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シンカー・ワン

窮鼠

 浮遊都市ヴィンス。

 古の時代天空にあったそれは、ある日突然地上へと落ちた。

 落ちたところはコルツの国を東西に分けていたロックニー山脈。

 山を分断して大地に横たわった浮遊都市は長き時をかけ緑に沈み森となる。

 反対側へ行くには険しい峠を越えるか、大きく迂回するしかなかったロックニー山脈であったが、ヴィンス遺跡の森を抜けることで大幅に移動距離と時間を縮められることが、遺跡を発掘探索する冒険者たちによって発覚する。

 コルツ国の公的機関の手によって、最初の横断道が整備されてから数十年、今ではいくつかの回遊道も出来ている。

 多少の危険はあるものの、未整備の脇道を通ればメイン道よりも早く向こう側へ行けることから、ヴィンス遺跡の東西には未整備ルートの道案内ガイドを生業とする者たちが居つき、交易都市が出来上がった。

 

 とある依頼をこなしその結果報告のため、コルツ西から東側へ居る依頼主の元へと向かわねばならなくなった忍びクノイチ

 普段の彼女であれば鍛錬も兼ねて自力で踏破していたことだろう。

 が、今回は時間に余裕がなく、一刻でも早く到着する必要があった。

 パンはパン屋のことわざに従い、ガイドを雇って遺跡の森を抜けていく忍び。

 地元の者だと言う女のガイドは優秀だった。

 軽口をたたくことも多いが、公的なルートにはない抜け道を多く知っており、忍びが望む時間短縮に貢献してくれた。

 良いガイドを雇えた、料金にいくばくかの色を付けるのもやぶさかではないなと思う忍び。

 だが、東側の出口まであとわずかというところで、ガイドは隠していた本性を見せた。

 

 先を歩いていたガイドが、忍びに気取らせることなく姿をくらませた。

 姿と気配を見失った直後、一陣の風が忍びを薙ぐ。

 油断していた訳では無い。隙を見せたつもりもない。

 なのに、忍びは一瞬で柿色の頭巾を剥ぎ取られ、まだ幼さの残る素顔を晒す。

 つまり、相手がその気なら簡単に頭を吹き飛ばされていたと言うこと。

 なぶられている。その現実に忍びは眉をしかめ、屈辱に身を震わす。

「いいわぁ、すごくいい。その悔しそうな顔、とぉっても好みよぉ」

 眼前に広がる暗闇から聞こえる艶やかな女の声。この数日で耳慣れたガイドのもの。

「簡単には殺したりしないから、頑張ってアタシを楽しませてねぇ」

 楽し気な声音が近づいてくる。闇の中からのっそりと現れたのは――大型の虎。

 猫科特有のゴロゴロと喉を鳴らせながら、足音をたてずにゆったりと歩を進めてくる。

 ハッキリと襲撃者の姿を捉えたことで、忍びは冷静さを取り戻す。

 どのみち頭に血を昇らせた状態では相手にもならない。

 ――もっとも、最高のコンディションでも勝てるかどうかは怪しいが。

 野生の虎ならば苦戦は免れないが倒す自信はある。手強かろうが所詮は獣、狩る方法は幾つもあるから。

 しかし、目の前のこいつは違う。を持っている。

「ワータイガーだったか……」

 虎から目を離さないまま、腰を落とし苦無を手に取り、戦闘態勢を取りつつ言い捨てる忍び。

 ワータイガーweretiger。獣化人もしくは人化獣。人から獣、獣から人へと変わることのできるセリアンスロゥプtherianthrope

 人でもあり獣でもあると同時に人でもなく獣でもない存在。どちらの世界にも居場所を作ることが出来ず、闇に堕ちるものが多い。総じて狡猾で敵対的。

 獣の意匠をもつ亜人、獣人族とは根本的に違う種だ。

「……お前は?」

 口角をあげながらあざけり気味に言葉をぶつける。

 セリアンスロゥプに人か獣かを問う、それは侮蔑の行い。

 喉鳴りが低く押し殺した音域に変わる。ストレスを感じている時や不機嫌な時に出す低音に。

 激昂して獣の本能で襲ってくれば対処もしやすくなる。それが忍びの狙いだったが、

「――楽に死なせてはあげないからね」

 底冷えするようなワータイガーの返答で、目論見が外れたことを悟る。同時に横っ飛び。

 忍びがいた場所を質量を伴った風が通り過ぎ、背後の樹々が砕かれ飛び散る。

 破壊された樹木の向こうには、凍える目をしたワータイガー。

 "虎の尾を踏んだか――"

 思うと同時に移動する。立ち止まっていては的になるだけ。

 向こうは自分よりも速く重く、そして鋭い。

 樹々の影へ遺跡の残骸を盾に。ワータイガーの速度に劣らぬ瞬発力で身をかわす忍び。

 それでもわかる、向こうは本気ではない。遊ばれている。

 "こっちが疲れたところでる気か、それとも"

 瞬間、予想外の角度から一撃を受ける。

「!」

 もろに食らい、吹っ飛び遺跡の壁に叩き付けられる忍び。

「――ガッ、ハッ」

 詰まる呼吸いきと一緒に吐き出す血塊。無様に這いつくばり身体を縮こませる。

 "腹に食らったのは前腕? あばらの何本かにひびが入ったか? 内臓もヤバイ……"

 脂汗を流しながら呼吸法で痛みを逃しつつ忍びは考える。

 "爪を立てなかったのは弄るためか、すぐに追撃してこないのも同じ理由……その余裕、必ず後悔させてやる!"

 立ち上がろうとする背に衝撃。ワータイガーが踏みつけたのだ。

「ガッ」

 忍びの十倍はあろう体重を乗せ、軽やかに足踏みするワータイガー。

 ひと踏みされるたびに忍びから、言葉にならない短い呻きが漏れる。

「あは、いいわぁ~。もっともっといい声で啼いてぇ~」

 愉悦にあふれた声音で歌うようにワータイガー。

 軋む身体に鞭打ち、足踏みから逃れる。が、そのあとが続かない。

「ハーッ、ハーッ」

 苦し気に息を継ぎ、それでも両腕に力を込め、這いずりながらなんとか距離を取ろうとする忍び。

「ハッハ ♪ 無様ね~。いいわよいいわぁ、その生き意地の汚さ、素敵よぉ」

 獣の顔で器用に笑いながらワータイガー。

 這いずる忍びに軽やかなステップで近づき、

「ハイ」

 と愉しげに言うや前脚で玩具オモチャを転がすように忍びを払う。

 抵抗する間もなくあっさりと払い飛ばされ、数メートル宙を舞って地面に落ち転がる忍び。

 彼女が動こうとすると飛びついて前脚払いを繰り返すワータイガー。

 それはまさに猫が獲物をいたぶるさまそのものだ。

「……ぁ」

 何度目かの転がされのあと、ついに動きが止まる忍び。

「あ~ぁ、もう終わっちゃったのぉ? ま、結構楽しめたわよぉ~」

 あら残念と言った口調でワータイガー。トトトとボロ雑巾のような忍びに近寄り、

「ご褒美にもう死なせてあ・げ・る」

 喜色満面で大きく口を開け、鋭い牙を見せつけながら忍びの頭をかみ砕こうと迫るワータイガー。

 圧倒的優位に立ち一方的にいたぶるだけだった人獣は気がつかない。

 やられっぱなしになろうとも、忍びの両の手から必殺の獲物が離れることがなかったのを。

 この瞬間のために残しておいた体力、わずかなそれを振り絞りワータイガーの大きく開いた口内に苦無を突き立てる。

 渾身の一刺しが虎の口内から脳を直接貫く、致命の一撃クリティカルヒット

 二度三度痙攣したのち動かなくなる虎の巨体。その肉体が徐々に形を変え、人間の女と虎の特徴を残した形態で止まる。

 頭を破壊された人と獣の混合態キメラの下から、這う這うのていで抜け出す忍び。

 震える手でポーチから回復の水薬を取り出し、口に含む。

 移動や戦闘中に割れるのが嫌で、本来の陶器から細竹の筒に移し替えておいて良かったと心底思う。

 わずかにだが身体に活力が戻るのを感じる忍び。

 "……上級の高い薬を、買っておいてよかった"

 何とか生き延びることはできた。

 だがまだ遺跡の森の中。野生の獣や怪物が襲ってこないとは限らない。

 ワータイガーに手ひどくやられた傷も、早く治療せねば手遅れになるだろう。

 一刻でも早くこの場から去らなければいけない。

 満身創痍の身体を無理やり起こし、ワータイガーが破壊した樹木から適当な枝を杖代わりにして、出口へと歩き出す忍び。

 "――手間を惜しんでとんだ猫の手を借りてしまったな……"

 楽を選んで苦にハマったかと自虐する。

 正体を現すまでは優秀だったガイドの案内、それを信じて教えられた道を出口へ向かう。

 気が抜ければ崩れ落ちそうな身体を支え、蝸牛の歩みで進む忍び。

 行き先に待つは、生か死か。

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