつやつやしたチョコレート色で、見るたびに「美味しそう」と思ってしまうくらいに魅力的な色をしている。

 今夜もなんとか日付が変わる前に帰宅した僕は、特に出迎えをするでもなく猫ベッドで寛いでいるミウさんのところに、そそくさと近づく。


「ミウさんただいま、お手手貸して~」


 言いながらそっと彼女の両手を取り、親指の腹で柔らかな肉球をもにもにと揉ませて頂く。思わずはーん、と恍惚の声が出てしまう。ミウさんは爪を切られる時のように泰然としているが、他の猫飼いに聞くところによれば、かような落ち着いた態度はとても珍しいのだという。

 僕は彼女の片手に自分の頬を近づけ、魅惑の肉球にぽにゅぽにゅと何度か軽く押しつける。それだけで種々のストレスが輪郭を無くし、虚空へ消えていくように思えた。

 そうしたトリップからはっと我に返ると、既に0時を回っているではないか。今日もやってしまった。恐るべし、これが猫の手の魔力。


「はあ。猫の肉球ってすごいよなあ、もはや人間を堕落させる最終兵器だよな。ミウさんってもしかしたら、人間を籠絡ろうらくするためにどこかから遣わされた存在なのかも」


 感嘆と共に呟くや否や、目の前で香箱座りをしていたミウさんがすっくと立ち上がった。

 二本の足で。

 ええ? ミウさんが立った!? と感動している僕を、美しいグリーンの眼がぎろりと射すくめる。


「気づかれたからには見過ごせぬ」


 ミウさんははっきり人語を喋った。

 驚愕する僕の顔面に、ミウさん渾身こんしんの強烈な猫パンチが直撃する。意識が途絶える直前に脳裏をよぎったのはやはり、彼女の美しいチョコレート色の肉球だった。


 * * * *


「いやあびっくりしましたよ、私たちの正体に気づく人間がいるとは」


「ミウさん」と人間に呼ばれていた我々の仲間が、太平洋上を漂う基地に戻ってきた。彼女の体は頭だけがまだネコ型のままだが、首から下は服を着た地球人類と似た姿をしている。体の大きさが人間の1/4ほどと小さい我々にとって、形態模写能力は一番の武器だ。

 なぜか我々の正体に気づいた人間の男も、昏睡状態のまま基地に運び込まれている。彼は開頭手術を受け、脳に細工をされた後住居に返される手筈だ。「ミウさん」の正体については、綺麗さっぱり忘れ去ってもらわねばならない。

 宇宙の彼方から遥々青き地球にやってきた我々は、地球を侵略するにあたり、手始めに惑星の支配者――ホモ・サピエンス賢い人間を自称するつるつるした生き物――の弱体化に着手した。

 人類の弱点は事前に調査済みだ。彼らが異星人に敵愾心てきがいしんを持っていることは数々のフィクションからもうかがえたので、我々は彼らが異様に愛してやまないFelis catusイエネコの姿に変身して潜入することにした。

 人類ときたら、室内で飼われている猫だけにとどまらず、野生動物をさんざん狩って回り、多くの種を絶滅に追いやってきた野良猫にだって異常に甘いのである。

 期は熟しつつある。我々のかわゆい姿に骨抜きになった地球人類に闘争心はほとんど残されていない。この星は近いうちに、変身した我々の肉球の内に収まることになるだろう。

 野生動物の絶滅のみならず、自分たちが愛した猫の手によって文明や住み処の喪失までも引き起こされるとは、地球人類は想像もしていないだろう。

 猫の手を借りた結果に、我々は満足している。

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