猫と会った夜

高野ザンク

オフィスにて

 猫好きに悪いやつはいない、という言説には懐疑的ではあるが、猫に悪いやつはいないとは真面目に思っている。だから、目の前にますむらひろし版『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニのような猫が立っていたとして、ましてやそいつがタバコを燻らせていたとしても、悪いやつとは到底思わなかった。


「ここ禁煙だけど」


 俺の注意に、猫は目をまんまるに開いて驚いてみせると、申し訳なさそうな素振りでタバコを揉み消した。吸い殻を床に捨ててしまうあたりは、人間のマナーを知らないからなんだろう。


「って言うか、なんで猫がここにいるんだ?」

 しかも立ってるし、服着てるし、人間と同じぐらいデカい。


「だってお前、猫の手も借りたいほど困ってるんだろ?」


 え?と俺は猫と目を合わせた。


 確かにそうだ。帰り際になって突然、明日のプレゼンの資料を作れと無茶ブリをされ、ようやく準備ができたのが22時過ぎ。コンビニで買ってきたおにぎりとエナドリを口に押し込んでキーボードを叩きながら、あとどれほどで終わるのかとほとほと嫌になり「猫の手も借りたい」と思ったのだった。


 とはいえ、それは比喩であり、本当の猫に期待しているわけでもない。もし猫の手を借りられたとしても、かえって仕事のジャマになるだけだ。でもこの猫は人型をしてるもんな。もしやエクセルぐらいは使えるのかもしれない。


「エクセル?」


 眉間にシワを寄せながら、猫は初めてその言葉を発しているような困惑した表情を見せる。猫は表情豊かと言われるが、人型でもそうなんだと、なんだか新たな発見をした気にもなる。


「……じゃあ、この付箋の貼ってあるところ、コピーしてくれないか?コピーはできるよな」


 相変わらず猫はポカンと俺を見ている。言葉は通じているのに意味が通じないという感覚を初めて知る。猫は俺の様子を見て深い溜め息をついた。


「人間の仕事なんでできやしないよ、だって俺、なんだぜ」


 当たり前のことを当たり前に言う。人間のサイズで、人間の服を着て、二足で立っていたとしても猫は猫なんだろう。


「じゃあ、なんでいるんだよ」

 俺はイライラして猫を非難した。


「うーん……癒やし?」


 猫は口元にうっすらと笑みを浮かべていた。猫も笑みを浮かべるのだ。


 ……わかった。自分でやるしかない。忙しいからといって猫の手を借りようとした俺が悪かった。これ以上猫にかまうのは時間の無駄だ。俺はまだそこに突っ立っている猫を尻目に、PCに向かう。猫の気配はしばらくしていたが、熱心に仕事に取り掛かっているうちにその存在すら忘れてしまった。



 仕事が片付いたのは窓からうっすらと日の光が差し始めた頃だった。もう猫はいなかった。というか、もともとそんな猫はいなかったんだろう。あまりの疲労が見せた幻覚なんだろうなと思う。それにしてはずいぶんとリアルだったけれど。


 オフィスのドアが開く音がしたので猫かと思ったが、入ってきたのはビルの警備員だった。俺が軽く頭を下げると、老年の警備員も会釈を返してきた。


「徹夜ですか?」

「はい。やっと終わったんで、一旦帰ります」


 大変だねえ、と言って、警備員は立ち去ろうとしたが、何かを見つけて俺のそばまでやってくる。そうしてかがんだかと思うと、床からタバコの吸い殻を拾い上げた。それは猫が吸っていたものだった。

「お兄さんの?」

 いいえ、猫の……と言いかけて、口をつぐんだ。


「いや、僕は吸わないんで……」

 言い方に動揺が見えたので、俺が吸ったと疑われたかもしれない。だけれど、とくに追及されずに

「ここ禁煙だからね。それに火事になったら大変だ」

 とだけ言って警備員は去っていった。


 こうして不思議な夜は終わった。



 その後、俺は猫を飼い始めた。あのときの猫と似た青みがかった毛の猫を里猫募集で引き取ったのだ。猫はとくになにもしてくれないし、世話は面倒だ。ただ猫がそばにいるというのは、確かになんだか心地がいい。


 そう。猫はただこうやって、そばにいるだけで良い。そしてあの夜、猫がそばにいてくれたのも無駄ではなかったような気がする。


 やっぱり猫に悪いやつはいない。


(了)

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猫と会った夜 高野ザンク @zanqtakano

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