第伍拾肆話 歪む太陽 不忠の誘い〈六〉
めでたく入内した
その人物とは、次の兎君である
その名も――、
兎君の寵愛を受けていると言っても過言ではない待遇の梅枝だが、彼女と朔夜との間には男女の情など一切なく、実際は姉弟のようであった。それでもその関係をうまく利用して左大臣としての権威を振るっているのが、今彼女の目の前にいる、義兄――
事前に文を受け取っていた梅枝が待っていたと言わんばかりに御簾の向こうに鎮座しており、冬牙がその前に腰を下ろすと性急に用件を求めた。
「…で、何用でしょうか。生憎こちらも忙しい身故に手短にお願いいたします、
「何が“忙しい”だ。最近では殿下の寵愛も薄れて、蛍袋殿に取って代わられているらしいじゃないか」
「…」
「これではお前を出仕させた意味がない。蛍袋殿に先に子ができれば右大臣である
左大臣の位にある冬牙にとって、一番の対等な
そんな彼を追い越すことを夢見ながら、冬牙は蛍袋の腹から生まれた子を悔しそうに見つめる
その様子を眺めながら、梅枝は心底どうでもいいと言いたげな溜め息をつく。
「知りませんよ、そんなこと。大体出仕することを決めたのは、他ならない私自身です。それを貴方からの提案だと嘘をついたのも私。貴方の思い通りになったことも、なるつもりもありません」
「っ…」
梅枝の言葉はすべて真実だった。
彼女は出仕する前、父親が不明の一人息子を産んだ。それを両親は恥じて手放すよう進言したが、梅枝は強く拒否した。だが両親の援助なく子供と自分を食べさせていくことなど出来ず、彼女はやむを得ず“ある提案”を密かに冬牙に持ち掛けた。それは、子供を冬牙たち妹夫婦に任せる代わりに、後宮に出仕して御所の奥のあらゆる噂を彼に伝えるという役目を担う、というもの。左大臣である冬牙だが、唯一手の回しようのない場所が後宮であり、双子の外戚とはいえ後宮に送り込める娘などいるはずもない冬牙は、はっきり言って分家の
後宮の噂も馬鹿にはならないと知っている冬牙にとって、梅枝の提案は魅力的だった。そして思案の結果、彼はその提案を呑み、
故に冬牙はその実、梅枝に頭が上がらないのだ。
「…まぁいい。本題に入ろう」
「どうぞ」
「率直に聞く。梅枝、最近“殿下”に変わったことは?」
「さっきも仰っていたとおり、最近は
「そっちではない。
「赫夜さま…ですか? いえ、あまりお会いする機会がないので何とも…」
冬牙の用件が予想外のものだったことに思わず呆気にとられた梅枝だったが、そのまま続く冬牙の言葉にただ事ではないことを察した。
「では、朔夜殿下や赫夜殿下の
「そう…ですね、言われてみれば最近、朔夜殿下と赫夜殿下がお二人でいらっしゃるところを見たことがないかもしれないです。基本的に一緒におられることが多いのですが、特に朔夜殿下の方が赫夜殿下を意図的に避けているような…――」
「――…それと、乳母の
思い返せば確かに違和感があったと感じた梅枝の反応に、やはりな、と何かを確信した様子で更に御簾ににじり寄り、梅枝にしか聞こえないような小声で“ある質問”を投げた。
「…――梅枝お前は、赫夜殿下が実は男児だったとしたら、どう思う?」
「……はい?」
何を聞かれているのか瞬時に理解できなかった梅枝が怪訝な顔で聞き返すと、この質問をするに至った経緯を冬牙は語った。それは後宮の外、公卿や他の宮仕えたちの間で爆発的に広まっている“ある噂”が一因だった。
「実は数日前の合議以来、誰が発端か知らないが“ある噂”が宮中で広まり始めてな。今あれこれと根拠のない憶測が飛び交っているところだ」
「その“噂”というのは?」
「…本来
驚きで言葉を失う梅枝に、何故このような噂が立ち始めたのか、ことの発端を話し出す。
始まりは領主四人を交えた合議でのこと。久しく人前に姿を現し言葉を発した赫夜だったが、それを聞いた領主たちの顔色は明らかに動揺の色を示していた。まず違和感を覚えたのは、声色である。元々女児にしては少し低い声色だった赫夜だが、歳を重ねる毎に母親に似た美しい声に変わるだろう、と全員が思っていた。だが、久々に聞いた赫夜の声は高くなるどころか、寧ろ低さが際立ち始めており少し濁っても聞こえた。それは男児であれば一度は経験する“声変わり”の兆候によく似ていた。
「それだけを根拠に噂が流れたというの?」
「いや勿論よくよく思い返せば、身体つきの変化もあっただろうが、問題はそこじゃない」
「では何をそんなに懸念しているのですか?」
「…この噂が、陰陽国の外に流れることが一番まずい」
冬牙や他の公卿たちにとって、噂の出どころやましてやその真偽に関しては二の次であり、彼らの懸念する先にあるのはこの不安定な噂話が、陰陽国の外、つまりは領主たちの治める各地に流出することである。
「噂が出回れば領民たちは当然、烏兎一族に対して疑念を抱くようになる。そして最後にはこれを耳にした領主たちの忠誠心すらも揺るがすかもしれない」
「…仮にもしこの噂が事実だった場合、領主たちは自分たちを謀った烏兎、果ては陰陽国に敵意を向けてくるかもしれない。そういうことですね?」
「あぁ。それは最悪の状況だからなんとしても避けたい」
「…わかりました。噂の真偽のついて、あとこの噂が後宮に出回らぬよう、尽力させていただきます」
自分のすべきことを理解した察しの良い梅枝に冬牙はこの日ばかりは素直に「ありがとう」と頭を下げた。だが梅枝の早急な行動の原意は、目の前にはなかった。
「…いえ、感謝される謂れはありません。私はただ、あの子の将来のために尽力するだけですから」
梅枝が指す“この子”とは、勿論彼女の最愛の息子である“
「…会いには、来ないのか? 柊もお前を恋しがって
「…」
「会いたくないというのなら、せめてお前が実母であることだけでも明かさないか? 残念だがお前の妹は柊に母親らしいことを一切していない。そのせいで随分と惨めな思いをしていると、最近感じるんだ」
冬牙の言葉から形成される置いていった袿をまるで宝物のように抱き締める幼い柊の姿を想像しながらも、ふと視線を落とした梅枝の返答は冷淡なものだった。
「…いいえ。私は今後一切、あの子に会うつもりはありません。あの子は貴方の息子として、立派に育て上げてください」
「っそれが産みの母としての言葉か!? お前に
「……いえ、あの子は私の人生の中で唯一の、かけがえのない宝物です。でも同時に、あの子は私たち二人の過ちでもあります」
御簾の中で梅枝の脳裏を巡るのは、あの日、雷鳴の轟く夜の事。降り頻る雨が屋根を休みなく叩く音と、時折響く雷鳴、それを梅枝は今でも鮮明に憶えている。
「私が御簾の隙間から貴方の裾先を摘んだのも。貴方が私の拙い誘いに乗ったのも。縋る貴方の体温を私が拒まなかったのも。そのすべて、私たち二人の“罪”です。だから私は“罰”を受けた。もうあの子に二度と会わないという罰を」
そう語る梅枝の指先にはあの日伸ばして掴んだ裾先の布の感触が残留している。あの日も今日と同じ
梅枝にとって、あれは“罪”そのものであると同時に、ただ唯一の幸せな空間だった。それを同時に噛み締めながら、梅枝はもう一度告げる。
「私は今後一切、あの子と会うことはありません。貴方の息子として立派に育て上げて、あの子が御所に出仕できるようになったら、会うことを考えます」
頑なに意見を曲げない梅枝の態度に「わかった」と一言了承した冬牙は、用件を済ませて
❖ ❖
冬牙の危惧する暗雲は、知らぬ間に刻一刻と東の地へと流れていっていた。
時同じくして、『
青龍城の内部は、年明けを控えた時期とは違った理由で人々がざわめいていた。奥座敷と表座敷を行き来する女中たちは数知れず、領主を支える家老らも各々の業務とはまた別に割り振られた雑務に追われ日ごとに眉間を皺を増やしていた。
城内がこれほどまでに騒々しいのには理由がある。それは、奥座敷で療養中の先代領主“
だが今ではそんなことできる筈もなく、それどころか布団から起き上がる事も、一人で立ち上がることすらも困難となっている。そして特に深刻だったのは、彼の患っている『奇病』の症状。ある日を境に
そんな見たこともない症状に城の医者も町医者も首を傾げるばかりで、明確な治療法もないまま青山は今もなお、奇病の症状に苦しんでいる。
それを
苦しむ父に何も出来ないもどかしさを振り払うように、青林は城内の道場で一人木刀を振っている。政務も領主自ら手を出すものは殆どなく、残りの細々とした残務は老中たちが片付けている。そして青林が最も信頼を寄せる大老の“
一人孤独に残された青林に出来ることといえば、鍛錬くらいしかなったのだ。青林が力強く木刀を振り風を切る音だけが響く静かな道場に、招かれざる“影のような人物”が現れた。
「――おや、こちらにおられましたか」
「お前は…、
捜しましたよ、と言いながら現れたのは青山が入城を許し重宝している法術使いの“
「“捜していた”? どうかしたのか」
「いやね、本当はご隠居様にお伝えするべきなのですが、今あの通りでしょう? だから代わりに青林様を捜してたんですよ」
隠居とはつまり青山のことであり、自分ではなく本来は父に用があったと知るや否や、青林の表情は途端に曇った。父の代理として捜されていたことは不服だったが、そんな不満を飲み込んで代わりに話を聞いた。
「…はぁ、一体なんの話があるんだ?」
「いやぁ、驚かないでくださいね?」
「あぁ」
「絶対ですよ?」
「くどい」
「んー、と、ですね」
黙って静聴する青林だったが、何故だか渋った様子の弓月に少し苛立ちを覚えながらも彼が話し出すのをひたすら待った。そしてようやく腹が決まった弓月は、青林が予想もしていなかった事を語り出す。
「実は、青林様が今年最後の合議に行ってらっしゃる間に、下りてきたんですよ“占い”」
「ほぉ?」
「内容が少し前に起こった“柱の異変”についてのもので、この占いが正しければ恐らく、一連の異変の原因を突き止めたことになります」
「な、なんだと?!」
弓月が唐突にもたらした情報は、青林が合議の際に
「一体何が原因だったんだ!? あれほど調査しても何も出てこず、頼みの綱だった赫夜様にさえ触れるなと厳命されたというのに!」
「まぁ落ち着いてください。一から順番にちゃんと説明しますよ」
焦燥感に駆られる青林を道場の中央に座らせ落ち着かせた弓月は、この話を誰にも聞き耳立てられぬよう厳重に道場の扉を閉めると、青林に向かい合う形で腰を下ろした。そして態とらしい咳払いを一つして、話を始める。
「まず始めに、領内の村で起こった通称“蘇り事件”と他領でも目撃されている“奇病”、この二つには間違いなく、“龍神”の力が関わっています」
「…かつて我ら四人の領主と烏兎の双子とで封印した悪神か? あれは陰陽国の地下深くに厳重に封じられているはずだ」
「勿論、“本体”はそうでしょう。しかし考えてみてください、龍神といえばこの土地を丸ごと抱え込めるほどの大蛇の如き姿。そんな大きなものが陰陽国の地下なんぞに全て収まるわけがありません」
言われてみれば、と青林は納得して頷く。
「だから僕は考えたんですよ。頭部は陰陽国に眠っているが、収まりきらない“身体”はこの地の地下にとぐろを巻いて封印されているのではないか、と」
「…なるほど。その“身体”が動けなくする為の、“柱”ということか」
「はい、飲み込みが早くて助かります。ですから、“柱”に異変があればそこから龍神の力が漏れ出て、人体に害を及ぼすのではないでしょうか」
その仮説に辿り着いた弓月曰く、死んだ人間が蘇ったことは直接的に龍神の“気”に触れたことによって起きたことであり、今青山が苦しめられている“奇病”はまさに龍神が関係していることを明確に現しているとのことだった。
「…青林様はご存知ですか? あの“奇病”に罹った者の成れの果てを」
「成れの、果て?」
「今は尋常ではない量の水を欲しがっていますが、あれは龍神が力を得る為に青山様の身体を通じて命の源である“水”を得ている証拠です。そして龍神が満足した頃、それまで渇いていた肌は龍神の霊気を含んだ多量の水のせいで膨れ上がり、最期にはまるで水死体のようになって息絶えます」
弓月の口から語られるいずれ訪れる父の姿を想像し、青林は顔色を真っ青にすると吐き気を催す口を抑えた。しかしそんなことは聞いたとこがなく、青林は慌てて反論する。
「そ、そんな報告は受けていないぞ。何かの聞き間違いでは…」
「残念ながら真実です。青林様が留守の間、町で聞き込みをしてきたのですが、北の“
弓月は普段から護衛も付けず城の外に出る事が多く、その間彼が何をしているのかは誰も知らない。また勝手に抜け出したことに苦言を呈するべき青林だったが、彼の齎した情報は決して無視できるものではなかった。
「…まさか、龍神が復活するなんてことは」
「それはないと思います。“柱”が揺らいだのはこの孟章領だけですので、頭が解放されない限り動き出すことはありません」
「だが僅かな揺らぎでここまで人体に被害を出すとは。やはり原因を絶たねばならぬか」
事の深刻さに青林がついに決意を固めたのを確信すると、弓月は微かに口角を吊り上げ、遂にその口から『原因』について語り出す。
「ここまで話しまして、さて次は青林様お待ちかねの今回の異変の『原因』について語らせていただきます」
「頼む」
「…そもそも“柱”による広範囲の封印を支えているのは、言わずもがな陰陽国の祖である“
「そこである“仮説”に辿り着きました。問題があるのは『烏師の力』ではなく、烏師自身なのではないか、と」
饒舌に語る弓月の言わんとしていることが見えてこず、青林は少し首を傾げる。
「と、言うと?」
「…青林様、落ち着いて聞いてください。もしかしたら
「“烏師の資格”?」
「…端的に申し上げれば、赫夜様はもしかしたら男児なのではないでしょうか」
突拍子もないとはまさにこの事。弓月の憶測に青林は目の丸くして暫しの間固まった後、全力で否定した。
「い、いやいや。それはないだろう! 仮にそうだとして、そんな重大な事、赫夜様お一人で隠し通すなんてとても…」
「勿論協力者がいるとも考えてます。初めに候補に挙がるのは、
怪訝な顔の青林に、弓月は更に協力者の候補の名前を挙げる。
「そしてもう一人重要な人物が老齢の烏師、
「後は憶測の域を出ませんが、右大臣の
「この仮説が正しければ、全ての辻褄が合います。この一連の異変の原因は、赫夜様が皇子であるが故に烏師の術の効力が弱まり、龍神が目覚めようとしている兆候なのです」
すらすらと並べられた協力者たちの名前に青林は唖然としながらも、未だその仮説を強く否定し続けた。
「い、いや、しかし、流石にそれは突拍子もないと言うか…。仮説の域を出ないだろう」
「…青林様。それにしては随分と歯切れが悪いですね。何か心当たりでもあるのでは?」
鋭い弓月の指摘に表情を強張らせた青林の脳裏には、数日前の合議での“違和感”が淀めいていた。
玉座に着いたと同時に放たれた赫夜の一言の衝撃は他の領主たちの表情をも曇らせる程、年頃の少女にしては低く、心なしか掠れていた。しかしそれだけならばもしかしたら風邪にでも罹ったのか、と思うところだが、青林はもう一つ“ある事”に気づいていた。それは、“手” だ。“成人の儀”を行う前、赫夜の手を一度だけ見た事があったが、色白で丸い爪の細長い指をしていた。だが今回の合議で青林がちらりと目撃した赫夜の手は、少し太さを増しており何より節が太くなっていると直感的に感じていた。未だ憶測の域を出ないものの、青林はあの手の形を見て“男性感”を感じずにはいられなかったのが本心であった。
核心を持って否定できない青林の心を更に揺さぶるように、弓月は立ち上がると目の前に座り、徐に汗ばんだ青林の手を握った。
「ゆ、弓月…?」
「青林様。これはもはや一刻の猶予もない案件なのです。この仮説が合っていた場合、恐らく男児である赫夜様に龍神の封印を維持することは不可能。そうなれば
弓月に指摘され真っ先に頭の中を過ったのは、旧知の友である南の“
「それに…、早くなさらないと御隠居までも」
「っちち、うえ…」
そして目下、青林がその身を案じる唯一無二の敬愛する父、
青林の中で左右に揺らぎ続ける
そして、選択に迷う青林に弓月は最後の一言を告げる。
「――青林様、どちらを守るか選んでください。先祖たちから続く固く揺るがない忠義の
「しかし…」
「…この数年、忠義に背かずただひたすらに陰陽国を守り続けた貴方に嘘をつき続けたのは、紛れもなく貴方が敬愛した、先代の
“
その名を聞いた青林の脳裏に浮かんだのは、彼女が存命の頃幼い双子の事を託された時の姿。烏師でありながら兎君としての責務も全うした彼女へ向けた敬愛は、信頼として自分に返ってきた。
そう、思っていた。
青林は、決断した。
「…………わたしは、―――」
そして、天秤はカタン、と片方に傾いた。
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