激戦地アンティータムに、ケイドが!?
翌朝、アニーはこざっぱりとしたキャラコドレスを身にまとい髪をまとめると、深呼吸して部屋を出た。
窓辺に立つカミラの目に一瞬の安堵が浮かんだのを見て、アニーの胸が痛む。
「おはよう」
カミラと微笑み挨拶を交わしてから、二人はいつも通りの朝食を食べた。
その後、アニーとカミラは道具を揃え、いつもの病院へと向かった。アニーの心にはまだ悲しみが刻み込まれていたが、それを押し込めて兵士たち一人ひとりに声をかけて回った。
アニーのぎこちない様子を見ながらも、兵士たちはアニーの姿を見るだけで笑顔を浮かべ、彼女への感謝を言葉にする。
「無理しなくてもいいんだ、アニーお嬢」
「そうだよ、アニーちゃん。君がここにいるだけで力になる」
その優しさが、かえってアニーの胸を締め付けた。知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ちる。慌てて目元を拭ったが、兵士たちは優しく彼女の肩を叩いた。
「ありがとう」
アニーはかすかに微笑んだ。兵士たちはそれに応えるようにうなずき、またそれぞれのベッドへと戻っていった。
けれどその穏やかな空気は午後遅くに一変した。突然、伝令が病院へ駆け込んできたのだ。
「メリーランド州アンティータムで戦闘が始まりました……!」
その声が響いた瞬間、場の全ての音が止まったように感じられた。緊張が空気を支配する。
「第51ニューヨーク連隊が最前線で戦闘に入ったとのことです!」
伝令の言葉にアニーの心臓が凍りついた。第51ニューヨーク連隊は、まさにケイド・チャールストン少将が率いる部隊だった。
「ケイド……」
アニーは震える声で彼の名前を口にした。
ハワード夫人が伝令に詰め寄った。
「第51ニューヨーク連隊の状況について、もっと詳しいことは分からないの?」
伝令は肩をすぼめ、申し訳なさそうに答えた。
「申し訳ありません、詳しい情報はありません。ただ、彼らが最前線にいるのは確実です」
カミラがすぐにアニーの肩に手を置いた。
「アニー、彼は強い人よ。きっと無事で帰ってくるわ」
アニーはその晩、ほとんど眠ることができなかった。伝令が持ち帰る情報は錯綜しており、北軍が優勢だという話もあれば、壊滅状態だという話もあった。
翌日、北軍が辛くも勝利を収めたという公式な報せが届いたのは、昼過ぎのことだった。
「勝ったのね……!」
ハワード夫人の嬉しそうなつぶやきが耳に届いたが、アニーの胸はどこか重苦しいままだった。勝利の裏にある犠牲の大きさを、伝令の報告から感じ取っていたからだ。
「しかし、負傷者が非常に多いとのことです。死傷者氏名、の名簿はおそらく今日中に新聞で公表されるでしょう」
「……彼らは今、どんな状態に?」
問いかける夫人の声を背中に、アニーは立ち尽くしていた。伝令の次の言葉が告げる光景を、頭の中で想像せずにはいられなかった。
「野戦病院では負傷兵が溢れて、寝台すら不足しています。中には地面に横たわったまま治療を待つ兵士もいるそうです。とにかく、ひどい状況です」
その言葉が彼女の心に深く突き刺さる。野戦病院に横たわる兵士たちの姿が瞼に浮かぶ中、ひときわ鮮明に思い出されるのはケイドの顔だった。彼がどこでどんな状況にあるのか、誰も知らないという事実。
ケイドは無事だろうか? 彼の部隊は?
不安と焦りが押し寄せる中、アニーの中で別の感情が芽生え始めていた。それは、自分が何か行動を起こさなければという、得体の知れない使命感だった。
マーガレットのニュースを聞いてから心がまるで死んでしまったようだったが、その反動だったのか、まるでマグマのような闘志がアニーの中に燃え広がっていった。
「カミラ」
続く言葉は、彼女の中から湧き上がるように自然に出てきた。
「ケイドに会いに行こう。そして負傷した兵士さんたちを看病するの。できることを全部しよう!」
視線が一斉にアニーに向けられる中で、カミラの顔がこわばるのを見た。彼女の瞳には恐怖と葛藤が渦巻いていた。
「行くって……どこに? アンティータムへ?」
その声には懇願とともに、何か深い絶望がにじんでいる。
「絶対に、ダメよ……!」
アニーにはわからないことが多かった。カミラの目の奥に広がる苦しみが何を意味するのか、自分が彼女に何を強いているのか。けれど、アニーは胸の内に湧き上がる確信を抑えることができなかった。自分にはやるべきことがある。それが間違っているとは思えない。
「大丈夫だよ、カミラ。前も言ったでしょ。私、結構動けるんだよ。それに、何かがあっても私にはカミラがついてるじゃない」
その言葉に、カミラが絶句した。
目の前のカミラは、いつもと違ってどこか不安定に見えた。アニーにはわからなかったが、彼女が守るべき何かを失う恐怖に押し潰されそうになっているのだと気づいていれば、違う対応ができたかもしれない。だが、アニーの目にはカミラの変化はただの逡巡に映り、自分の決意を理解してくれていると信じてしまった。
アニーには、カミラの本当の苦悩が見えていなかった。
マーガレットの勇気を心から褒めたその言葉が、皮肉にもアニーに戦場に向かう決意を与えてしまったということ。カミラの不用意な言葉が、アニーを危険な場所へ導いてしまう未来。
自分の無鉄砲な思いが、どれほどカミラを追い詰めるのか。その事実をアニーは知らなかった。
その時、二人を静かに見守っていたハワード夫人が不意に言葉を発した。
「では、私も現地に向かいましょう。道中で必要な物資を揃えます」
アニーが驚いて目を見張る中、ハワード夫人は続けた。
「戦場の恐ろしさは、私もよく知っています。それでも行動しなければ。誰かが傷つき、命を落とすのをただ見ているだけになってしまう」
夫人の声には深い経験に裏打ちされた重みがあった。彼女は少し目を伏せた後、穏やかだが決意に満ちた表情でアニーとカミラを見つめた。
「私の夫は前のメキシコ戦争で命を落としました。そして今度は、息子たちまで! あの時何もできなかった自分を、どれほど責めたかわかりません。今度こそ、必要とされる場所に、自分の手と力を差し出します」
彼女の瞳には一切の迷いがなく、ただ悲しみと共に燃えるような覚悟が宿っており、アニーは言葉を失った。
だがすぐに口元を引き締め、夫人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ハワード夫人」
「……わかったわ、準備を始めましょう」
カミラの言葉を聞いたアニーは安心し、小さな微笑みを浮かべながら彼女の手をそっと握り返した。
カミラの目の奥に浮かんだ微かな影。その影はほんの一瞬で消え去ったが、その時カミラの心の中で何かが決定的に変わったことをアニーは知る由もなかった。
カミラの顔には緊張と静かな決意が混じっていたが、アニーにはそれがただの穏やかさに見えた。
アニーの「勇気」、そしてハワード夫人の「痛み」。その二つを目の当たりにしたカミラの心は、ようやく一つの結論に達していた。だが、その覚悟を匂わせるわずかな兆しすら、アニーには見つけることができなかったのだ。
恐怖を振り払うように、アニーの全身には熱がみなぎり、鼓動がどんどん早くなっていく。
アニーの目には一つの光景が浮かんでいた。血にまみれた戦場、苦しむ兵士たち、そしてケイドの姿。全てを救うために、自分ができることはただ一つ。
彼女は拳を握りしめた。
その心に沸き上がる感情は、怒りとも悲しみとも違った。アニーの中に宿る力、燃え上がるようなエネルギーが、彼女を完全に突き動かしていた。
自分を止めるものは何もない。それを理解したとき、アニーの感情の昂りは理性を飲み込み、ただ前へ進む力として彼女を突き動かしていた。
一方で、カミラは作業をしながらもアニーの横顔を静かに見つめていた。アニーがどれほどの重荷を無自覚にカミラに背負わせているのか、彼女が知る由もなかった。
二人の胸中に宿った決意は、嵐の前の静けさのようだった。そうしてアニーの目に宿る闘志と、カミラの決意が交わるとき、二人は再び歩み出すのだった。
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