侵入者
サキを延滞してしまった翌日もレイジは美術科準備室にいた。
いつもと違うのは彼が本ではなく筆を持っている点だ。
準備室に置いてあった画用紙とイーゼルその他の道具を使い、サキの短編に登場するイタチを描き、色までつけた。
「カワウソか。家で飼ってんのか?」
授業から戻ったバリッジ先生はふだん本にしか興味を示さないレイジが自発的に絵を描いたことを喜び、彼が準備室のものを勝手に使ったことは責めなかった。
これは気に入らない継母風情の従姉を排除する神様でありそもそもカワウソでもない、と説明するのが面倒だったレイジは「知らん」とだけ返した。
突き放されたバリッジ先生だが特に気にした様子はなく、「そういうのがやりたいならこれがお薦めだぞ」と言って筆を差し出す。
レイジが適当に拝借した筆はあまり初心者向けではないらしい。
「絵はいいぞ。心が真っすぐになる」
バリッジ先生がそう付け足す間も、レイジは筆を受け取ろうとしない。
「そうかい」
と吐き捨ててレイジは立ち上がり、使った道具の片付けもせず準備室を後にした。
部屋にはバリッジ先生とレイジ画伯のイタチだけが残る。
「魂のこもった絵だ」
バリッジ先生が呟く。
「あれも馬鹿教師だ」
レイジは小声で呟きながら家路を辿っていた。
彼は町の外から通学する数少ない生徒だった。
学園からしばらく歩くと太い川が流れていて、橋の手前までがこの町、向こう側が彼の住む町である。
橋脚が落書きで埋め尽くされたその橋の下が不良の溜まり場になっているので、彼はいつも早足でその橋を渡る。
その日はいつものうるさい音楽もスケートボードの音も馬鹿の笑い声もないかわりに、救急車のサイレンが聞こえた。
「馬鹿どうし喧嘩でもしたのか」
そう思ったレイジが欄干から身を乗り出して橋の下を覗くと、先日教室の窓から見たスーツの男が立っていた。
他に人影はなく、男は先日と同じダブルのスーツにハットという出で立ちで橋脚を眺めている。
不審に思ったレイジは渡っていた橋を戻り、土手を降りた。
「あ?」
彼が河川敷に降りるその僅かな間に男は姿を消していた。
男が見つめていた橋脚からは、不良が描いた落書きが消えている。
レイジが聞いたサイレンの音はやはり不良集団を乗せた救急車のものだったらしいが、彼らがなぜ救急車に乗る羽目になったのか、彼の耳には情報が入ってこなかった。
翌日レイジは休み時間に寝たふりをして周囲の会話に聞き耳をたててみたが、校区の端の川原で起きた事など彼の親愛なる学友たちにとっては専門外らしく、安否さえ解らなかった。
そのころ美術科準備室ではバリッジ先生がいそいそと授業の準備をしていた。
今日も初等部で動物を描く授業が予定されている。
アローヘッド ハヤシケイスケ @KeisukeHayashi
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