君が好きなのは猫だから
清水らくは
君が好きなのは猫だから
ササが逃げ出したと知った時、僕はしばらく動けなくなってしまった。
「パパ、パパ? 探しに行こうよ」
しばらく、娘の
「パパー! ササと暮らせなくなっちゃうよ!」
暮らせなくなる。その言葉にはっとして、僕は家を飛び出した。
ササは、生まれてすぐに引き取った茶虎の猫で、もう12歳になる。結婚する前から、ずっと一緒に暮らしてきた。そのササが、いなくなってしまった。大変な事態なのだ。
公園、草むら、路地裏、色々なところを探して回ったけれど、見つからなかった。
夜になり、仕方なく家に帰ってきた。仕事から帰ってきた妻が、とても不安そうな顔をしていた。
「いなかった?」
「うん……」
ササがいなくなったことは、すでに知らせていた。妻の悲しそうな顔を見るのがつらい。妻はササが本当に好きなのだ。
いや、妻は、ササこそが好きなのだ。
高校生の時、妻と出会った。といっても、最初はただのクラスメイトだった。
僕には何のとりえもなくて、ただの地味な男子高生だった。それに対して妻は、誰もが憧れるような美貌と、朗らかな性格で、多くの人々に好意を持たれていた。
付き合うことはおろか、話しかけることすら望まなかった。絶対無理だと思ったのだ。
「どうしたのかなー、ご飯食べたいのかなー」
「ニャーン」
家に居るときにそんな彼女の声が聞こえてきた時は、心底びっくりした。そしてササの鳴き声も、聞いたことがないくらい甘ったるかった。
「あっ」
ササがいる部屋に行くと、彼女と目が合った。窓越しにササに声をかけていたのである。僕はササを腕に抱いて、窓を開けた。
「えっ。ここ、立原君の家なの?」
「うん。正野さんは、通り道?」
「そう。学校の行き帰り、いっつも見えててかわいいなって。つい、声かけちゃった」
「抱いてみる?」
「いいの? 抱いてみたい」
僕は、ササを彼女の腕の中に渡した。ササはこれまで見たことないような、幸せそうな顔をしている。そしてチラリと横目で僕を見て、ニヤリと笑った気がした。
「あったかい」
「猫、慣れてるんだね」
「おばあちゃんが飼ってて。でも、うちでは無理なの。羨ましいな」
「あの……いつでも抱きに来たらいいよ。ササももうなついてる」
「本当? うれしい。ササちゃん、また会いに来るよー」
その日以来、彼女は実際にうちに何度も来た。学校でも普通に話せるようになった。
妻は、ササのことが好きで、だから僕にも優しかったのだ。
付き合い始めてからも、結婚しても、妻はササといるときが一番楽しそうだった。その姿を見ていると幸せな気持ちになるとともに、怖くもなった。ササがいなくなったら、僕はどうなってしまうんだろう。
妻が好きなのは猫で、僕ではないのだから。
あの日、ササは僕に手を貸してくれたのだ。僕からは決して近づけないような高嶺の花と、結び付けてくれたのだ。
ササが年を取るにつれて、いなくなってしまう日が近づいているようで、恐ろしかった。ただ、ササはまだまだ元気だ。だから、「すぐではない」と頃を落ち着かせていた。
それなのに。突然ササがいなくなってしまった。このままだと、妻に笑顔は戻らない。そしてササのいない日々に耐え切れず、僕と別れてしまうかもしれない。七菜香は妻についていくだろう。そうすると僕は、独りぼっちだ。
ササ。今どこにいるんだ。絶対に見つけなければならない。僕は、一睡もできなかった。
次の日の朝。庭で物音がすると思ったら、茶虎の猫がいた。植木鉢の上にあるスコップを必死につついている。
「ササーッ」
僕は駆け寄って、ササを抱きしめた。
僕の声が聞こえたのか、妻と七菜香も庭に出てきた。
「ササ帰ってきたんだ!」
「よかったね」
「パパ、泣いてるー」
「だって、だって……」
「たっくんは本当にササのことが好きだね」
妻があきれたような声で言う。僕は思わず、妻の顔を凝視した。それは君じゃないか、という言葉が喉元まで出かかった。
「パパは、ママよりササのことが好きかもね」
「ふふ、そうかも。でもね、ママはササを抱いているときのたっくんの顔が好きなのよ」
あの時と同じ目で、ササが僕のことを見ていた。「どうだ、まいっただろう」とでも言いたげだった。
「お前、どんな手を使ったんだ? なんであの人は、あんなこと思うようになったんだ?」
小声で聞くが、当然猫は答えない。そしてササは僕の腕をひっかくと、飛び出していった。
「あ、こら逃がさないぞ」
「パパー、ちゃんと捕まえとかないとー」
僕は必死でササを追いかけた。そう、ちゃんと捕まえておかないといけないのだ。
僕は、妻もササも大好きだ。
君が好きなのは猫だから 清水らくは @shimizurakuha
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