トリマーの猫

直木美久

第1話

 しまった。

 しまったとしか言いようがない。

 10時オープンして、いつも通り尾形さんが8頭の犬たちを連れてやってきた。

 月に一度、第三木曜日は尾形さんの日なのである。

 尾形さんはバーニーズマウンテンという大型犬に引きずられるようにしてやってくる。その後ろから娘さん、まだ二十代前半といった、線が細くて、ふんわりと笑う、いかにもお嬢様然とした、百合子さんがチワワ七頭のリードを引っ張っている。

 チワワとはいえ、七頭のリードを持つのは、なかなかに逞しいと思いながら、私は店の扉を開けた。

「いらっしゃいませー」

 どんどんと吸い込まれるようにドッグランに向かう。ドッグランの扉は開けてあり、バーニーズマウンテンのリク君は大好きな大きなクッションの上にすぐに丸まった。

 私は微笑んで、最後の一頭の白いチワワ、キキが入ってから、ゆっくりと店の扉を閉めたようとした。

「まってまってー!」

 顔を上げる。トイプードルのミルクを抱えた徳田さんがやってくる。

 私の頭はパニックだ。

 え?ミルク?うそ、明日でしょう?

 と思った瞬間、たしかに私は徳田さんに「木曜日」といったことがぶわっと頭に浮かんできた。

 間違えた!

 血の気が引いていく。

そうだ、昨日は忙しくて、しかも営業時間は6時までなのに、プライベートの携帯に電話がかかってきたのは夜10時。ビールの後に焼酎まで飲んでいてちょっといい気分だった私は、

「公園で汚しちゃって、夜にうんちまでついちゃったのよ。明日、いいかしら」

に、尾形さんちを1週間勘違いして、いいですよと言ってしまったのだ。

 どうしよう、ダブルブッキングだ!!

 だなんて顔ができるわけもなく、

「おはようございます」

 と慌てて笑顔を浮かべる。

 ドッグランにいれるにも、尾形家で埋まっているので、私は店を入ったところでミルクを抱っこで預かる。

「今日、夕方までお預かりしてもいいですか?ちょっとお時間かかっちゃうと思うので」

「えぇ、えぇ、お願い。今日、送ってもらえるかしら?」

 これは渡りに舟。遅くなっても問題ない。私はほっと密かに胸を撫で下ろし、

「わかりました、お預かりしまーす」

 と徳田さんに笑顔を向ける。

 徳田さんもミルクの頭を軽く撫でると、背を向ける。

 店内には尾形さんと娘さん。

 私はミルクを抱っこしたまま、

「お預かりしますねー!また終わりましたらお電話させていただきます」

「わ、可愛いトイプードル!」

 遊びたがる百合子さんにちょっと笑顔で牽制し、私はドッグランを閉めた。

 尾形さん親子も笑顔で店を出ていく。

 私は大きくため息をついて、戦闘開始とばかりにトリミングルームに入る。

 前半は好調だった。乾くのが遅く、手間のかかる大型犬、リク君をシャンプーし、しっかりタオルで水気を取り、風邪をひかないようしっかりお腹を乾かして、全体もブラシを通し、半分以上乾かしたところでトリミングルームの隅にいてもらう。

 しかし、乾かしている最中、退屈してるのか、ミルクが尾形家のチワワたちにちょっかいを出し始めた。

 尾形家のチワワの半数以上が女の子だから、男の子であるミルクのテンションが上がっている。アピールしては逃げられるか、吠えられるか。それでもめげないミルク。仕方なしにリードで壁につなぐことにしたが、今度はずっと吠え始めた。

 私は尾形家のチワワたちのシャンプーにとりかかるが、ミルクがあまりに騒がしく、気になって仕方がない。

 チワワたちは二匹ずつまとめて大きめなケージに入ってもらった。

 しかしミルクは止まない。

 頭が痛くなってくる。

 先にミルクをカットしてしまって………と考えたが、今日は帰りは送ることになっているし、プードルだから、カットは最後の方がいい。ミルクは特別動きが激しいので、毛が絡まりやすいのだ。

 いっそのことせいぜい疲れて少し眠ってくれればいいのだが……

 その時、二階への階段とを隔てる扉がカリカリ鳴った。

「どうしたの、まるる」

 扉を開けると、うちの三毛猫、まるるが立っている。

 そう、まるるは二本足で立つ。

「ようこさんの困ってる空気が二階にまでながれてきたからね。眠れないんだ」

 そして、喋る。

「相変わらず繊細だなぁ。…ちょっと参っててね」

 まるるはぴょんと逃亡防止用のゲートを飛び越え、トリミングルームに入る。

 まるるは、化け猫だ。

 いくつなのか私も詳しくは知らないが、十年ほど前に道で丸まっているところを保護し、その時すでに老猫といった体だったが、一年前から急に立ち上がったりしゃべりだしたりと、化け猫化した。私はすっかり慣れてしまったが。

「今日は尾形さんちだから、平和だと思ったのに」

「間違ってミルク入れちゃってたのよ」

 まるるはリク君に挨拶に行く。尾形家には猫もいるらしく、全員特にまるるに対して吠えたりしつこくにおいを嗅いだりしないので、こうして時々まるるはやってくる。

 ふわっとジャンプして、ドッグランの見える窓の淵に飛び乗る。

「あー、あの子ね。若いからね。遊びたいんだよ」

 またミルクの声が大きくなる。

「はぁー。ビーグルとかよりマシだけど、それでもこんなに吠えられるとしんどいわ」

「私、何か手伝おうか?」

 本当に、まるるが人間で、うちのスタッフだったらどんなに心強いだろう!

 私は苦笑して、まるるを見る。

「シャンプーしてもらえたら最高なんだけど」

「水は嫌い」

「ですよね。ハサミも持てないしね。どうせ化けるなら、こう、指もにょきーんって伸びて、ハサミが握れるようになってくれたらいいのに」

 まるるは濡れるのは嫌いだが、私が作業しているのを見ることが好きらしい。恐らくこの店自体ににおいがついているのだろう。お客さんの犬たちも、まるるを見てもあまり騒がない子が多い。もしくは、化け猫だから、少し普通の猫とは違うのかもしれない。

「そういうのは残念ながら無理だけどさ」

 そうゆっくりと細長いしっぽを揺らしながら、視線をドッグランに向ける。

「例えば、あのちびっこと遊んでやるとか」

「………それは、助かる、かもだけど………」

「けど?」

「その、ミルクと仲良くできそう?」

「喧嘩なんかするほど若くないよ。ちょっと走り回らせるくらいなら簡単簡単」

 窓枠から降りて、まるるはトリミングルームの扉をカリカリする。

 私は迷いながら、扉に手を掛ける。

 激しい鳴き声が聞こえてくる。このまま、一日吠えさせるより、まるると走り回った方が……まるるは加減できるし、捕まることもない。

 大きく息を吐いて、私は扉を開ける。

 まるるはふわっとドッグランの手すりに飛び乗った。

「あ、遊べそう?」

 私は顔を半分だけ出して、まるるに聞く。

 ドッグランの部屋はミルクの声が反響して、信じられないほど騒がしい。

「まぁ見てなよ。リード外してやって。遊びたいって言ってる」

「犬語わかるの?」

「ううん、なんとなく。ようこさんだって、なんとなくで会話してるでしょ」

 それもそうだと私はミルクのリードを外した。

 ミルクはすぐさままるるの近くまで行って、おしりごと尻尾を振りながらくるくる回り始める。チワワたちに対する興味は失ったらしい。

 歯をむき出しているわけではなく、純粋に遊びたいらしかった。

「ほら、大丈夫。さぁ、お仕事お仕事」

 まるるがそう促すので、私は奥の部屋へ、チワワを三頭抱えて戻った。

 ドッグランはそっとしておいて、一気に尾形家をやってしまおう。

 しばらくすると、鳴き声でなく、バタバタと走り回る音が響いてきた。


 ミルクを徳田さんの家に届けると、いつも通り、七時半過ぎに家に着いた。

 家、というのはトリミングショップの二階のワンルームである。

 まるるはこたつの端の布団の上に丸まっていた。

「ただいま」

 まるるは薄く目をあけて、大きなあくびをひとつしてから、また眠りについた。

「今日はありがとね」

 まるるは疲れているのか、何も言わない。小さな寝息が聞こえている。

 本当に忙しい一日だった。まさかリアルに猫の手を借りるとは。

 手の甲でゆっくり小さな額を撫でる。まるるはこれが大好きなのだ。明日は大好きなささみをたっぷり買ってきてやろう。ささやかながら、お給料だ。

「でも、太るとよくないから、一日一本だからね」

 まるるは寝ているのか、起きているのか、小さく喉を鳴らした。

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