二人の英雄

第37話 そのころ、長安では、献帝を擁立した董卓の専横が極まっていた

 公孫瓚と袁紹が、華北をめぐって勢力争いを繰り広げていた頃、函谷関の西の関西でも、政変が起きていた。

 長安では、献帝を擁立した董卓の専横が極まっていた。

 これに心を痛めた先帝以来の旧臣たちがクーデターを起こして、董卓を殺害する事件が起きたのである。

 クーデターの首謀者となったのは、王允、字は子師という。

 王允は、董卓の腹心の部下で護衛役を務めている呂布が、董卓と不仲になっていることを突き止め、彼を仲間に引き込んだ。

 そして、宮殿において、無防備の状態の董卓を、呂布に射殺させたのである。

 董卓と呂布が仲たがいするきっかけとして、三国志演義では、王允が養女の貂蝉を董卓と呂布の双方に嫁がせると約束し、貂蝉を董卓にとられた呂布が激怒して、董卓を斬り殺すという「連環計」の物語が語られているが、正史三国志には、そのような話はない。貂蝉も架空の人物である。

 ただ、正史三国志には、

「董卓が呂布に奥御殿の守備をさせていたところ、呂布は董卓の侍女と密通したため、露見しないか内心落ち着かなかった」

 と記されており、この記述が貂蝉の物語の下敷きになったと言われている。

 いずれにしても、初平三年(一九二年)、専横を極めた董卓は、このようにしてあっけなく、歴史の表舞台から消えた。

 その結果、王允を中心とする、旧来の漢王朝が復古したのかと言うと、そんなことはなく、王允もまた、三日天下で消えてしまう。

 董卓の残党の李傕、郭汜らが蜂起して、長安に攻め寄せると、呂布の軍勢は支えきることができずに、長安から敗走する。

 残された王允は、捕らえられ一族もろともに処刑されてしまう。

 その結果、李傕、郭汜らが献帝を擁立したのである。結局、董卓が李傕、郭汜らに変わっただけであった。

 ただ、李傕、郭汜による政権は、董卓のように絶対権力者によるものではなく、李傕と郭汜の二巨頭が権力争いをする不安定なものとなった。また、この隙に乗じて、劉焉らがクーデターを試みて失敗したことは、先に述べた通りである。


 董卓が死んだことを知った袁紹は、「いよいよ。俺の時代が来た」といきり立った。

献帝は、依然として、長安におり、李傕、郭汜らに擁立されているが、もはや、漢王朝などないも同然である。これからは、実力でのし上がった者が、中原の新たな支配者となる。

 その競争で一歩リードしているのは、自分だとの自負が袁紹にはあった。

 この時期、袁紹は、各地の群雄たちに対して、

「お前は誰々を攻めよ。お前はどこどこに駐屯せよ」

 と言った命令を発して、従わせるだけの影響力があった。

 ここで、いよいよ、三国志のもう一人の英雄が現れる。

 曹操、字は孟徳である。

 曹操も袁紹の勢力下にあり、その命令に唯々諾々と従う立場にあった。

 袁紹は、公孫瓚が優位になり、これに呼応して、劉備と田楷が斉から西へ勢力を張りだしてきた時に、曹操に対して、

「やつらを撃退せよ」

 と命じている。

 劉備は、その時、かつて、県令を務めたことがある高唐県に駐屯していた。

 袁紹の命令を受けた曹操が攻めてきた時、劉備は、

「また、袁紹の手勢が来たか。関弟、張弟よ。いつものように頼むぞ」

 関羽は、

「お任せあれ。いつものように撃退しましょう」

 張飛も、

「どうせ、また、ヘタレ野郎だろう。軽く蹴散らしてやらあ」

 と、調子のよい言葉を吐いて出陣した。

 劉備も趙雲と田豫を伴って、中軍を率いた。

 劉備軍の前に現れた軍勢を一目見て、劉備は、

「おやっ……」

 と首を傾げた。いつもの袁紹配下の手勢とは、違うのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る