実は、星条旗好きなんだよね

「そうね。私も『アンクル・トム』は名著だとは思うけど、全てが正しいなんて思わないわ」


 マーガレットにカミラが優しく答えた。


「戦争は大義がなければ始まらないものなのだと思うけれど、その裏側にはいろんな顔があるのだわ。今度のことだって奴隷解放のためだけに対立が起こっているとは思えないの。産業革命が進んで、しかも移民の多い北部には、奴隷の人たちの低賃金の労働力がさらに必要で、だからこその権力争いの面があると母が手紙で言っていたわ」


 戦争?

 奴隷解放?

 産業革命??


 たしかに聞き覚えがあるが、あまり現実のものとは思えない、難しい単語が並べられたアニーの脳裏には? マークが並んだ。


 カミラって、勉強できるんだよね。パパも、パパと離婚したカミラのお母さまも頭いいし。


 そんなアニーとは裏腹に、少し怒った様子だったマーガレットは、すぐ気を取り直したように笑顔になった。


「さすがあなたのお母さまね。何にせよ、男の方たちが浮き足立っていて本当に憎らしい。少佐のように、戦争を避けたいと思って下さっている人の方が少数なのではなくて?」


「いや、軍人たちは北部と南部の現状から被害が拡がることを考えて戦争反対派が多数を占めています。一般の方々とは違って、賛成する軍人は利権を手にしたいだけに過ぎません」


 マーガレットがやや驚いた表情で少佐を見つめる中、少佐はさらに続けた。


「実は僕も、始めから強い意思と信念を持って軍人となったわけではないんです。でも実際に軍務に就いてみて、何が正義なのか、本当に守るべきものは何なのかを考えさせられる日々です」


 少佐の明るい声が響くと、マーガレットが目を輝かせ、彼に視線を向けた。その顔は、少佐の意見に深く賛同しているかのようで、アニーがちょっとドキリとするほどだった。


「そのような責任感を持ちながら生きている方に出会うことができて、私も心が引き締まる思いだわ」


 マーガレットの真摯な瞳に向き合う少佐が一瞬、微かに揺れたように見えたのはアニーの気のせいだっただろうか。しかし少佐はすぐに表情を引き締め直し、今度はアニーに向けて優しい視線を向けた。彼の視線がマーガレットから自分に移ると、アニーの胸の奥がなんとなく落ち着かなくなる。


「アニー嬢、僕の話は退屈かもしれませんが」

「いえ、そんなことありません!」

 アニーが急いで答えると、少佐の表情に少しだけほほ笑みが深まった。アニーはその瞬間、少佐の目がどこか自分をからかっているようにも、本当に興味を持っているようにも見えることに気づいた。


「アニー嬢は、専攻について今お考えになっているところですか?」

「まだ何も決めてないの。カミラは生理学ですって。でも少佐はいつ軍人になることを選んだの?」


 アニーの好奇心に満ちた瞳を見つめながら、少佐は微笑んだ。


「僕の家系では、軍人になるのは一種の伝統でしてね。小さい頃はそれに従うのが当然だと思っていました」

「そんなふうにして運命が決まるなんて不思議ですわね。自分で選ぶ余地もなく?」

 とマーガレットが尋ねた。


「そうですね。でも、『飾り』として生きるのも悪くないと思うこともあるんです。こうして自分の言葉が聞かれ、役に立つのであれば、それも一つの役割として悪くはない。それこそが始まりだ」


 アニーはその言葉を聞き、少佐の視線に吸い寄せられたような気がした。彼の言葉には確かに力があり、またどこか覚悟のようなものも感じられた。少佐の瞳がアニーをまっすぐに見つめ、再びその柔らかい微笑みを浮かべた。マーガレットが、少佐に何かを尋ねようと身を乗り出した瞬間、彼はふと視線をアニーに戻したままで、楽しそうにマーガレットの言葉をかわすようにして笑った。


「私、そこまで立派なことを考えたことなんてないわ。スポーツやお友達と遊ぶばかりで」

 アニーはポツリと呟く。


 その瞬間、トランペットの音が大きく鳴った。


「行かなくては。私もウェブスター将軍の娘として、せめて飾りくらいにはなってみせなくちゃいけませんわね?」


 アニーがそう言うと、チャールストン少佐とマーガレットが小さく吹き出し、そのままチャールストン少佐が笑いながらアニーをエスコートした。


「紳士ならびに淑女諸君! リンカーン大統領ならびに北軍最高司令官にこの度めでたく就任されたウェブスター将軍です!」


 リンカーン大統領って、木こりのおうちで生まれて育ったんだって。

 最初は優しそうで冴えないおっさんと思ってたけど、なんか今日かっこいいな。威厳がある感じ。


 リンカーン大統領は、自身の妻メアリーと、カミラとアニーたちウェブスター家が演台に立ったことを確認し、口を開く。


「親愛なる合衆国の愛国者の皆さん!我々は大切な家の半分を今、失う危機に瀕しております。そんな中、我々は対話でその危機を乗り越えようと何度も試みてきました」


 家の半分って。ジョージア州とかサウスキャロライナ州とかの南部が独立しようとしてるって話?


「それらの努力は、残念ながらサムター要塞※での三日間の暴動を経て、無になろうとしております」


※サムター要塞には当時、いわゆる北部側の兵が占領する形で駐屯していたが、そこに南部側であるサウス・カロライナ出身の名将ボーリガード准将率いる部隊が砲撃を開始し、1861年4月12日〜14日の間続いた闘いのこと。なお、この闘いでの死者は北部側1名のみであった



サムター要塞については、カミラが心配そうに述べていた。もしかしたら、北部と南部の対立が今後深刻化するかもしれないと。


「愛する合衆国の皆さん、軍事的対立関係が避けられないこの状況で、謙遜の気持ちからずっと就任を拒否されてこられたウェブスター将軍が、連邦軍最高司令官の任に就くことを、やっと許可してくださりました! 誰よりも聡明、かつ慈悲深く素晴らしいクリスチャン精神を持つ、我らが勇敢なる最高司令官に、どうぞ盛大な拍手を!!」


「ありがとうございます、大統領閣下Your excellency。皆さん、ご紹介にあずかりました、フィリップ・ウェブスターです。年齢が年齢だから、恥ずかしながら最高司令官就任は何度も断らせていただいたのですが、彼のしつこいほど情熱的で愛国精神にあふれる説得に折れて、老骨に鞭打つ決心をした次第です」


 アニーは、少しだけ飽きてきていたが、少しでも退屈を見せてはいけないと思い、必死でその気持ちを抑え込んでいた。

 チャールストン少佐の顔を見ると、彼は誇らしげに微笑んでおり、ウェブスター将軍との深い繋がりを強く感じ取っているようだった。その微笑みが、アニーの心を少し和らげた。


「奴隷制度に頼る社会のあり方を、必ずしも好いていないリンカーン大統領閣下。この人を我々国民が選んだことが、我らの兄弟たちを強く刺激したことは、皆さんもご存知のとおりです。彼も、彼なりにできるだけ譲歩しようとしたようですが、対立は避けられなかったということですね」


 リンカーン大統領が肩をすくめると、会場から少し笑い声が上がった。


 彼の奴隷制度に対する考えが対立を生んでいることは、アニーにとって初耳だった。奴隷制度に反対の立場であることを公然と語りながらも、南部にその考えを押し付けるつもりはないと選挙で述べていたリンカーン。しかし、彼が大統領に選ばれたことは南部の反発を招き、今の緊張した情勢を生み出していた。


アニーは一瞬微笑みを浮かべたが、実際にはリンカーン大統領の言葉の内容をほとんど耳に入れていなかった。


 次の瞬間、ウェブスター将軍の声が急に大きく、力強く変わった。彼が発した言葉の中には、力強さと情熱が込められていた。


「リンカーン大統領閣下が先ほどおっしゃった通り、残念ながら、南部連合を名乗る我らの兄弟たちは、サムター要塞を守る我々連邦軍を武力で撤退させました。要塞司令官アンダーソン少佐は星条旗を持ち帰り、その星条旗はこちらにかがげられております!!」


 その声の変化に、アニーは驚き、つい後ろを振り返ってしまった。壁には、大きな星条旗が吊り下げられており、その姿にアニーの心は震えた。


「この星条旗に、私は誓います。建国の父たちの子孫たる我々が、サムター要塞の戦いにより、分断の危機に瀕している今。それを食い止めることこそ真のアメリカ人なのではないでしょうか!」


 その一言が、会場を静まり返らせた。アニーはその瞬間、言葉がまるで自分の胸を突き刺すように響いてきた。ウェブスター将軍の声には、単なる政治的な訴えを超えた、魂のこもった力が感じられた。その力強さがアニーの心に突き刺さり、胸の奥に何か熱いものを芽生えさせた。


 ワシントン大統領や、約85年前の独立戦争の英雄たちを、アメリカ人は建国の父と呼ぶ。

 それはアニーやカミラを含めたあらゆるアメリカ人にとって、心の支えにも等しい存在なのだ。


 パパ、すごい。


 それは、国を愛する気持ち、父祖たちの意志を継いで戦うべきだという使命感、そして今、目の前で語っているウェブスター将軍の言葉に心を動かされる自分自身の誇りだった。


 アニーは思わず、再びチャールストン少佐の目を見つめた。彼の瞳とぴったり合った瞬間、その瞬間だけは全てが静止したかのように感じた。磁石のように、二人の心が引き寄せられる感覚があった。彼女の胸が高鳴り、何かが一気に弾けるような感覚が広がった。


 その瞬間、アニーの胸に温かな感情が広がった。それが何かはわからない。ただ、少佐と過ごす未来の一端が、かすかに見えたような気がした。


 だが、人の言葉、特にそこに心からの想いがのせられている時、いかにも容易く人間は乗せられてしまうのか。

 そのことを悟るには、アニーは、そして人一倍慎重なカミラでさえ、まだ人生経験が足りなかった。

 会場中の人間が、ウェブスター将軍の国を思う「正義感」と、一体化してしまった。


「私は軍人として、そしてアメリカ人として、建国の父たちに恥じぬよう、微力ながらも自分のすべてを注いで力を尽くしていく所存であります!! 正義を前に嘘はつけない! 真のアメリカ人として、国をふたたび一つにすることを、今ここで神に誓おうではないか!!」


 締めくくった後、ウェブスター将軍は優雅にお辞儀をして。


 1秒遅れてカミラと、そしてそれを見たアニーは、深々と膝を曲げた。



一瞬の静寂が、突如として爆発するような歓声で切り裂かれた。アニーの周りで鳴り響く拍手と歓声は、まるで壁が崩れ落ちるかのように場内全体を揺らしている。観衆の興奮と高揚が波のように押し寄せ、アニーの胸にもその熱気が伝わってくる。


「俺たちは、真のアメリカ人だ!」

「正義には嘘をつけない! 国を俺たちの力で分断から守るんだ!」


 若い軍服姿の男たちは熱い感情を込めて叫び、ウェブスター将軍の周りに集まって彼を囲んだ。さらにその情熱のままに、彼らは将軍を肩に担ぎ上げ、まるで勝利を祝うかのように胴上げを始めた。会場には誇らしげな歓声が満ち、興奮と熱気が渦巻いている。


「ウェブスターご令嬢たち! 私たちは、アメリカ人であることをこんなに誇らしく思ったことはありません!」

「ウェブスター将軍やあなたたちと同じ国民であることを、誇りに思います!」


 なに、これ。

 皆が感激して、興奮してわめいてる。


 不思議なのはそれを、ちっとも耳障りと思わなかったことだった。


 縁台の後ろのオーケストラが、

 フォスターの「ケンタッキーの我が家」を小さな音で流し始めた。


 アニーの視線が少佐に向けられると、彼の姿はまるで夢の中の人物のように輝いて見えた。金髪がキャンドルの灯りで柔らかく輝き、軍服はその細身の体を引き立て、まるで絵画から抜け出してきたかのようだった。彼が差し出した手は、まるで運命の導きのように優雅で、アニーの心は瞬く間にときめいた。


 その瞬間、アニーは自分の心が少佐に引き寄せられていくのを感じた。

「アニー嬢、よろしければ」


 夢みたいだ。


 アニーは胸が高鳴り、思わずその手を取った。音楽が流れ始め、クラリネットの音色に包まれると、アニーの足は自然と少佐と同じリズムで動き出した。




  懐かしきケンタッキーの我が家に太陽が輝く


  この夏は、彼らも楽しそうだ


  トウモロコシも実り、草地も茂る


  鳥たちは一日中歌を口ずさんでいる


  若者たちは小さな小屋にやって来て


  みんな陽気で明るく楽しそうにしている中


  苦難の時が戸を叩く


  懐かしき我がケンタッキーの家








 「苦難の時」なんて、味わったこともなく、これからどんな運命が待ち受けているのか、ウェブスター将軍の罪さえ知らずに。

 アニーは幸せの絶頂を味わっていた。


 運命は、自分が切り拓いていくものだと、心から、そう信じていたのだ。



 そんな中、ファーストダンスとして踊るウェブスター将軍とカミラを会場の隅で見つめる男の姿がアニーの目に入った。遠くからでもその人物が放つ鋭い視線が感じられ、まるで晴れやかなパーティの雰囲気にそぐわないオーラだった。アニーは一瞬、彼のことを知っているような気がしたが、すぐにそれが何なのかは分からなかった。だがその不安感が彼女の心に重くのしかかっていったのだった。


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