人間をやめさせられる人間(掌編連作)
覚夢理子
第1話 人間をやめさせられる男?
――人は多くの生物の犠牲の上に生きている――
黒板に書かれたその文字列には、妙に現実味がなかった。
「であるからして諸君は、そのことを充分に意識して生きねばならないと……」
そうしたところでどうなるというのだ。
などと広い階段教室の黒板の前で身勝手な熱弁をふるう倫理教諭、
周り中の生徒が夢の世界へ逃避している中、熱弁をふるう秋津教諭。いつも長話をするが、もっと生徒が興味を持つように話せないのだろうか。まあ、とりあえずその時間が無事に終わって給料が貰えれば良いのだろうな、誰も聞いていなくたって。
……腐っている。自分のことしか頭にない人間なんて、うんざりだ。かくいう俺も、同じようなものかもしれないが。結局人間なんてそんなものなんだよ。ああ、何で俺は人間なのだろう。
「つまり
突然、右隣から囁き声が聞こえてきた。考えていることを口に出した覚えはないのだが……。
右を向くと、隣の席の
「僕にはわかるよ、その気持ち。人間なんてエゴイズムの塊、さっさとやめてしまいたんだろう?」
いきなり何を言い出すんだ、こいつは。呆気に取られていると、
「いつだって人間……いや、ホモ・サピエンスは、自分たちのことしか考えていないからね。ネアンデルタール人を駆逐したという説や、好き勝手に狩ってマンモスを絶滅させたらしいという事実が、その証拠さ」
まるで自分がホモ・サピエンスではないかのように由利は言った。
中高一貫校であるこの私立風駆(かざく)学園で、もう丸々四年間共に学園生活を送っているはずなのに、未だによく解らない奴だ。この春になって、余計その度合いが増した気がする。ミステリー研究会の副部長になって、どこかのネジが外れたか?
「そう言うお前だって、ホモ・サピエンスじゃねぇか。大体な、やめるってなんだよ、やめたくたってやめれ……」
「それが出来るんだよ」
三日月の目で俺の目を射抜く彼は、さながら獲物を見つけた死神のようだった。背筋に悪寒が走る。こいつ、やっぱりネジが外れてやがるぜ。
「何言ってんだ、不可能に決まってる、天と地がひっくり返りでもしねぇ限りありえねぇ。ある固定の種がいきなり別の種になるなんて有り得ない」
「そんなこと、誰が決めたんだい」
そう、由利は言い返してきた。
「過去、絶対不可能だと思われていたことが実現しているなんてこと山ほどあるよ。飛行機で空を飛ぶなんて良い例だね。白血病やエイズの治療も、研究者の努力でできるようになったし。そういえば、エイズにかからない遺伝子を持ったヒトもどこかでは生まれているそうだよ。ヒトは日々進化しているんだ。そこら辺は君、専門じゃなかったっけ」
わざとらしく肩をすくめる。俺は生物研究部の部長なのだ。
「ああ、確かに、ヒトは日々進化している。生物は進化を続けてきて、今も進化を続けている。しかし、もう生まれているホモ・サピエンスがいきなり別の種になるなどということは絶対に……」
「ない、と言い切れるかな。何を証拠として君はないと言おうとしているの」
ゾッとした。俺の目をしっかりと見据える由利は、本気でそう思っているようだった。背筋に悪寒が走る。
「逆に有り得るって思うのは何でだよ、そんな例は世界中探したってないだろ」
「ひょっとしたらあるかもしれないじゃないか。僕がそんな力の持ち主だったらどうする?」
「ホモ・サピエンスをホモ・サピエンスじゃなくする力か?」
「あるかもしれないじゃないか」
「あるわけねぇだろ?」
「でも証拠もないじゃない」
「あるわけねぇだろ」
「落ち着きなさい」
鋭い囁き声と共に後ろから肩をつかまれ、はっとする。いつの間にか大きな声を出してしまっていたらしい。机につっぷしていた何人かが、こちらを見ていた。しかしすぐにまた、つっぷしてしまう。
秋津は、ちらりとこちらを咎めるように見ただけで、気にせず熱弁を振るい続けた。
「今授業中なの、わかっているわよね、黒田君」
肩から手を離し、鋭い早口で言ってきたのは、真後ろの席の
外見も成績も人並みよりずっと秀でているが、どこか由利同様の理解できない不思議さを持っている女だと俺は思う。中一の頃から、同じ部の由利とつるんでいるからだろうか。
「すまん」
と顔の前で両手を合わせると、早乙女は由利の方を向いた。
「由利君、いい加減、授業中のお喋りはやめて、お休み時間にして」
「ああ、すまなかったね、綾女」
早乙女とタメ口で気軽に話せるのは、由利くらいだ。別に恋人という訳ではないようだが、疑っている奴は多い。どこか他人を寄せ付けない頑なな雰囲気を持った早乙女には、同級生の女子でさえ腫れ物に触れるかのような丁寧語を使うのだから。
「じゃ、続きはまた後で」
と囁いてきた後、由利は机に広げたノートに、秋津が新たに黒板に書いたことを写し取り始めた。そこには、秋津が黒板に書いたことだけでなく、その話した内容までもが、かっちりとした右上がりの小さめな字で、きちんと写し取られていた。こいつきっとA型だ。
『人は、多くの生物の犠牲の上に生きている
→であるからして諸君は、そのことを充分に意識して生きねばならないと(秋津)先生は思う。なぜなら、そうすることで犠牲になったものの分も人生を真剣に生きようと思えるからだ。昨今、ろくに努力もせずに死を選ぶ若者が増えている。嘆かわしいことだ。自分のために犠牲になったものたちのことを、もっと尊重すべきとは思わないかね?(僕は思わない) そこで今日の本題だ……』
そこまで書いて、行を空け、今日の本題である教科書の内容を書いている。ずぼらな俺と違って、そういうところはしっかりしているのだ。さすが成績優秀者。
……後でノートをコピーさせて貰おう。持つべきものは友達だ。
なんて思う俺もやっぱり、自分のことばかりを考えている。仕方ないさ、ホモ・サピエンスなのだから。
人間に人間を卒業する力なんてない。卒業させる力もあるはずがない。しかし現実は小説よりも奇なり、ともいう。由利にそんな力があってもおかしくはないのかもしれない。隣にいる由利が人間である証拠を俺は何一つ持っていない。ひょっとしたら未来から来た謎の生命体かも知れない。人間に擬態しているだけかも知れない。可能性を考えたらキリがない。
「人間をやめさせられるかもって言ったけど、その前に人間って何なんだろうね」
倫理の授業が終わった時、席から立ち上がった由利が話しかけてきた。
「何をもって、ホモ・サピエンスとするか。倫理学の根底にある問題だけど、定義が変わった途端、僕らは違う種になるんじゃないかな。進化、あるいは退化したヒトは、ホモ・サピエンスといえるのか。どこまでがホモ・サピエンスで、どこからが違う種なのか。考えてみたことあるかい?」
そう言う由利の目は、さっきと違って笑っていなかった。
「そういや考えてみたことはないな。いつ突然変異が起こるかなんてわかんねぇしな、言われてみれば。人間が人間ではなくなる日も来るかもしれねぇよな」
「もし、もしもの話だけど、」
そう言って由利は瞳を翳らせた。目に被さる黒い睫毛が長くて綺麗だ。
「もし僕が人間ではないとしたら、黒田君はどうする?」
「どうもしない、どうもしないと思う」
正直に思っていたことを言うと、由利は目を見開いた。
「どうもしない、なんてことある? 地球外生命体かもしれないよ?」
目にいたずらっぽさが戻った。
「そうだな、まあ、どうもしないことはないかもしれねぇな。驚くだろうし観察もすると思う。だけど、それだけだ。由利は由利だろ、何者だったとしても、俺の知っている由利であればいい。あと無害ならなおいい」
そう言うと、ふふ、と由利は笑った。
「黒田君らしいね。僕も、黒田君には黒田君で居てほしい。その人らしさっていうのが大事なんだと思うな、ホモ・サピエンスがどんな定義であろうとも」
「俺が地球外生命体であったとしても」
そうそう、と由利は頷く。
「もし僕に人間をやめさせる力があっても、安心だね」
「俺らしさが残ればいいって? 人間じゃない俺って俺なのか?」
考えてみたこともなかったが、人間をやめた俺は、最早、俺ではないような気がする。
「われおもう、ゆえにわれあり」
由利はまた目を三日月にする。我思う、故に我在り。確か、デカルトだ。
「自分はなんで存在するのかと考えること自体が、存在するという証明なんだ。俺は何者なのかって思うなら、ちゃんと黒田君は存在しているんだよ」
そう言うと「じゃあ次、移動教室だから」と由利は階段教室を出ていった。由利は文系で、俺は理系なので、選択科目の授業くらいでしか一緒にはならない。ああ、ノートを借り損ねたな、と思う。まあ、試験までは日があるから、それまでに借りよう。そんなことを思う俺は紛れもなくエゴの塊である人間なのだろう。
<第二話へ続く>
人間をやめさせられる人間(掌編連作) 覚夢理子 @rikoakiyume
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