ここから本編です 劉備誕生

第10話 桑の木

 古来より、人生は、順風満帆とはいかないもの。歴史に名を残した英雄とて、山あり谷ありの人生を歩んだのである。

 これより、中国の英雄で日本人にも最も知られている劉備玄徳、諸葛亮孔明らと蜀漢の建国と滅亡の物語を説き起こすこととしよう。

 時は、後漢の桓帝の治世、延熹四年(一六一年)のことである。

 今の中国河北省中部あたりにあった涿郡涿県楼桑里に、劉弘という人物がいた。

 劉弘は、前漢の景帝の第九子、中山靖王劉勝の庶子の劉貞の末裔であり、その父の劉雄は、孝廉に推され、郎中となり、兗州東郡范県の令まで出世した。そんな家柄であることから、楼桑里では、それなりに名の知られた豪族であった。

 五十代になる劉弘自身も、州郡の官吏を務めていて、それなりの地位にあった。

 その日、劉弘は、役所の仕事を休み、家の使用人たちを急き立てて、忙しく走り回っていた。四十代になる夫人の冉氏が、ようやく男児に恵まれたのである。

「主公、おめでとうございます! 男の子ですよ! 」

 産婆の喝采と共に、男の子の元気のよい泣き声が家の外まで響き渡る。

「おお! 元気な声じゃ! 」

 劉弘は、大喜びし、早速、家堂神廟に蠟燭をともし、香を焚き、男児が授かったことに感謝した。


 そんな折、薄汚れた格好の道士が、劉弘の家の前に差し掛かった。この道士の本当の名は、左慈だったと噂されているが確かな記録はない。

 道士は、家の前の道に張り出している高さ五丈ばかりの桑の木を見上げると、

「よしよし」

 と頷いて、幹を杖でツンツンと突いた。枝と葉がワサワサッと揺れて、まるで小さな車の蓋のようになった。

 それから、道士は、家の門にやってくると年老いた門番に頭を下げて言う。

「貧道、旅の道士でございますが、腹が減って、斎を求めに参った次第です。どうか、施してくださいませ」

 年老いた門番は、首を横に振って言う。

「老師父、巡り合わせが悪いですな。うちの主公は、善行を施すのが大好きで、普段ならば、どなた様にもお斎を出すのですがね。今日は、主公にたった一人のお坊ちゃまが生まれたばかりで、家中てんてこまいですよ。今日のところは、どうか、他の家に行ってくだされ」

「やつがれ、遠路はるばるここまでやってまいりまして、あの桑の木を見て、足を止めた次第。あるいは、ご縁があるかもしれませぬ。どうか聞くだけ聞いてみてくだされ」

「あの桑の木でございますか……? 」

 門番は、あれまあ、と驚く。遥かに眺めるともっこりとしてまるで小さな車の蓋のようではないか。あんな形をしていただろうかと首を傾げた。

 再度、道士に頼み込まれて、門番はやむを得ず、

「それじゃあ、そこに腰かけていてください。主公に申し上げて来ますから」

 門番は家の中に入っていき、主人の劉弘に、

「外で、旅の道士様が、お斎を求めております」

「お前は、この家で一番年を重ねているのだから、言われなくても分かるだろう。今日は、せがれが生まれててんてこ舞いだし、ましてや、出産があって穢れた家なんだ。私がお斎を差し上げるのは構わないが、その道士様が汚れるようなことがあったら、申し訳ないじゃないか」

 門番は戻ると、劉弘の言葉を道士に伝えた。

「今日、ご縁があってきたのです。あの桑の木は大層、福徳がありましてな。この家からは貴人が出ると見ました。きっと、坊ちゃんのことでしょう。やつがれは、坊ちゃんにどのような厄があるのか見て、お祓いして差し上げましょう」

 門番は仕方なく、もう一度、道士の言葉を劉弘に伝えた。

「桑の木だと? 」

「はい。私も先ほど見ましたところ、まるで、皇帝陛下がお乗りになる車の蓋のような形をしておりまして……」

「はて? うちの家の桑の木は、そんな形だっただろうか? 」

 劉弘は、門番と共に門に駆けつけた。

 家の東南の垣根から張り出している桑の木を見上げると、確かに、門番の言う通り、小さな車の蓋のようにも見える。

 今まで意識してみたことがなかったが、元からあのような形だっただろうかと、首を傾げざるを得なかった。

 例の道士が立ち上がって、劉弘に挨拶する。

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