第50話 劉玄徳ほどの英雄が、今まで女一人もいなかったんじゃあ、様にならないわ

「甘梅、君は女の子だったのか? 」

「そうよ」

「女の子と気づかず、甘弟などと呼んですまなかった」

「いいわ。気にしないで」

「甘弟じゃなくて、これからは、甘妹と呼ばないとな」

「阿梅って呼んで」

「う、うむ。阿梅……。こんなにきれいな子だったのか」

「私、きれい? 」

「とてもきれいだ。甘弟。まるで、仙女のようだ。あっ。すまない」

「うふふっ。阿梅」

「うむ。阿梅」

「そうね。私がこの姿の時は、誰だってよくしてくれるわ。でも、そんなの下心丸出しでありがたくないわ。乞食の格好をしている時も優しくしてくれる人が本当に優しい人だわ」

 甘梅はそういうと劉備にギュッと抱きついた。

 劉備は、今までに感じたことのない甘美な思いに心が満たされた。

 女を愛するとはこういうことなのか。と思いつつ、甘梅の背に両腕を回していた。

「ねえ、どこか、きれいな場所に行きましょ。湖とか」

 甘梅の言葉に劉備もうなずく。

「そうだな。町の東に大きな湖がある。そこに行こうか」

「いいわ」

 劉備は、甘梅の手を引くと、小沛の東に広がる微山湖へ赴いた。

 小舟がもやいであり、それに乗り込むと、湖へと乗り出した。

 日は完全に落ち、静かな湖面には月明かりが照らしている。劉備が盃を手に取れば、甘梅が酒を注いだ。

「うむ……。よい酒だ」

「私、食べ物も用意したのよ。私が作ったのよ」

「どれどれ」

 甘梅が弁当箱を開ける。

「この前話したわね。佛跳牆、糖醋鯉魚、徳州扒鶏、木須肉、塩水鴨、清蒸鰣魚、無錫排骨、霸王別姫、龍井蝦仁、叫化鶏、紅燒鳙魚、符離集燒鷄、黒臭豆腐、左宗棠鶏……」

「本当にそんなものが作れるのか? 食材はあるのか? 」

「もちろん、食材が全部あるわけないわ。でも、似たもので代用することはできるわ」

 劉備が箸でいくつかの料理をつまんで食べてみれば、なるほど、おいしい。甘梅の手料理に比べれば、あの饅頭屋の一番美味しい饅頭とやらが「まずい」のは当然である。甘梅の言葉は虚言ではなかったのだ。

「おいしい? 」

「おいしい。こんなおいしいものは今まで食べたことがない」

 甘梅が嬉しそうにほほ笑む。

 劉備は甘梅の手料理をほおばりながら言う。

「おいしい食べ物、うまい酒、この絶景。あとは、良い曲があれば言うことはない」

「私の簫をもう一度聞きたい? 」

「ああ。聞きたい。あの曲は良かったな。どこかで聞いたことがあるような気がするが」

「あの曲はね。広陵散というのよ」

「広陵散……。ああ、思い出した。蔡邕と言うお方が作曲したという」

「そうよ」

 甘梅が簫を吹いた。

 幽玄な音色。抑揚があり、耳に心地よい。簫の音色に合わせて、静かな湖面にさざ波が立つかのようであった。

 劉備は思わず、溜息を洩らすと、傍らで簫を吹く甘梅の肩を抱き寄せた。

「この曲は、簫だけではもの足りないわ。琴を弾ける人と合奏したら、もっと良い音楽になるのよ」

「聴いてみたいものだな」

「いつか、必ず、聴かせてあげるわ」

「うむ……。阿梅」

「なあに? 」

「これから、君はどうする? 私の屋敷に……」

「おいてくれる? 」

「君さえよければ」

「うれしい。私、ただの妾でもいいわ。玄徳さんと一緒にいられれば」

「いや。ちゃんと華燭の典を挙げよう」

「うふふっ。華燭の典って。玄徳さん、本当に正室いないの? 」

「いなかったんだ。本当に」

「今まで、女を抱いたことないの? 」

「ない。君が初めてだ」

「うふふっ。じゃあ、私が初めての女なのね」

「ああ」

「でも、劉玄徳ほどの英雄が、今まで女一人もいなかったんじゃあ、様にならないわね」

「うむ……? 」

「こういうことにしておきましょ」

 正史三国志に劉備の正式な皇后として、伝が立てられているのは、二人だけである。

 そのうち、甘梅こと、甘皇后の伝には、「劉備はたびたび正室を失ったため、いつも彼女が奥向きのことをとりしきっていた」と記されている。

 その「たびたび正室を失った」というのが、どこの誰のことなのか、正史三国志には記されていない。そういうことである。

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