5-10

 ハレノヒカフェにオーナー不在のまま、約半月が過ぎた。

 七月上旬の朝、プロヴァンス頂上付近に住んでいる中高生たちが、教科書を片手に店の前を通る。学期末の彼らは、試験の最中だ。

 片手に教科書、もう片手には傘を持っている。

 いまは降っていないけれど、天気予報は雨。梅雨もまだ明けていないので、空気も少し重い。

「徹ちゃん、なに見てるの? 準備は出来てる?」

「はい……、今日も天気予報は雨でしたよね。せっかく久々に会えるのに、来るとき晴れてたら良いんですけど……」

 ハルと夏紀は結婚式を終えてから挨拶まわりでカフェには来なくなり、そのまま新婚旅行に出発した。ヨーロッパ数カ国、もちろんフランス・プロヴァンスも行程にあるそうで、夏紀もハルもそれをいちばん楽しみにしていた。

 二人は昨日の朝の便で帰国し、長時間のフライトの疲れと時差ボケ解消に一日家にいる、と夏紀から店に電話があった。

「そうそう、昨日も朝、雨だったでしょ? 二人とも、濡れなかったのかな? 荷物も多いのに傘なんて持たないわよねぇ」

「俺がそんなナツみたいなことすると思う?」

 徹二が見ていた入り口とは反対の、従業員出入り口のほうからハルの声がした。

 コツコツと音を鳴らしながら現れた彼の後ろには、夏紀の姿もあった。

「折り畳み傘くらい持ってるよ」

「オーナー、いつ来たの?」

「やられた……まさか裏から来るとは」

「ねぇ。しかも、そーっと」

 徹二と恵子は驚いているけれど、ハルは見なれた顔で笑った。

「そんな驚かなくても。俺の店だよ、どこから入っても良いでしょ」

 言いながらハルはカウンター席に座り、夏紀も隣に並んだ。

 それはそうですけど、と言いながら徹二は口をとがらせ、とりあえず、二人に水とおしぼりを出した。

「私は普通に入口からって思ってたんだけど、ハルが裏からってきかなくて」

「俺、裏から入って誰にも気づかれなかったこと、何回もあるよ」

 たとえば、バーベキューでピアノを弾いたとき。

 たとえば、夏紀がハレノヒカフェでピアノを再開すると決めたとき。

 たとえば、さやかの結婚式二次会で、夏紀がピアノを弾いたとき。


 ハルと夏紀はお土産を渡してから、珍しく客として食事を楽しんだ。徹二の料理も少し見ない間に上達したようで、ハルが褒めると彼は喜んだ。

「でも、まだまだだから。俺には及ばない」

「相変わらず、厳しいですね……」

 どこの国の料理が美味しかったとか、口に合わなかったとか、日本人観光客に出会って一緒に回ったとか、土産話をしながらハルはピアノのほうへ向かう。

 そして前には無かったものを見つけ、すこし冷たい声で徹二を呼んだ。

「テツ──これ、なに?」

 ハルが見たのは、披露宴のときの写真だ。

 頬にクリームを付けるハルと、隣で笑う夏紀。

「それ、良い写真なので飾りました。ここ、オーナーと夏紀さんのスペースなので」

「俺……こんな……」

「あっ、これ! ハル、かわいー!」

 数週間前の出来事を思い出して笑う夏紀と、不服そうなハル。

 ハルは写真をじっと見つめて外してほしそうにしているけれど、夏紀は反対だ。

「いいね、これ。はは、ハル、ははは!」

「ナツ……笑いすぎ」

「徹ちゃん、頑張ってたのよ? オーナーを男前に撮る! って、張り切って前に出てたでしょ?」

 恵子の言葉に徹二は頷き、ハルは改めて自分の写真を見た。

 入刀の写真はキマッてるのに、クリームのほうはまったく締まりがない。

「でも、ま……いっか。そうそう、テツ、やっぱりいたよ、テツがかわいい、って言ってた女性モデル。今度、遊びに来るって」

「本当ですか? 若い子ですか?」

「いや、残念ながら、俺より年上」

 ハルのその言葉に、徹二はがっくりと項垂れたけれど。

「あ、でもね徹ちゃん、若い子も連れて来るって言ってたよ」

 そう付け加えた夏紀に、元気を取り戻した。

「でもナツ、あいつ結婚してるよ」

「えっ、そうなの?」

 徹二がパートナーを見つけるのは、まだまだ先のようで……。


 ハルと夏紀は昼過ぎまでハレノヒカフェに客として滞在し、それぞれの実家にお土産を届けてから新居に帰宅した。カフェ滞在中に雨が降っていたけれど、坂を下りはじめてからは傘は必要なかった。

「やっぱり、俺とナツだったら、俺のほうが強いんだろうな」

「どういう意味?」

「そのまんま。俺の名前、晴って字」

「……こないだは私のほうが強いって言ってなかったっけ?」

「残念、逆転。木下家の主は、ナツじゃなくて俺」

 ぷぅ、と頬を膨らませる夏紀と、楽しそうに笑うハル。片付けても片付かない旅行の荷物に囲まれている夏紀に、ハルはオカリナできらきら星を吹く。終わるまで夏紀はそれを聴いて、ハルはオカリナを置いた。それからリビングの引き出しに入れていた結婚証明書を取り出し、読みあげた。

「本日、私たちふたりは、結婚式を挙げられることを感謝し、ここに夫婦の誓いをいたします。一、お互いの両親を大切にします。一、いつも感謝の気持ちを忘れません。一、笑顔の絶えない明るい家庭を築きます。一、どんな時にもお互いを信じ支えあいます。一、ケンカをしても次の日には仲直りします──もっとも、夫の普段の言葉が冷たく聞こえても悪意は全くありません──。これらの誓いを心に刻み、これからは夫婦として力を合わせて新しい家庭を築いていくことをここに誓います。新郎・木下晴仁。新婦」

「……笠井夏紀」

 ハレノヒカフェの名前の由来は俺の名前でもあるんだよ、と笑いながら、ハルは夏紀を五線の上に誘った。『雨音の主題によるたくさんの変奏曲』第二楽章は、どうやら一小節目からフェルマータが登場するようで。

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水縹のメロディ 玲莱(れら) @seikarella

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