第42話 張飛、逃げる夏侯淵に痛手を与える
曹操の号令の下、曹操軍は、整然と撤退を始めた。
その様子を見た陶謙は、参謀としての経験から、兵站に問題があって退却するのだろうと察しがついた。今、曹操軍の背後を突けば、曹操に痛手を与えられるだろう。
「誰か! 出陣する者はおらぬか! 」
陶謙は、大して期待していなかった。自らの配下にはろくな者がいないと自分が一番よく分かっていたからである。
するとその声に呼応する若者がいた。
「私が参りましょう。機を見て、曹操軍の背後を突きます」
「おお。そなたか」
若者の名は陳登。字は元龍である。特に農業に関する識見に優れており、土地の特徴をよく調べ、その土地に合う作物や耕作法を採用して、徐州に豊作をもたらした人物である。そのために、陶謙が典農校尉に任命している。
変わり者ばかりの陶謙配下の武将の中で数少ない「まともな武将」でもあった。
「そなたが兵を率いてくれるなら、わしは安心じゃ。直ちに、準備して、出陣せよ」
「はっ! 」
曹操軍が去った後で、陳登は兵を率いて、曹操軍の背後に迫る。
しかし、曹操軍は、後方にも曹仁率いる強力な部隊を配置しており、付け入る隙がない。
「曹操軍が徐州を抜けるまで、まだまだ先は長い。慌てることはない」
陳登は兵士たちにそう言い聞かせて、慎重に接近した。
一方、撤退軍の先鋒を指揮していたのは、迅速な行軍で知られている夏侯淵であった。
州の境界の丘陵地の挟まれた谷間に差し掛かった時、その行く手を一軍が遮っていた。
「お前は、夏侯淵とかいう奴だったな! 俺を覚えているか! 」
咆哮がとどろいた。
夏侯淵がはっとして見やれば、なるほど、見覚えのある好敵手だと気づく。
張飛がわずか百人足らずの手勢を率いて、丘陵地に挟まれた谷間を閉鎖していたのである。
「これは、これは! 張翼徳殿ではないか! 」
「お前と再戦するのを楽しみにして、出張ってきたというのに、まさか、俺と戦わないで、逃げ出すつもりじゃないだろうな! 」
「あいにく、俺は、お前と再戦するのが楽しいとは思わんな」
「そりゃそうだろうな。今、戦ったら確実に負けると分かっているからだろ」
張飛がゲラゲラと笑うと、夏侯淵はプツンと切れた。
「その少数の手勢で、俺の行く手を遮る気か! 侮るにもほどがあるぞ! 」
「挑発に乗らん方がいいぜ! 大損害を被って曹操に怒られるぜ! 」
「貴様の武勇が優れていようが、たった一人で我らの先鋒隊を全滅させられるわけがあるまい! 」
夏侯淵は、そう叫ぶと張飛に打ち掛かる。
矛を突き合わせて、渡り合うこと数十合に及び、張飛は突然、背をむけて、逃げ出した。
「逃げるな! その首もらうぞ! 」
張飛とその手勢が逃げ出すと、夏侯淵は号令を発して、自らの軍勢に突撃を命じて、張飛の後を追いかける。
丘陵地に挟まれた谷間に夏侯淵の軍勢が殺到した瞬間である。
その両側の丘陵地から、一斉に矢が飛んできて、夏侯淵の軍勢の兵士たちが、バタバタと倒れる。次々に矢が飛来し、矢の嵐である。
「むむっ! 伏兵か! 」
「だから言っただろ! 挑発に乗らん方がいいとな! 」
逃げ出したはずの張飛とその手勢が引き返して、夏侯淵の軍勢に突撃する。
いつの間にか、張飛だけでなく、関羽、趙雲率いる部隊も合流して、夏侯淵の軍勢に突撃していた。その数は数千にも膨らんでいる。
突破して逃げ切ることは難しいと見た夏侯淵は、
「下がれ! いったん撤退せよ! 」
と命じると、軍勢をまとめて引き返した。
それでも、関羽、張飛、趙雲の部隊の追撃は、鋭く、脱落する者が続出した。
頃合いを見て、丘陵地の上から戦況を見守っていた劉備と少年軍師田豫は、鐘を打ち鳴らして兵を引き上げさせた。
「田豫よ。君の作戦のおかげで、曹操軍に痛手を与えることができた」
劉備が少年軍師田豫をそう褒めると
「夏侯淵が張飛の挑発にあんなに簡単に引っかかるとは思いませんでした。丘陵地に挟まれた谷間には、当然、伏兵が置かれていると気づいてしかるべきなのに」
「地形を利用した作戦とは見事だぞ。君の将来が楽しみだ」
「ありがとうございます。でも、曹操がいたら、あんなに簡単に引っかからなかったと思います。あの人は兵書の註釈をするくらい、兵法に通じているそうですから」
「うむ。今度は、曹操自身が出てくるだろう。さて、どう対処するべきか」
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