【閑話】アニーの絶望と、復活。

 カミラの最愛の妹アニー・ウェブスターは、まるで輝かしい舞台の上で生きているかのような存在だった。

 内戦中も、その明るさと美しさで多くの兵士を励まし、国中の人気を集めていた。しかしカミラの願いも虚しく、その輝きに陰りが差す時が訪れた。


 アニーがワシントンD.C.の衛生委員会に姿を見せなくなって数日が経つ。仮設病院としても使われているこの会場は、負傷兵たちの苦痛の声と医療スタッフの慌ただしい足音で満ちている。しかしそこに、いつも人々に希望を与えていたアニーの姿はもうなかった。


「アニーがここに来なければ、兵士たちの士気が落ちます。私たちが彼女を引っ張り出さなくては」

 ハワード夫人は厳しい口調でそう言い切った。


 彼女の言葉には、衛生委員会の責任者としての使命感が込められていた。


 夫人がその役割を担うようになったのは内戦が激化する中、彼女自身も多くの犠牲を目の当たりにしてきたからだとカミラは知っていた。戦場に送られた彼女の息子たちが、故郷に戻ることなく戦死したという過去がある。息子たちの死が彼女に突きつけたのは、

「戦争とはいかに多くのものを奪い去るか」

 という冷徹な現実。だが同時にその喪失感は、彼女に何かを与える原動力ともなっているのだ。


「生き残った者は、死者のためにできる限りを尽くさなければならない」

 という信念は、もはや彼女自身の慰めであり、生きる理由そのものだと、彼女を知る誰もが理解している。


「あの子は人間です。ただの兵隊さんたちの偶像アイドルではありませんわ」

「もちろんですとも。それでも彼女には責任がある。彼女が選んだ道でしょう?」


 ハワード夫人の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。


「兵士たちは、命の危機に直面しています。その中で、ほんのひとときでも希望を与えるものがあるなら、それを失わせるわけにはいきません。私たちが与えられるものが彼女の笑顔しかないのなら、私はそれを守る義務があるのです」


 夫人の言葉は、彼女自身の信念と戦場の現実の板挟みの中で、苦しみながらも選んだ道を示していた。アニーがまだ若く、今まさに崩れかけていることを理解しながらも、それでも彼女を再び表舞台に戻す必要があると確信していたのだ。


 カミラは、彼女の強い言葉の奥に隠された脆さを感じながらも、ただ黙ってそれを受け止めた。ハワード夫人の行動は決して冷酷なものではなく、むしろ自らの苦しみを無理に飲み込み、使命のために進もうとする姿だった。


 そうして、アニーが部屋に閉じこもってから五日が過ぎた晩、カミラは食事をトレーに載せてアニーの部屋を訪れるが、ノックをしても返事はなかった。


「アニー、入るわね」


 そう告げて扉を開けると、アニーは薄暗い部屋の片隅で膝を抱えていた。窓から差し込む月明かりが、彼女の無表情な横顔を照らしている。


 カミラは少し躊躇したが、そのまま近づいて床に膝をつき、アニーと同じ目線に合わせた。


「まだ食べていないでしょう?夕食を持ってきたわ」


 アニーは顔を上げず、小さく首を横に振った。


「食べたくない……」

 その声はかすれていた。

「アニー、少しでもいいから食べてちょうだい。体が持たないわ」


 カミラは深く息を吸い、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「マーガレットのことを考えているの?」


 その名前が出た途端、アニーの肩が震えた。


「……マギー、本当に立派だった。自分の家で傷病兵を受け入れて、でも」


 アニーの声は徐々に震え、最後は涙が込み上げて途切れた。


 カミラは静かに頷きながら、彼女の手に触れた。


「きっと、どうしてもそうするしかなかったからよ。彼女の故郷は戦場になってしまったんでしょう。誰かが動かなければ、もっと多くの命が失われていたかもしれない」


「自分が死んじゃったら意味ないじゃん!」


 アニーが顔を上げ、泣き腫らした目でカミラを睨みつけた。


「そうね、その通りかもしれないわ。けれどマーガレットは、最後まで命をかけて戦うことを選んだの、誇りを持ってね」


 カミラが言葉を一度区切り、ゆっくりと続けると、アニーはうつむいたまま再び沈黙した。


「マギーはいつも私を励ましてくれた。彼女が私に与えてくれた勇気を、今度はあなたに分けたいと思っている。あなたは私の、皆の希望なの」


 アニーはゆっくりと顔を上げた。


「……私が?」


「ええ、そうよ。あなたの笑顔がどれだけ多くの人を助けているか、きっと自分では分からないでしょう」


 カミラは、これまでの自分がいかに未熟だったのかを思い知らされた。あの辛い知らせを受けたとき、カミラがアニーを守ろうとしたのは、彼女に対する過剰な保護欲からだった。


 もっと早くに、ジェシカたちの死を彼女に伝えていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 アニーを守りたかったというのは、カミラのエゴでしかなかったのだ。


 カミラはそっとアニーを抱きしめた。震えるように小さな妹の体が、自分の腕の中で次第に安らいでいくのを感じると、カミラは胸の奥に痛みと安堵が入り混じる感覚を覚えた。


 アニーの肩越しに見える窓の外は、夜の静寂に包まれている。だが、この静けさがいつまで続くのか、カミラには分からなかった。彼女はそんな不安を隠しながら、アニーの耳元で静かに囁いた。


「あなたは強い子よ、アニー。どんな状況に置かれても、自分を信じて。大切な人たちのためにも、どんなに苦しくても生き抜くの」


 カミラの声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。妹を守りたいという思いと、戦場の現実に対する恐怖が彼女の中で渦巻いていた。それでも、今のアニーには勇気を与える言葉が必要だと、カミラはそう信じていた。


 アニーがかすかに頷くのを感じた。震える彼女の体が、少しずつ力を取り戻していく。カミラはさらに強く抱きしめながら続けた。


「負けてもいい。つまずいてもいい。でも、生きることをやめないで。どんなにつらいことがあっても、生きていけば道はきっと開ける」


 アニーが溢れる涙を堪えきれなくなり、カミラの胸に顔を埋めた。カミラは彼女の背中をそっと撫でながら、押し寄せる感情の波に寄り添った。アニーの泣き声は小さく、それでも確かに二人の間の空気を震わせていた。


 夜の静寂が二人を包む中で、カミラはただアニーを抱きしめ続けた。やがて、妹がそっと顔を上げ、目に涙を浮かべながらも微笑みを浮かべるのを見て、カミラはわずかに息をついた。


 アニーはカミラから体を離すと、サイドテーブルにあるトレイを膝に乗せ、スプーンを手に取った。しばらくスプーンを握ったまま動かずにいたが、やがて震える手で一口だけスープをすくった。口に運んだ瞬間、彼女の頬を一筋の涙が流れた。


 アニーを呆然と見つめるカミラに気づいた彼女は、小さくカミラに微笑みかけた。


「カミラの親友なのにね。私が慰められるなんて、あべこべだね」


 アニーの声はかすかだったが、そこには確かな感謝が込められていた。その言葉が、カミラの胸をまた締め付ける。


 マーガレットの姿がふと蘇った。

 かつてマーガレットからプランテーションの留守を預かっているという内容の手紙を受け取った時、自分は

「あなたの勇気に心から敬服している」

 と返信した。その言葉こそが彼女を無理に背中を押してしまったのではないかという思いが、今になってカミラの心を掻き乱している。


 勇気を褒め称える言葉。その裏には無責任さが潜んでいた。結果として彼女を失った今、その重みが遅れてカミラにのしかかってきている。


 アニーを抱きしめる腕に力を込めながら、カミラは自分の過去の過ちを繰り返したくないという思いを強くした。けれど自分の言葉や行動がどんな影響を与えるのかを完全に予測することはできない。それがどれほど怖いことかを、彼女は痛感していた。


 カミラはふとアニーを見つめた。彼女の小さな肩は震えを止め、涙の跡が光る頬にかすかだが微笑みが浮かんでいる。強くあろうとする妹の姿に、カミラの胸が締め付けられた。

 彼女の言葉がアニーの背中を押してしまったのだろうか。その答えを見出すには、まだ時間が必要だった。


「また私は、間違ってしまったのだろうか」

 そんな思いが、カミラの心をかすめていた。

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