猫の手を借りた恋

Ab

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 長谷部春馬が通う学校には、世界一の美少女がいる。

 春馬にとって彼女、水瀬麗奈は紛れもなく世界一の美少女で、一目惚れなんて言葉では到底言い表せないほどの恋愛感情を麗奈に向けてから、一度も会話することなく二ヶ月が過ぎていた。

 幸いなのは、他の生徒にとっての学校一の美少女が別にいたことだろう。しかし、春馬は学校一の美少女よりも、麗奈のことで日々頭がいっぱいだった。



「どうしましょう……」



 そんな声が聞こえてきたのは、6月中旬、学校からの帰り道。酷い雨の影響で体が冷え、公園のお手洗いで用を足した後だった。


 冷たい水滴が容赦なく降り注ぐ中、声の主は傘も差さず地面にしゃがみ込み、何かを庇うように少し前屈みになっていた。

 背中は下着が透けてしまうほどびしょびしょで、長い黒髪がそれを隠すように制服に張り付いている。


 後ろ姿を見た段階で、春馬はそれが麗奈だと分かった。

 近づき、持っていた傘を彼女の上にかざす。麗奈が庇っていたのは、ダンボールに捨てられた子猫だった。



「猫……?」

「わっ……長谷部さん?」

「ごめん驚かせて。雨に濡れてたのが気になったから」

「いいえ。傘ありがとうございます。でも長谷部さんが濡れてしまうので……いや、それよりも長谷部さん! この子、どうしましょう」



 不安げな瞳で見上げてくる麗奈の姿が、春馬の心臓を強制的に跳ねさせる。

 しかし、そんな感情も、麗奈が抱き上げた子猫の「みーー」という弱々しい声を聞いた途端にどこかへ消えた。



「……保健所とか?」

「それは、考えたのですが……すみません。傲慢なのはわかっていますが、この子は……」

「そうだよね。ごめん、一応挙げてみただけ」

「はい……ありがとうございます」



 初めて話すのに、麗奈は普通に接してくれていた。

 同級生。それもクラスメイトともなれば、話すことはなくとも春馬を見かける機会はいくらでもある。高校に入学してからまだたったの2ヶ月だが、それでも赤の他人よりはよっぽど信頼されている。


 子猫は二人が思案している間もぷるぷると震え、今にも衰弱死してしまいそうなほど目を薄く閉じていた。


 涙を堪えるように顔を歪める麗奈の姿も非常に弱々しく、春馬は脳をフル稼働させる。


 警察。

 コンビニ。

 学校。


 乱雑に候補は浮かんでくるが、衰弱した子猫を適切に保護してくれるとは思えない。

 猫を飼っている人なら、あるいは。

 しかし、大雨のせいで人通りが少ない今、どうやって猫を飼っている人を見つけるというのか。



「猫……ネコ」



 呟き、ひらめく。

 近頃同級生が話題にしているカフェの存在。



「ネコカフェって、確かこの辺りに最近できたんだっけ?」

「はい、少し歩いたところに……あ、そこならこの子を保護してくれますかね!?」

「行ってみる価値はあると思う。店主も猫好きのはずだし」

「たしかに……!」



 納得が行ったらしく、瞬時に目を輝かせて、それからハッと我に帰り、ペコっと頭を下げる麗奈。



「お願いします。私と一緒に来てもらえませんか? こんな状況ですが、私……人とお話しするのがあまり得意ではなくて」

「もちろん行くよ。言われずともついて行くつもりだった」

「……ありがとうございます!」



 儚げな笑顔と共にそう言われ、猫を戻したダンボールと鞄を持った麗奈が走り出そうとする。



「鞄は俺が持つよ。その方が早い」

「すみません。助かります」



 麗奈から鞄を受け取り、春馬は自分のと合わせて両肩に鞄を担いだ。左手に傘を持ち、麗奈と同時に頷く。


 道案内を麗奈に任せて、春馬と麗奈は大雨の町中を駆け出した。



***



「二人ともここまで大変だったでしょう。これ、体とか拭くのに使って。今温かいお茶も煎れてくるから、待っててちょうだいね。あ、もちろん無料だから気にしないで」

「すみません、何から何まで」

「いいのよ。うちの主人が猫好きなように、あたしは若い子の世話が大好きなの。あの子猫はうちの主人に任せてちょうだい」



 そう言って上機嫌に、店員の女性はカウンターの奥へと向かっていった。その後ろ姿を見ながら麗奈はペコリと頭を下げ、春馬は受け取ったタオルで頭を拭いた。



「すみません。長谷部さんまでびしょ濡れにさせてしまって……傘、ずっと私に差してくれてたの気づかなくて」

「れい、水瀬さんの隣で俺だけ傘差してる方が無理だから……ほんとに」

「…………逆の立場なら……そうですね。本当にありがとうございました。それと、麗奈でいいですよ」



 ふわりと投げられた微笑みと言葉に、春馬の心臓が再び跳ねる。


 びしょ濡れの麗奈はまさに水も滴るなんとやら。光沢のある黒髪も、乳白色の滑らかな肌も、スタイルの良い体も、全てが雨で、普段とは違う妖艶な雰囲気を醸し出している。



「俺も、春馬って呼んでもらえると」

「わかりました。こうして知り合えたのに、苗字呼びは他人行儀でしたよね……春馬くん」



 うわ、と声が出そうになる。



「なんだか照れますね」



 トドメに頬を赤らめた笑みを浮かべられ、春馬はとんでもない居心地の悪さを感じた。


(麗奈と話してると、やばい)


 そう思いつつも、こんな機会いつまたやってきてくれるかわからない。

 猫の手は、いつでも借りられるわけじゃない。




 ネコカフェというだけあって、店内には数えきれないほどの猫があちこちでくつろいでいた。

 たまに近寄ってくる猫は春馬を一瞥し、すぐ麗奈の足に擦り寄って行く。それが何度か繰り返されて、気がつけば麗奈の足元は猫だらけ。



「すごい好かれてるじゃん麗奈。動物は優しい人を好くっていうの、ほんとなんだ」

「優しいというなら、春馬くんの方が優しいです。私と猫を助けてくれましたし、傘だって私に差してくれました」

「それは……当然のことというか。同じ状況だったら誰でも同じことするよ」

「でも、実際に行動に移すのは難しいことです」

「……そう言ってもらえただけで、助けられてよかったと思えるよ」

「ほら、そういうところも優しいです」



 しばらくして戻ってきた店員に椅子に座るよう促され、二人で並んでカウンターに座った。用意してくれたお茶を啜り、体を内から温める。店員の女性は雑用があるからと、お茶だけ出すとすぐにいなくなってしまった。

 ちなみに、もちろん濡れたまま座っているわけではなく、二人とも店のお手洗いで体操着に着替えている。

 制服よりも生地が柔らかいせいか麗奈のスタイルの良さが一層際立っていて、春馬としては非常に居た堪れないのだか、麗奈の足元に集まったままの猫たちを見て、どうにか平静を装う。



「ほんとに猫だらけだ」

「そうですね。想像よりもずっと猫だらけでした。幸せです」

「俺も猫に愛される幸せを味わってみたかった」

「この子とか、特に人懐っこい気がします。ほら、おいで〜」



 猫に話しかけ、抱き上げた一匹を膝の上に乗せてくれる。



「おお、これが」

「ふふっ、可愛いですね」



 呟き笑みを見せる麗奈が春馬には一番可愛いのだが、そうとも知らず容赦無しに微笑みを向けてくる。


(可愛い……)


 そう思った途端、膝の上から猫が逃げてしまい、春馬は「ああ」と声を漏らした。



「どうしてなんでしょう……」

「……煩悩のせいだ」

「煩悩? ……あ」



 ふと壁に目を向けた麗奈が声を出し、固まる。

 頬を赤らめて、さっきよりもずっと恥ずかしそうな視線を春馬に向けてくる。



「猫、耳って……猫ですかね」

「ん? 猫についてるんだから、猫だと思うけど」

「そう、ですよね」



 吐息混じりの声を漏らし、麗奈は意を決したように立ち上がった。

 壁際まで歩いて行って、なにか作業をしている様子。しかし、それが何かはちょうど麗奈の背で見えない。唯一春馬に見えたのは、壁に貼られた「ご自由にどうぞ」の張り紙だけだった。



 気になるが、緊張のせいで喉が乾く。

 一旦前に向き直り、お茶を飲んで、再び後ろへ振り返る。



「あ……その、」

「それはやばいって……!」



 振り返った春馬の目の前にいたのは、黒の猫耳を模したカチューシャをつけた麗奈だった。


 恥じらう表情。潤んだ瞳。

 そしてなにより、大好きな人が猫耳をつけているという事実に、春馬の心臓は急激に高鳴って行く。




「あの、私っ、こういうの似合わないかもしれないんですけど……い、今の私はネコなので、す……きに、撫でてくれても、大丈夫です」




 ドックン、と一際大きく胸が鳴る。

 柔らかそうな頬や、流れるような黒髪に、麗奈から触ってもいいと許可してもらった。猫耳をつけ、可愛さが何倍にも増しているというのに、そんなことを言われてしまっては春馬の心臓は保ちそうにない。


 これ以上我慢すると死んでしまう。


 そう確信して、春馬は恐る恐る手を伸ばした。



「ど、どうですか……?」

「どうって……もう、」



 喋っている余裕すら無くなり、春馬はただ自分がしたいように麗奈の髪を撫でた。

 タオルで拭いたとはいえ濡れているので、さらさらとまではいかないが、乾いていたなら間違いなくさらさらで、指が飲み込まれていただろう。普段から手入れを欠かしていないのが伝わってくる触り心地。



「ふわ……気持ちいい。撫でるの上手すぎます」



 言われても、今の春馬に返事なんてできない。

 あまりにも極上の、この世のものとは思えない黒髪の質感。


 撫でられている麗奈も平静でいられるはずがなかった。

 大きくてしっかりとした優しい手が、自分を求めるように丁寧に髪を撫でてくれるのだ。瀕死の子猫を見つけた時の緊張が、撫でられるたびに安堵へと変わっていく。

 初めて感じる心地よさに、羞恥心が耐えられない。



「い、いったん休憩です」



 早口で言うが、春馬だって耳に神経を回している余裕はない。

 止まる気配のない春馬に、麗奈の心が恥ずかしさで膨れ上がっていく。



「せめて髪は、もう、終わりです」



 春馬の手を両手で包み、自分の頬へと誘導する。

 感触の変化にようやく気を取り戻した春馬は、もうすべすべやらもちもちやらの暴力に見舞われ気が気でなかった。



 こうして猫の手を借りた結果、麗奈と春馬の距離はグッと縮まることとなった。

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猫の手を借りた恋 Ab @shadow-night

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