第伍拾伍話 落日の玉座〈一〉
その日、陰陽国に次の年の初日の出が昇った。
新しい年を迎えた陰陽国は古くからの風習に従って月の初めから三日間、陰陽国はあらゆる行事に追われるが、それが終われば公卿たちは一時の休息を得ることができた。
普段から多忙を極める右大臣の
未だ年明けの余韻に浸り昼夜問わず宴会三昧の邸通りのある一角、異様なほど静まり返った邸こそが、界雷と友人の
「この酒はな、国司を勤める息子から届いた新年の祝いだ。アイツめ、滅多に家に顔を出さない癖に変なところで律儀な奴だ」
「息子が国司なのは初耳だな。どこに勤務なんだ?」
「東の
桔梗の言う通り、陰陽国が各地に常駐させている国司は、その業務内容よりも土地との相性が重要であり、東の
特に任地が決まって皆が皆顔を顰めるのが、北の
北の執明領は兎に角自然環境が悪く、雪という気象に慣れていない者は数日で根を上げ始める。おまけにその雪の影響でまともな作物が採れず、陰陽国に対する『納税』に関しても鉱物などしかない。故にその年が大雪続きだと採掘もできず、納税を巡って国司と領主の間でいざこざが起きるのだ。
南の陵光領は少し違った意味で面倒事があり、それは商人たちだ。漁業と商業が盛んな陵光領を支えるのは商人たちであるが、その商人たちはいい意味で“ケチ”であり守銭奴。そのせいで税をちょろまかしたり拒否したりする者が毎年必ず出る。それが原因で胃に穴が空いた国司も少なくない。
この二つの領地に着任しなかった桔梗の息子は、まさに運が良いとしか言えない、と界雷は薄く笑った。
「しかしお前の子か。やはりお前や
「いいや。アイツと蛍袋の母親は別だ、息子の母親はアイツを産んですぐ死んだ。アイツ自体は俺に一つも似ず、馬鹿がつくほど生真面目に育ったよ」
「ほぉ、お前の子にしては優秀だな。お前が今後兎君と外戚になって出世しても、心配はなさそうだ」
「いや問題はそこだ。アイツ、何故か
蛍袋を今の邸に引き取った時、まだ長男は邸に住んでいた。その後国司として任地に赴くまでの半年間を同じ屋根の下で暮らしたが、二人の仲は最悪だった。呑気で出世欲のない父を嫌悪する息子と、何かと父の世話を焼き慕う娘。今考えればまさに水と油であった、と桔梗は酒を煽りながら溜め息をついた。
「…なんとか会話ができるまで仲が修復してくれればいいんだがな。このままでは本当に蛍袋が双子を産んでも、宮中をうまく動かすことなど不可能だ」
「お前なりに考えてはいるのだな、安心した」
「そりゃそうさ。蛍袋の入内のこともあるが、例の噂も出回り始めてるのが気がかりでな…」
「……」
桔梗が懸念するのは兎君の世継ぎ問題だけでなく、今密かに陰陽国を騒がせている“噂話”についてである。
桔梗だけではなく、公卿たち全員が目を光らせ状況を伺う中、兎君への御目通りの叶わない下級官吏たちの間で出所のわからない噂が飛び交っていた。
『――本来
つまり、宮中では烏師である
「この前ついに、市中でこの噂話を耳にしたぞ。これでもまだ殿下たちに内密しておくのか?」
「…即位の儀が近い。余計な心配を掛けさせたくないだけだ」
市中にまで出回った噂だが、実は当事者である
界雷は既に“事情”を知っていたため、他の公卿には「即位の儀を控えた殿下に余計な心配をかけたくない」という名目でこの噂のことを二人の前で漏らさないよう厳しく念押ししていた。その甲斐あって、この噂話は後宮内部までは届いていなかった。
だが、決して噂への疑惑が消えたわけではない。
「…なぁ界雷。お前、何か俺に隠していることはないか?」
「何か、とは?」
「とぼけるなよ。噂が出回り始めてからお前の対処が早過ぎることや、噂に内容に関して何一つ動じた様子のなさ、全てが物語っているぞ」
「…自分ではよくわからんな」
「何年の付き合いだと思ってる。この俺に隠し事なんてできるわけないだろ」
いつの間にか空になった盃を膳の上に置いた桔梗が知らないふりをする界雷に詰め寄り、少し酩酊した顔をしながら真剣な眼差しを向けていたことに、界雷は今更ながら気づき些細な動揺を誤魔化すように飲んでるふりをして盃で口元を隠した。しかしそんな動揺すらも見落とすわけのない桔梗は更に追求する。
「年が明ける前、領主たちも集まった合議の場でも、
「それは…」
「これだけ怪しむ材料が揃っていてまだ、親友の俺にも隠しておくつもりか?」
桔梗の言う通り、年が明けてから赫夜の姿を御所で見かけることは激減した。少し前であれば事あるごとに御所の朔夜の御殿に入り浸っていたが、今ではその姿を見ることはなく、“継承の儀”の為という名目で
この理由についてもちろん
「…なぁ界雷、おまえ――――」
頑なに口を閉したままの界雷に桔梗が何かを言いかけた、その時。
ドタドタと慌ただしい足音と共に釣殿に滑り込んできた邸の下男が血相を変えて「失礼致します」と二人の前に頭を下げた。
「…なんだ、騒がしいぞ?」
「申し訳ございません! し、しかし御二方に急報がっ」
「急ぎの知らせだと?」
尋常ではない様子の下男を前にただ事ではないと察した界雷も盃を手放すと、下男は整わない呼吸のまま二人に内容を知らせる。
「…った、只今、東の
「東の…、
「面会の用件は?」
「そ、それが…」
突然言葉を濁す下男を桔梗が急かすと、青い顔で衝撃の内容を告げた。
「…孟章領国司を人質に烏兎殿下への疑惑の真偽を問いたい、と」
❖ ❖
時は、約五時間前に遡る
青龍一族の統治する東の地『
敷地内にはその土地の国司たちをまとめる
同期から敬遠される十々木だが、そんな彼に物怖じせず気安く話し掛ける同期の男が一人だけ。
「―――よぉお疲れさん、真面目くん」
「…こんばんわ、
「やだなぁ、お前さんが一人暇してると思って、態々“手土産”持って来てやったっていうのに」
そう言って同期――
「何が“手土産”だ。お前がただ飲みたかっただけだろう」
「あ、ばれた?」
「というか、お前確か奥方から禁酒令出されたんじゃなかったか?」
いいのか? と眉を顰めて訊く十々木に、檜はバツが悪そうに頰をかく。どうやら恐妻には内緒の酒宴らしい。もはやどうしようもない目の前の酒豪に十々木は再度溜め息をつくと、手に抱えた終わりかけの仕事を一瞥してから顎で目的地を指しながら告げた。
「…いいでしょう。私が仕事してる間、静かに晩酌ができるのなら歓迎しますよ」
夜勤の十々木が業務を行う場所は、屋敷の丁度真ん中辺りに位置する“御役所の間”であり、国司たちが昼間忙しなく業務をこなす場所である。きちんと並べられた文机には昼間であれば常に何人かが列を成して座っているが、深夜の今は誰一人いるわけもなく、しん、と静まり返った室内には十々木が紙を擦る音と、檜が酒を注ぐ音だけが響いていた。一口飲み干しては次を注ぐのを何回か繰り返した後、ちょうどいい具合にほろ酔い気分になってきたところで黙々と書を綴る十々木に陽気に絡み始めた。
「…なぁお前さん、嫁は迎えんのか? もういい年だろう」
「考えてなくもないが…、今はいい」
「そうなのか。俺なんて両親から急かされたくらいだぞ。本音を言えばもう少し遊んでいたかったがな」
最早お察しの通りだが、檜は同期では珍しくない程の遊び人で、国司に就く前は故郷の陰陽国で数多な女性達と浮名を流した。そんな息子を大人しくさせるにはきっとこの方法しかなかったのだろう、と顔も知らない彼の両親に十々木は密かに同情した。
かく言う十々木だが、彼が結婚しないのにはある理由があった。
「お前の場合結婚は早くてよかったかもしれないが、私は“とある人物”を目標にしていて、その人に倣って結婚は保留にしているんだ」
「ほぉその人物とは?」
「お前もよく知っている、右大臣の
父の旧友である界雷のことを十々木は勿論知っていた。基本出世欲がなくのらりくらりとした父とは馬が合わず、その父の友人でありながら真逆の性格をした界雷に、十々木は密かに憧れていた。
「界雷殿も若き頃は勉学や仕事に精を出し、奥方を迎えたのは少し歳をとってから。それに倣って私も今は仕事一筋でいきたいんだ」
「はぁそうかい。俺にはできない生き方だな」
真面目一辺倒で面白みのない十々木が目を輝かせて力説する姿を横目に酒を煽る檜だが、ある事を思い出す。
「そういやぁ、お前の妹がめでたく入内したらしいじゃないか。そうなると益々出世の道が開かれるな」
「…あいつは関係ない。例えあいつが兎君の御子を産んだとしても、私は私自身の力で出世する」
「相変わらず仲悪いのなぁ」
十々木が今や有名な
明らかに機嫌が急降下した十々木に檜は酒と一緒に溜め息を飲み込むと、空になった盃を降りながら半分以上減った酒瓶に手を伸ばす。
が、その指先が酒瓶に触れることはなかった。
静寂に満ちているはずの屋敷に響いた無数の足音と、野太い絶叫。それは二人のみならず屋敷の中全員を叩き起こすには十分過ぎる騒音だった。
明らかに只事ではない空気を察した十々木と檜は瞬時に立ち上がると屋敷の奥、
「十々木、檜、一体何事だ?」
「はい、詳しくは分かりませんが、恐らく正面玄関が破られ複数人の“賊”の侵入を許したのかと」
「“賊”の姿を見た者は?」
「いえ。私ども二人異変を察知してすぐにここへ参上致しましたので」
未だ正体の知れない敵の存在は確実に三人のいる奥まで近づいてきており、ここの責任者である
「檜、お前は
「「はい」」
小鳥遊の指示を受け動き出そうとした二人。
しかしその行く手はいつの間にか背後に迫っていた群勢によって阻まれてしまった。二人の背後を取り囲んだのは帯刀した剣士たち。その装いに、小鳥遊は勿論その場にいる全員が既視感を覚えた。
「…その身なり、ただの賊ではないな。剣士…、いや、武官か?」
「―――えぇその通りです。流石ですね、
敵の正体を探る小鳥遊に正解を告げたのは、群衆を掻き分けて現れた、不自然な黒装束の青年。頭のてっぺんからつま先まで真っ黒に染め上げられたまるで影のような見た目の姿に、小鳥遊は微かに見覚えがあった。
「お前は…、確か
「はい。挨拶するのは初めてですね、私は
以後お見知りおきを、と覆面の下で恐らく微笑む好意的な青年に反し、後ろに控えた武官たちからは敵意にも似た鋭い視線が三人に刺さる。そして疑惑は確信に変わってしまったことに、小鳥遊は動揺を隠せなかった。青帝お抱えの術者が引き連れてきたということは、この武器を持った敵は『青龍軍』であると物語っていた。
夜襲ともとれる現状に小鳥遊は平静を保ちつつ弓月に用向きを尋ねた。
「その術者殿が、こんな夜分遅くに如何様か?」
「確かに夜分遅くに申し訳ないとは思ったのですが、なにせ我らが殿の命ですので仕方なく、このようなお時間に押し掛けさせていただきました」
まったく申し訳なさそうにしていない口調で弓月は事の発端が自身の主人にあることを告げた。青帝の命令であることが知れ言葉を慎重に選ぶ小鳥遊に、弓月は続けた。
「さて、突然ですが皆様は今この時をもって、我ら“青龍”の人質となってもらいます」
「っ?!」
「抵抗はなさらぬよう。さもなくば…、小鳥遊殿の大切な人達の首が宙に舞うことになります」
人質という言葉を聞き身構えた小鳥遊の心を即座に読んだ弓月は、彼の後ろの奥へと続く襖を一瞥しながら彼を脅した。既に妻子を人質にとられているも同然の小鳥遊が動けない今、十々木と檜も動くことはできなかった。諦めて両手を掲げる小鳥遊は、最後にもう一つ弓月に尋ねた。
「…この人質の目的と解放条件はなんだ?」
「…烏兎の誠意、ですかね。強いて言うのであれば」
「誠意?」
「今、我らが殿が単身で陰陽国へ向かっています。そして殿は烏兎に“噂の真意”を求めるでしょう。そこに忠義に値する誠意があれば、あなた方は解放され、我らが殿は責任をとって腹を切るでしょう。しかし、そこに誠意がない場合―――」
「無い場合…は?」
「―――残念ながら、あなた方に明日はございません」
感情の抜けた無の表情で告げられた命の二択に、檜は先程まで酒で潤っていた喉が渇いていくのを感じることしかできなかった。
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