第19話 劉備、あの名曲に酔いしれる

 夜になって、宿舎に戻ると、月明かりの下、劉備、簡雍、単福の三人は酒を飲み交わした。

 単福はしばらく目を閉じて、耳を澄ましていたようである。急に、

「いい曲だ」

 と言い出す。

「何がです? 」

 と劉備と簡雍が首をかしげる。

「塀の向こうのそのまた向こうで、誰かが琴を弾いておりましてな。その音が聞こえるのです」

「いやあ。私には聞こえないが、単福殿は、大層、耳がよいようですな。どのような曲なのですか? 」

「口で説明するのは難しい。近くまで行って聞いてみましょう」

 単福に導かれてきた場所は、どうやら、盧植の住まいのようだった。

 家の中から、琴を奏でる音が響いてくる。

 琴の音は、抑揚があり、耳に心地よい。時に、体内から血がたぎるような心持になったかと思うと、一転して、もの悲しい音色に涙が出そうになる。何とも情緒豊かな曲だ。

 劉備たちが思わずため息を漏らすと、琴の音がぴたりとやみ、にわかに静寂が広がり、月下に樹影が残るばかりだった。

「誰か外にいるようじゃな。入ってきなさい」

 盧植の声である。

 劉備たちが中に入ると、灯の下、盧植は机に琴を置き、小難しい目つきで琴譜を見ているところだった。

「劉備や。聞き苦しい音で、眠りを妨げてしまったかな? 」

「いいえ。すばらしい曲でした。何という曲ですか」

「この曲はのう。わしの友人の蔡邕という者が作曲したもので、広陵散という」

「広陵散ですか」

「蔡邕が広陵散を奏でると、それはそれは、大変な名曲になるのだが。わしでは、蔡邕の半分の魅力も引き出すことができん。それにのう。この曲は、琴だけでなく、簫などと合奏することによって完璧な曲になるのじゃよ」

 盧植が披露した琴の音色だけでも、すばらしいのに、合奏したらどんな名曲になるのだろうかと、劉備は感嘆の息を漏らさずにはいられなかった。

 それから、劉備たちは、盧植から音楽に関するいくつかの蘊蓄を聴き、部屋に引き取ったのだった。


 翌日、劉備と簡雍が、目を覚ました時、単福の姿が消えていた。

「小簡。単福はどうしたんだろう? 」

「さあ……。あっ、小劉、テーブルに書きつけが置いてあるぞ」

 劉備が手に取ってみると、こう書かれていた。

「劉玄徳殿。お世話になりました。俺はまだ江湖でやらなければならないことがあるうえ、俺が側にいると、劉玄徳殿にも危害が及びかねません。一旦お別れします。やるべきことを果たしたら、必ず、劉玄徳殿の下にはせ参じ、恩返します。その時まで、お元気で。単福」

「単福は行ってしまったか……。もう少し剣術を教えてほしかったなあ……」

 劉備の肩を簡雍がポンと叩く。

「いずれ、恩返しに来るというのだから、またどこかで会えるさ」

 単福は、その約束どおり、劉備が危機に陥った時に、はせ参じるのであるが、これはずっと後の話である。

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