第49話 「どうしたの? 私がわからないの? 」

 三日が経ち、劉備は、甘梅との再会の約束を忘れたわけではなかった。

 その日は、公務が立て込んでいたものの、日が暮れる間際に、趙雲を伴い、例の饅頭の料理屋へと駆けつけた。

 料理屋の中を覗いたが、甘梅の姿はなかった。

 老板に訊ねても、

「あの生意気なガキの姿は見ていませんぞ」

 とのことである。

 道をざっと見渡しても、三日前と違い、乞食の姿は少なかった。

 劉備は首を傾げた。

 あれだけたくさんいた乞食たちはどこかに移動したのだろうか? 甘梅も一緒にどこかに行ってしまったのか? と。

「主公」

 趙雲が声をかけると劉備は溜息を洩らした。

「うーん。来るのが遅かったかな。面白い兄弟なのにもう会えないのだろうか」

「あの……。主公」

「何かね? 趙雲? 」

「自分は、下がらせていただきます。主公はこのままお待ちなされ」

「うん? 」

 趙雲は一礼すると、わき道に入り姿を消した。

 外出するとき、趙雲は、常に自分の側に立っているのに、一体どうしたのか? と劉備は首を傾げた。

 すると、どこかから簫の音色が響いてきた。

 簫の音は、抑揚があり、耳に心地よい。心躍る曲調から始まり、次第にもの悲しい音色に変化してゆく。

 甘梅との楽しい会話を思い起こし、心を躍らせる。しかし、今は、料理屋の窓から、中を見やっても、甘梅の座っていた席はほこりが積もるばかり。もの悲しい音色により、寂しさが一層募った。

 今の劉備の心境にぴったり当てはまる曲である。いつか聞いたことがある曲だなと思いつつ、劉備は、薄闇に包まれつつある空を見上げた。

「うむ? 」

 その料理屋の屋根に人影があった。風がそよぐ中、簫を吹き鳴らしている。

 あんな所に立って、簫を吹くとは……。おまけに、長い黒髪が風にそよぎ、身にまとっているのは、女の衣装である。

 月下にたたずむ仙女と言う風情だ。

「姑娘。よい音色だ。しかし、そんなところに立って大丈夫か? 」

 劉備が声をかけると、姑娘は、簫を下ろして、微笑んだ。

「劉兄。こっちに上がっておいで」

 劉備は首を傾げた。自分のことを劉兄などと呼ぶ姑娘はいないはずだが、と。

 姑娘は、クスクスと笑う。

「どうしたの? 私がわからないの? 」

 劉備はその声が甘梅に似ていると気づく。しかし、あの薄汚い甘梅少年が、仙女みたいな美女に変わるわけがない。

「私は、甘梅よ。劉兄、約束を守ってくれたのね」

 劉備は目を凝らして、姑娘を見つめる。

 玉のような白い肌。目鼻立ちは、甘梅そっくりである。腰まで届くつややかな黒髪は……。あの時は、薄汚い布巾で髪を隠していた。

「君は、甘梅……。甘梅か? 」

「ようやく気付いたのね。うふふっ。ここに上がっておいで。風が気持ちいいわ」

「しかし、梯子がないのにどうやって上る。君は一体どうやって上ったんだ? 」

「うふふっ。そうだったわ。劉兄は軽功を使えないのを忘れていたわ」

 甘梅はそういうと、屋根からひゅんと飛び降りる。

「あっ、危ない! 」

 劉備は駆け寄って、地面に落ちる前に甘梅を抱きとめた。

 甘梅の黒髪が劉備の鼻をかすめる。先日とは打って変わり、よい香りだ。髪だけでなく、甘梅の全身から甘い香りがするかのようである。

「そんなことしなくてもいいのに……」

 甘梅が劉備の首に両腕を絡ませてささやく。

「あんな所から飛び降りて、怪我するじゃないか」

「私は大丈夫なのよ。でも、うれしい」

 劉備は、甘梅を地面におろして、甘梅の目を覗き込む。

 なるほど、きれいな目をしている。こんなきれいな目をした子が女の子じゃないはずがない。なんと、うかつだったのだろうと、劉備は、自分の頭をポンと叩いた。

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