手を借りる
九十九
手を借りる
男は忙しかった。それはもう眼が回るほど忙しかった。徹夜続きの身体を引き摺って植物種の同僚の元へ向かった時にはもう疲れ果てて、まともな思考回路は働いていなかった。
それは同僚も同様なようで、徹夜続きで頭の螺子を二、三本ぶっ飛ばしたような様子で、けらけらと笑いながら訪れた男を迎えた。
「忙しい」
「忙しいよね」
「帰りたい」
「帰りたいよね」
溜め息交じりに吐露する男に同僚は噛みしめるように頷きながら、男に冷やしたお汁粉を出して来た。お汁粉はキンキンに冷えていた。何故なら同僚が昨日の夜、コーヒーと間違えて買ってきた挙句、冷凍庫にぶち込んだから。
けれども男も同僚もそんなキンキンに冷えたお汁粉には構いもせず、缶の蓋を開けて飲み始めた。二人して出て来ない液体に首を傾げる。二人共思考回路がもう殆ど働いていなかったので、出て来ない液体にもう飲み終わったのかと自己完結をして、凍ったお汁粉を机に置いた。
「猫の手も借りたい」
吐き出すように眉間を揉みながらそう言った男に、同僚は何がツボに入ったのか咽るほどゲラゲラと笑いだして、暫くするとスンと真顔になった。同僚の頭から生えた木の葉が、重力に従って舞い落ちる。
「それだよ」
同僚の四角い眼鏡が怪しく光り、眼鏡の奥の白目の無い黒々とした瞳が、答えを得たり、とばかりに細くなる。
「どれ?」
一拍遅れて首を傾げる男に、同僚は怪し気に笑う。まあ楽しみにしといて、と鼻歌を歌いながら慣れないスキップで同僚は部屋を出て行った。同僚が通った後には疲れゆえに枯れた木の葉が所々に落ちていた。
部屋に取り残された男は何の気なしに足元を見る。同僚が何時も履いているサンダルが机の下に綺麗に並べて取り残されていた。男もなぜか同僚に倣って靴を脱ぐと、キンキンに冷えたお汁粉の缶でお人形劇を始めた。
この場所に徹夜していない第三者が居れば、即座に二人をベッドに叩き込んだのであろうが、生憎とそんな人は居なかった。
「と言う訳で連れてきました。猫です」
にこにこの笑顔で同僚が男の元に連れて来たのは、男と同僚の上司でもある猫種だった。猫種の上司は仕事が終わって休憩していたのだろう、中途半端に丸まった姿勢で、人よりも一回りも二回りも大きな身体を読んで字の如く引き摺られてやって来た。同僚は見た目に反して馬鹿力だった。
男はお汁粉缶での人形劇を止め、わあ、と拍手を打ち鳴らした。
対して連れて来られた上司はと言うと、何故、と顔に書いてある。普段は細い上司の瞳孔が完全に開いていた。
「仕事が終わらないので、連れてきました。猫の手を借ります」
「わあ」
片手を上げて陽気な様子の同僚と、棒読みながら元気に手を叩く男を前に、上司はどうかしたのか、と開きかけていた口を閉じた。どうやら最近の業務で部下を追い込んでしまったらしい事が窺えたので。とは言え、上司もまた彼は彼で徹夜続きである。
「猫の手だよ」
「猫の手だ」
同僚は上司のさらさらの毛で覆われた手を持ち上げて、空へと掲げた。男は同僚とハイタッチを決めると、上司の降ろされている方の黒い手を掴んで、やわやわと揉んだ。
男と同僚から腕を取り戻しながら、上司は溜め息を溢した。
「それで、私は何をしたら良いんだ?」
呆れたような低い声が上司から発せられた。けれども男の上司は良い上司だったので、頭の螺子がぶっ飛んでしまった様子の部下を家に帰してあげようと、尽力してくれるらしい。
「僕はお仕事終わってます」
元気な様子で同僚は言い放った。
なら何故まだ仕事場に居るのか、と言う質問は、男からも上司からも発せられる事は無い。二人共そうなのか、と納得顔で次に向かった。何せ、ここに居る全員が徹夜続きで壊れかけているので、つっこむ者は居なかったのである。
「俺は書類が終わってないです」
思い出すのも嫌とばかりの顔で男は言った。男は事務仕事が苦手だった。出来ないと言う訳では無い、苦手なのだ。書類をやっているのなら、そこらのチンピラ相手に身体を使っていた方が男は楽だった。
「それじゃあ」
それを手伝えば良いのか、と言う言葉は上司の口からは出なかった。その前に男が遮ったのだ。
「なので、手を貸してください」
食いぎみに男は言った。上司は勿論、もとよりそのつもりだったので、うん、と頷いた。ついでに上司は幾分か下にある男の頭を撫でた。あんまりにも隈が出来ていたので可哀想になったのだ。
「わあ」
再び虚無の拍手が部屋を包んだ。今度は同僚も一緒になって拍手していた。同僚の拍手によって、木の葉が地面に落ちる。仕事場は木の葉だらけだった。
上司は部下二人が心配になったが、合わせて拍手をする事にした。空気が大事だと思ったので。だが今、彼等にとって大事なのは睡眠であって、空気ではない事に徹夜続きの上司は気が付かない。
男が同僚の元に持って来た書類はそう多くは無かった。時間で言えば片手に収まる時間で終わらせる事が出来るようなそんな枚数だった。
「多くは無いね」
同僚は男の書類をぱらぱらと捲りながら、男が書類を持ってくる間に上司に買って貰ったコーヒーを啜った。
「多くは無い、けど終わらない」
細々した字が見えなくなって来たと男はこめかみ辺りを撫でた。
「さっさと終わらせてしまおう」
上司は書類を一枚とり、早速そこら辺に転がっているペンを取ろうとした。だがその転がっていたペンは上司が取る前に、上司の隣に腰を降ろした男によって取り上げられた。
「どうした?」
「手、借りますね」
手近なペンを取られ不思議そうに尋ねた上司に、男は会釈一つすると、ペンを握っていない方の手で上司のさらさらの毛並みの黒い手を掴んだ。
「は?」
所謂、手繋ぎ状態の男と己の手を見て上司はシンプルに疑問符を飛ばした。
「手繋いでる」
同僚は何がツボに入ったのかは不明だが、またゲラゲラと咽るほど笑いだした。そうして暫く笑ってから真顔になって溜め息を吐いた。
「帰ろう」
コーヒーを啜って少し我に返ったのか、同僚は帰り支度をし始めた。
「お疲れ」
男は同僚に、資料を取りに行った時にエナジードリンクと間違えて買ったココアを渡した。温かいココアを受け取って、同僚はそれを大事そうに鞄の中に仕舞い込む。
「今更だけど、僕の部屋でやる必要なかったよね、それ」
「そう?」
多少、正気になった同僚は首を傾げる男に曖昧に笑って返した。実際、終わっていない書類をやるのなら、男の部屋に上司が行った方が手間も少なかったのだが、男はそんな事考えもつかなかったらしい。
「じゃあ帰るね。後宜しく」
「ん」
同僚は帰宅のために歩を進めた。その足は裸足だったけれど、誰も進言できる者は居なかった。
「は?」
二人に取り残された上司はもう一度、疑問符を飛ばした。徹夜続きの上司の脳じゃ結論が導き出せなかったのだ。
対して、疑問符を飛ばされた男はと言えば、上司の手を握りながら、書類に目を通し始めた。
訴えるように上司は男を見るが、男はもう集中しているのか上司を見上げることはなかった。だが時折、無意識か男の手が感触を確かめるように上司の手を握る。
この訳が分からない状況に、上司は頭を抱えそうになった。実際、ちょっと抱えた。だが、思考が纏まらない内に、上司は思考を放棄した。なにせ上司も徹夜続きだったから。その上お昼寝もここ数日はしていなかったから。
「終わった」
呟かれた言葉に、男の隣でそれまでぐっすりと眠っていたらしい上司は顔を上げた。時計を見ると、始めてから二時間が経過していた。
思ったより早かった、と大きく伸びをしながら上司は男を見た。男は上司の視線に嬉しそうに笑い、上司に頭を下げた。
「有難うございました。終わりました」
「なによりだ」
上司は男に笑い返してから、繋いだままの片手の存在に気が付いた。
「なんで手、繋いだんだ?」
やっと言語化出来た上司の疑問に、男は一瞬首を傾げたが、ああ、と呟いてから手をするりと放した。
「猫の手を借りました」
嬉しそうにはにかみながら言う、どう考えても思考回路が回っていない男に、上司は男の笑顔にほだされかけ、その後首を軽く横に振ると直ぐに帰宅命令を出した。
後日、上司の机の上には、男から贈られた猫種用の高級缶詰めが置かれていた。上司は次の徹夜業務まで、男のくれた高級缶詰めを楽しみに取っておくことにした。
手を借りる 九十九 @chimaira
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