黒猫の魔法

神凪

喋る黒猫

「ハルちゃん……また来たの?」

「また来るよ。当たり前だろ」

「もう。毎日来なくてもいいんだよ」

「来るよ。毎日」


 毎日来なかったら、いつか消えてしまっていそうだから。

 彼女、天音空あまねそらは病弱だった。そんな幼馴染のことを俺はいつも見ていた。弱っていく空を、俺は見ていることしかできなかった。

 数年前までならまだ、数ヶ月に一度は家に帰ることができた。今はそれすら厳しい。


「ほーら。ハルちゃんは帰っていいから」

「ん……安静にしてるんだぞ」

「えー? また安静ー?」

「安静にしてるんだ」

「……私はどこも行けないまま安静にして死んじゃうくらいなら、たった少しだけでもいいからハルちゃんと遊びに行きたいな」

「なら、さっさと元気になってくれ」

「はーい」


 心の中で空に謝る。きっと空と俺が遊びに行ける日なんて来ないから。


「じゃあな」

「うん。またね。あ、うちのにゃんこに餌やり忘れないでね」

「ああ。玄関に置いとけばいいんだろ」

「うん!」


 空はきっと治らない。本当なら、話していることすら奇跡のようなものだ。それが外に出られるなんて、ありえるはずがない。空自身が一番わかっているであろうことを、ただ会話を明るくするためだけに言っている。

 外に出て青い空を見上げた。心地よい風が吹いている。

 誰かが治してくれると思っていた。きっといつか元気になると思っていた。だけど、良くなる兆しはない。こうして風を感じることはできない。


「それなら、君が治してあげればいいじゃないか」

「……ん?」

「下だよ、下」


 足元には、一匹の黒猫。こちらを見上げるようにして座っている。


「ボクはナジャ。すごい猫だよ」

「……疲れてるみたいだ」

「疲れてないよ。ボクは喋る。喋る猫だ」

「猫は喋らない」

「喋るよ。ボクはね」

「……まあ、お前が話す猫だとして。これが夢じゃないとして。何が目的だ?」

「ボクは君の願いを叶えてあげることができる」


 ため息が出た。どうやら喋る猫は俺の願いを叶えてくれるらしい。

 医者が匙を投げるような病を喋る猫ごときが治せるわけがない。けれど、これがもし夢ならば、その言葉に踊らされてみるのも悪くない気がした。


「三つ。君がボクに貢げば、願いを叶えてあげるよ」

「へぇ。そいつは面白いな。なにを貢げばいい」

「一つ目は、そうだね。美味しいものを持ってきてくれ。君が美味しいと思うものでいい」

「それならこれやる。飴」


 いつも持ち歩いている、レモン味の飴。

 いつも食欲のない空がたまに欲しがるからいつも持ち歩いている。空に渡さなかったときはその日の帰りに口に放り込むことがほとんどだが、今日はたまたま残っていた。


「天音空がたまに食べているやつか。まあ、いいことにしよう」


 ナジャは飴を口に放り込むと、からからと舌の上で転がし始めた。


「で、残りふたつは」

「うん。二つ目は君の時間を一日くれ」

「それは、どういう意味だ?」

「そのままの意味さ。ボクは退屈しのぎに、君はボクを知ることができる」

「なるほどな」


 信用に足る猫か否かを見極めることはできる。


「そして三つ目。それは、君が最も大切にしているもの。それが知りたい」

「……俺が?」

「そう。君が最も大切にしているもの、だ」


 つまりは、大切なものと引き換えに空を助ける覚悟があるか、ということだろう。

 ぱっと思い浮かぶものはなかった。でも、間違いなくそれはナジャに渡したいものではないはずだ。


「とりあえず、一日は一緒にいなきゃいけないんだ。考える」

「そうするといい。ああ、ボクは君と天音空以外には見えない」

「そうかい」


 とりあえず、キャットフードを買って帰らなければいけない。空にしか懐いていない猫が最近空が帰ってこないから餌を食べないと、空の両親も嘆いていた。なぜか俺からの餌は食べているようだ。

 ナジャは俺の肩に乗っかって脱力した。だるそうにぶら下がるその様はとても喋る猫には見えない。


遥斗はると

「ん?」

「ボクは、君が正しい答えを導いてくれることを願ってるよ」

「そうかい」


 そう言うならナジャにとっての正しい答えとやらを教えてほしいものだ。

 家に着くと、妹が出迎えてくれた。両親は共働きであまり家にはいないから、妹と俺、そして空の三人でうちに集まることも多かった。もっとも、空が来ることができたのは片手で数えるほどだが。


「帰ってくるなり神妙な面持ちだね、兄さん」

「ちょっとな」

「それは妹に手助けできることですか?」

「……まあ、聞くだけ聞いとくけど。俺にとって一番大切なものってなんだ?」

「私か空姉さんじゃないかな?」

「まあ、そんなところか」


 それはきっと、ナジャの求めている答えじゃない。そもそもそんなものを渡してしまえば、願いなんて叶わない。

 それから俺はしばらくの間頭をひねったが、結論には至らなかったが。

 翌日になった。夢だと思い込んでいたが寝て起きることができてしまったので、少しだけ夢ではない可能性がでてきた。

 そうして、黒猫ナジャとの契約の期限がやってきた。


「さて、遥斗。君の答えは決まったかい?」

「俺の、大切なもの。それは……今だ」

「今?」

「ああ。俺が妹と楽しく暮らせている今」

「へぇ……あっはは! 面白いね!」


 高らかに笑ったナジャの声は、どこか皮肉を混じえているような気がした。


「最低だな、君は」

「は?」

「その大切な今に天音空はいない。にもかかわらず、君は今が大切だと言った。その理由はなぜだ?」

「……さあな。自分でもわからない」

「それは君にとって本当に大切なものかい? 本当は、一秒でも早く手放したいものなんじゃないのかい?」

「手放したい、もの……」


 俺が欲しかった幸せ。それは、空が笑っている日々だ。今の日々にその日々が交わることはない。

 今を手放すこと。それは確かに俺が求めていたものだ。


「ボクが君に要求したのは、本当に君が大切にしているものだ。君はそれをボクに押し付けて、あわよくば手放そうとした。違うかい?」

「そ、れは……」


 今は本当に大切なものだった。だけど、同時にそれは捨てたいものでもあった。この日常には、天音空は入れないから。


「でも、そこまで来ているならもう少しだ。もう一度だけ、考え直して。本当に君にとって大切なものを」


 俺が大切にしてきたもの。それは今じゃない。まして、過去でもない。


「空と歩ける未来、か」

「そうだね。その答えは合格だ」


 同時にこれは、空の願いだ。


「じゃあ、この未来をお前に捧げればいいのか?」

「勝手に勘違いしただけじゃないのかい? ボクは『君が最も大切にしているもの。それが知りたい』と言ったんだよ」

「……まさか」

「ボクは君がどれほど天音空を思っているかを知りたかっただけだよ。まあ、一度間違えたから満点とは言えないけど。願いを叶えてあげよう」

「ああ。俺の願いは……」

「君の願いはボクの願いで、天音空の願いだ。言葉にする必要は無いよ」


 その瞬間、ナジャの身体が光り出した。夢のような光景に、この瞬間が夢ではないことをようやく実感する。

 だんだんと意識が遠のいていく。その感覚がどこか心地よく感じた。






 その翌日、天音空の病室は無くなった。回復は絶望的だと言われていた空は驚くほどにスムーズな回復で、精密検査の末とりあえず家族の元へ帰されることになった。

 俺は妹と一緒に家にいることにしている。会いに行きたいという気持ちはあるが、毎日会いに行くことができなかった家族との時間の方が大切だ。

 そんなとき、インターホンが鳴った。


「やっほ、ハルちゃん」

「空……!」

「もー元気になったのに会いに来てくれないから嫌いになったのかと思ったじゃん!」

「嫌いになるわけ、ないだろ」


 元気に笑うその顔に翳りはない。

 本当に、ナジャが言った通りに願いが叶ったらしい。


「でも、ハルちゃんにも見せてあげたかったな。うちのにゃんこ」

「えっ?」

「死んじゃったんだ。私が帰れなかったから、誰も遊んでくれなかったみたいで」

「でも、餌は……」

「ちゃんと食べてたみたいだよ。残さずに。ちょうど私が退院する日に玄関で死んでたってさ」

「そっか……」


 長い間餌をやってきたが、見たこともなければ名前も聞いたことがない。空はその猫のことを俺に話すときはにゃんこと呼ぶから気にしたことがなかった。

 ふと、あの黒猫のことを思い出した。そういえば、あいつは俺と空だけじゃなく、自分の願いも一緒だと言った。


「……なあ。お前のところの猫って、黒猫だったか?」

「えっ? うん、そうだよ。名前はね、ナジャって言うの。かわいいでしょ」

「……そっか」


 本来なら、この場にいるはずだった一匹が起こした奇跡。そこにいるはずの一匹の猫はいない。


「少し、散歩に行こう」

「うん。行こっか」


 だけどもし、あの少し生意気な黒猫が今を見ていたら、少しは喜んでくれるのだろうか。

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黒猫の魔法 神凪 @Hohoemi

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