第伍拾弍話 歪む太陽 不忠の誘い〈四〉



 その異変に気づいたのは、赫夜カグヤが珍しく吐き戻し、二日間寝込んだ後のことである。


 今まで赫夜は風邪を引いたことが殆どない。引いたとしても症状が軽かったりするので、実際に引いたことのある回数は片手の指の一、二本で足りる。それよりも片割れである朔夜サクヤの方が、幼い頃から何かと病弱な体質だった。その要因の一つとして挙げられるのが、毒殺だ。

 当初、先代烏師――十六夜イザヨイから無事に烏兎の継承者が生まれたことを喜ぶ声の方が多かったが、その中にひっそりと“批判的な声”があったことも事実。本来未婚であり続けるはずの烏師の出産に否定的な意見を持つ公卿らも多く、二人の誕生を祝う中でその命を軽蔑視する者もいたのだ。そんな声を誰よりも高らかに上げたのは、今は亡き人となった分家の“落陽ラクヨウ”その人である。彼はのちに世にも有名な『中納言事件』を引き起こすわけだが、そんな彼に賛同する者がこの時から少なからず存在した。

 そんな落陽信者の一人が短慮で起こした毒殺未遂は約十六件、その内朔夜自身が口にした毒は十三杯である。残りは毒味役が服毒したり、配膳の際に零したりと、幸運にも服毒を回避したもの。しかしそれだけの毒は幼い朔夜の身体を確実に蝕み、六歳になるまで朔夜は床に臥せている時間の方が多かった。


 その姿はまるで今にも弱々しく消えてしまいそうな父――樹雨キサメを連想させられ、幼心にも焦燥したことを赫夜は今でも憶えている。

 今ではそんな面影すら感じさせない朔夜は、あらゆる毒をその身に受けたおかげか、一度でも服毒したことのないものであれば“味”だけでなく“匂い”だけで感じ取ることができる、唯一の特技を手に入れた。元気いっぱい過ぎる朔夜の姿を思い出しては小さく吹き出したことで、赫夜は少し元気を取り戻した。

 一人布団の上で思い出し笑いをする赫夜のもとに、薬湯を持って現れた乳母の揺籃ヨウランが驚きながらも安堵した表情を浮かべた。


「…もう起きて大丈夫そうですね、赫夜様」

「まあね。随分寝てしまったし、そろそろ“継承の儀”を再開しないと、夕餉を食べ損ねそうだ」

「夕餉…。いえ、今は早朝ですのでもう少しでの準備が終わる頃ですよ」

…? 揺籃、僕は一体どれくらい眠ってたんだ?!」

「丸二日です。ですので、予定を大幅に変更しませんと、年明け前の領主たちを交えた会合に間に合いません」


 赫夜の記憶が正しければ、二日前に御所で出た時点でその五日後には領主たちを呼んでの『会合』だった予定である。本来であれば、眠っていた二日間で今回するはずだった“継承の儀”を済ませるはこびだった。しかしその予定は大幅に狂っていたことを今思い知らされた。

 ようやく自分がどれだけ寝過ごしたのか理解した赫夜はゆっくりと寝惚け眼を見開かせると、覚醒したばかりの頭に動け、と強く命じた。そうして飛び起きた赫夜は揺籃の持つ薬湯を一気に飲み干して身支度の準備を急かした。


「揺籃、今すぐ御所に戻るよ! 早く準備して」

「は、はい、かしこまりました」


 赫夜に急かされ着替えの用意を取りに行こうとした揺籃が襖を開けようとした、その時。


「―――揺籃殿、赫夜様の朝餉のことなんですが……」

「っ貴方は」


 揺籃より先に襖を開けたのは、彼女に用があった神官の若紫ワカムラサキだった。ばったりと鉢合わせてしまった揺籃だが、今気にするべきは目の前の青年の存在ではなく、自身の後ろにいるであろう、赫夜の存在だ。赫夜は迅速に身支度を整える、と揺籃に告げた。つまり今までの経験上、そう告げた赫夜が最初に取るであろう行動は一つ。

 揺籃の目の前である一点を見つめたまま微動だにしない若紫の視線を辿るように、恐る恐る振り返った先には、既に小袖の前を開いて手拭いで身体を拭おうとしている赫夜の姿があった。赫夜は起きてすぐに必ず、寝汗を拭くという習慣がある。今日もそうしようとしたのが、逆に仇となった。

 本来であれば、女である烏師の半裸を見てしまった際、神官たちは慌てて視線を逸らすもの。しかし赫夜の胸元にの存在を認知できない若紫は、見た通り混乱のあまり硬直していた。そんな若紫の腕を掴むと、揺籃は彼を部屋の外へと引っ張り出した。


「っ!?」

「えっ、あ、え、え、っいいえ!!」


 物凄い剣幕の揺籃に壁際で攻め立てられ、少々混乱気味ながらも若紫は必死に首を横に振って否定した。まだ状況が理解できない頭だったが、これだけは理解できた。“” と。

 否定を続ける若紫に未だ疑惑は消えなかったが、ここに時間を割く余裕はない。その為、揺籃は一言若紫に忠告してその場を解放した。


「……もし、何か手違いで見てしまったのだとしたら、。それが貴方と、貴方の家族の為よ」

「は、はい……」

「なら、もう行きなさい。あと、赫夜様の朝餉はいらないわ」


 揺籃に掴まれていた腕を解放された若紫は恐怖で青褪めた顔を浮かべながら、その場から足早に去って行った。時折足を縺れさせながら去って行く背中を見送った揺籃は、部屋の中に残してきた赫夜のことが心配になって襖を開けた。するとそこには外には聞こえないほど小さな音で咳をする赫夜の姿があり、慌てて駆け寄って背中を摩った。


「赫夜様! いかが致しました?」

「…っけほ。だ、だい゛じょ、ぶ」

「! 赫夜様、そのお声はっ」

「っついに、きたかな゛、


 それは、成長期の男児ならば必ず訪れる、『声変わり』の前兆だった。



 ❖ ❖



 今の后土殿こうどでんの中では割と新参者扱いされているカオルは、今日も今日とて先輩の神官から押し付けられた雑用にうんざりしていた。

 烏師に仕える神官は皆“平等”などと表向きには謳っているが、実際はまったくの真逆だった。烏師に仕える神官たちのその多くは陰陽国の貴族の子息たちだ。跡取りになれない次男から下の子供たちが主で、一見して厄介払いのように神官勤めをさせられているように見えるが、その実は少しでも烏師と接点を持とうとする実家の下心によるものが多々。そんな親の目論見を知りつつも、家柄を笠に着て鼻につく態度ばかりを振り撒く先輩の神官たちは、薫のような一般的な家柄の後輩たちを何かとこき使った。

 薫の実家は名家、とはとても言えないが、烏師に対して誰よりも信心深い家だった。家の跡取りは必ず子供を二人以上もうけ、その内の一人は幼い時に神官として后土殿に預けられる。薫もその子供たちの一人であり、上には歳の離れた兄がいる。家を継ぐことが決まった兄のことを羨ましく思ったことはないが、神官となる自分に両親が真剣に言い聞かせてきた“使命”を思い出せば、家にいた方がマシだと思わせてくる。

 そんな両親からの“重責”と、嫌味な先輩達からの雑用で苛立ちが最高潮に達しつつあった薫は、その鬱憤を全て込めて雑巾を絞った。


「あーもうっ! 部屋の掃除くらい自分でしろっての!」


 水気を絞り切った雑巾を手に床を拭く薫の今日の雑用は、その嫌味な先輩達の部屋の掃除。年中安定した気候の陰陽国だが、多少の温度変化は感じられ、この時期の雑巾掛けは何より堪える。

 赤くなった指先に息を吹きかけながら、薫は一人の友人の顔を思い浮かべる。彼は自分と同時期に神官になったが、仲良くなり始めたのはここ最近のこと。あまりべらべらとお喋りする性格ではない薫が唯一友人と呼べるその人物が傍らにいるようになったからは、先輩達も下手に雑用を押し付けられなくなっていた。何故ならその友人というのが、この陰陽国において公卿の最高位に座る男が推薦した人物だからである。本人はあまり気にした様子はないが、下手に刺激して実家に圧力があると困る、と彼等は思ったのだろう。そんな無力ながら絶大な味方である友人の事を思い出していると、ちょうど良くその友人が薫を探して部屋に飛び込んできた。


「ここにいたのか薫!!」

「なんだい。朝から随分と騒がしいじゃないか、若紫ワカムラサキ

「なんでこんなわかりにくいとこにいるんだよ?! お陰でもう昼になりそうだ!」

「仕方ないだろ。本当なら赫夜様の身の回りの世話をするはずだったのに、予定が狂って早々に御所へお帰りになったんだから。この気に掃除しとけって、ここの部屋の主が煩いんだ」


 若紫の言う通り本来であれば、今日はようやく目覚めた赫夜の身の回りの事を行う専門神官に任命されていたが、実は肝心の赫夜がまつりごとの為に朝早く足早に御所へ帰ったしまったのだ。それが今から半刻はんとき(一時間)前の出来事であり、一気に暇になってしまったところに、運悪く例の神官と出くわしてしまったというわけだ。

 事のあらましを丁寧に説明しながら手を休める口実をつくる抜け目ない薫だが、目の前の若紫の顔が異常な程青褪めていることに気づいたのはつい今さっき。


「…どうしたの、そんな顔して。もしかして何か失敗して怒られたんじゃないでしょうね?」

「…丁度いい。ここの奴、まだ帰って来ないんだよな」

「多分。炊事場の手伝いという名の“つまみ食い”だろうし」


 部屋の主が暫く帰って来ないことを確信した若紫は、部屋の周囲に人の気配がないことを確認すると後ろ手に扉を閉めた。不自然に緊張した様子の若紫に疑問符を浮かべていると、震える声で自分が半刻前に目撃した“もの”について語り出した。


「…な、なぁ。薫はさ、赫夜様こと、どう思う?」

「どうって…。まぁ今はただの我儘お姫様だけど、いずれは立派な烏師になってくれたら嬉しいな、て思ってるよ」


 それがどうかしたのか、と薫が尋ねれば、若紫は青い顔のまま“あの光景”を思い出す。


「……も、もしさ、仮にさ、その赫夜様が、、どう思う?」

「………は」


 若紫からの予想外過ぎる問いかけに、薫は開いた口が塞がらなかった。一体誰が、この質問を想像出来ただろうか。ただの与太話だ、と笑い飛ばしてやりたかったが、目の前の若紫の顔があまりにも真剣な為それは出来なかった。

 代わりに少し間を置いた後、若紫から顔を背け手に持った雑巾で床を拭きながら鼻で笑った。


「…何を馬鹿なことを言ってるんだ。それじゃあ何か? 私達は赫夜様と十五夜イサヨ様に騙されてるってこと? あり得ないでしょ」


 意を決して告げたにも関わらず、それを相手に一蹴された若紫はキッと眉尻を持ち上げると強めの語気で目にしたもの全てを語った。


「は、はぁ?! 俺が嘘付いてるって言いたいのか? そんなわけないだろ、しっかりこの目で見たんだからな!」

「へぇ、何を?」

「だからっ、赫夜様の“身体”をだよ!」

「えぇ? お前赫夜様の着替えを覗いたの? 最低」

「違うって! 偶々用があって行ったら見えちまったんだ! 不可抗力だよっ」

「で? その赫夜様のお身体が、“男”だったと?」

「さっきからそう言ってるだろ!?」


 必死に信じて貰おうと声を荒げる若紫だったが、その必死さ故に気づいていなかった。


 


「――ねぇ、その事他には誰に話した?」

「? いや、まだ誰にも話してないぞ」

「そう。、ね」

「は――――」


 会話の意図が掴めない若紫が呆然と立ち尽くしていると、いつの間にか薫は目の前まで迫ってきていた。身長差のある薫を訝しげに見下ろしていると、不意に首元を

 ヒュン、と空気を切り裂くような風の音。その正体を探る間もなく、次の瞬間には若紫の首から噴水のように鮮血が吹き出した。吹き出した血が容赦なく顔に跳ねるのも気に留めず、薫は目の前で惚けた顔のまま崩れるように倒れる若紫を見守った。

 何が起こったのかわからない若紫は血が吹き出して燃えるように熱くなっている首元そこを反射的に両手で押さえると、視線だけを薫に寄越した。そして、見下ろす視点になってようやく気づいた。


 


 その銀の刀身には若紫の首を斬った時の僅かな血液が付着しており、それが凶器であることは明白だった。喉に血の溜まった状態で若紫は、率直な疑問を無表情の薫に投げかけた。


「ど、どぅ…し…て…?」


 当然の疑問に、薫は意外にもあっさりと答えた。


「そりゃ、あれだよ。赫夜様の秘密を話されたら困るし」


 あっけらかんと答えた薫は刃に付着した微量の血液を袖の裏地で拭いながら、若紫が力尽きるのを気長に待つ。その手慣れた様子に、若紫は今まで自分の中で培われてきた薫の人物像が音を立てて崩れ落ちていくのに絶望した。“口は悪いが面倒見の良い奴”という仮面が剥がれた薫の容貌は、もはや別人だった。


「ぉ…まぇも、だ、まし…て…」

「“騙した”なんて人聞きの悪い。私達は“守ってるの”。

「………っ?」


 それはどういう意味だ。その言葉を問いかけようとした若紫はそれを紡げないまま、ゆっくりと息絶えた。光を失った二つの硝子玉を瞼で覆い隠していると、運が良いのか悪いのか、若紫が閉じた襖が大きく開かれそこに立っていた人物は血溜まりに倒れた若紫とその傍らの薫を無言で凝視する。普通であれば取り乱す状況で、薫は安堵した表情でその人物に告げた。


「――丁度良かった。偽装工作手伝ってくれない、鈴虫スズムシ?」

「……なにこれ」



 ❖ ❖



「――だからね、仕方なかったんだよ。見ちゃったって、軽々しく私に報告してきたんだよ? こんな口が軽い奴、野放しにはできないでしょ」

「そりゃあ悪いと思ってるよ。短い間だったけど、十数年は同じ釜の飯を食べた仲だし。でもさぁ―――」


「わかったからその煩い口を今すぐ閉じろ。でないと、この“遺書”にお前が殺しましたって書いてやるからな」

「…はぁい」


 はぁ、と大きな溜め息と共に喧しい口を閉じた薫だったが、正直溜め息をつきたいのは鈴虫スズムシの方だった。とんだ尻拭いに巻き込まれたものだ、と内心愚痴りながら目の前に置かれた紙に筆先を滑らせる。

 しかしどうやら、薫はほんの一瞬ですら黙っていることは出来ないようで、次は自分の発想について誇らしげに語り出した。


「でもさ、我ながら良い案だと思わない? この部屋の持ち主に懸想した薫が苦悩の末、その相手の部屋で自殺、なんて」

「少々突拍子がなさ過ぎるような気もするけどな」

「そんなことないよ。この部屋の“糞女”、顔だけは良いから片想いしててもおかしくない。加えて若紫は随分な奥手野郎だし、役者は揃ってるよ」


 実際には若紫を殺したのは彼の死体を椅子代わりにする女――カオルだが、殺人であることを偽装する為に、“若紫は自害した”という筋書きを考えた。そしてその物語の成立に最も必要な物、そう“遺書”を今まさに鈴虫が作っていた。生憎と、鈴虫は人の筆跡を真似るのが得意だった。

 すべては順調。しかし薫には一つ気がかりなことがあった。


「…この事さ、“須玉スダマ”にバレたら、面倒じゃない?」

「…言うな。考えないようにしてたんだから。報告しなくても怒られるが、報告しても怒られるんだ。だったら黙ってるに限る」

「そーだよね。やだよね、怒られるの」

「絶対やだ」


 二人が自身の心の安寧の為に今回のことを秘密にしようと心に決めた、その瞬間。機会を伺っていたかのように、いつの間にか窓辺に留まっていた白い鴉が鳴き声を上げた。


―――カァ!!


「うわ!?」

「なんだなんだ?!」


 窓側の文机の前にいた鈴虫はその鳴き声に驚き後ろにそり返り、薫の方は死体に夢中だった視線を慌てて上げた。凝視する二人の視線の先には真っ白な羽毛をした一羽の鴉が佇んでおり、小刻みに首を動かしながらその瞳で二人の様子を伺っている。その鴉には二人とも見覚えがあり、そしてその鴉の足に括り付けられた紙を目にした鈴虫は真っ先に顔色を真っ青に染めた。


「ま、まさか…、“空晶クウショウ”か?」

「うそ。あの、“須玉”の鴉の?」


 噂をすればなんとやら。二人の予想が見事に的中したことがわかったのは、その丸められた紙を広げて中身を目にした時だった。


『今夜、后土殿の外にて待つ』

『逃げたら承知しないからな』


 二人の声にならない悲鳴が重なった。



 ❖ ❖



 差出人――須玉スダマが指定した場所は后土殿の塀の外、自然に任せて生い茂った深い森の中である。本来、后土殿に仕える神官たちは御役目を終えるまで外に出ることを固く禁じられている。万が一にも脱走しようと試みたとしても、周囲を囲む石造りの強固な塀が彼等を阻む。

 しかし、あの二人には障害にすらならないことを須玉は理解していた。逞しい野良猫のように高い塀へ飛び乗る姿を思い浮かべては、煙管を咥えた口から紫煙を吐き出す。これは二人への“目印”だった。

 やがて忍足をした二人分の足音に振り返れば、月明かりの下でもわかるくらい顔色を悪くした、薫と鈴虫が立っていた。やるせない様子で視線を泳がす二人に、須玉は煙管を前に突き出した。


「…薫。何か俺に言うことは?」

「ぇ、えぇっと…。若い神官が一人、赫夜カグヤの秘密を知ったので始末しました」

「よろしい。次鈴虫、言うことは?」

「か、薫の始末した神官の死を偽装し、他の神官のみならず、悟られないよう、工作を行いました」

「よろしい。…まったくこれだけのことで済むものを、お前たちはそれを隠蔽しようとして。この馬鹿どもが」


 須玉を目の前にしては言い逃れはできないと観念した二人が正直に起こったことを説明すると、返ってきたのは予想外にも怒号ではなくお説教だった。


「え。お、怒らないんですか?」

「勿論怒ってるとも。お前達が“隠蔽”しようとしたことに関して、な」

「じゃ、じゃあ! 神官を始末したことに関しては…」

「…まぁ、そっちはうまく隠し通せば問題ないだろう。ただ、赫夜のことを知ってすぐの事だから、何か勘付かれる可能性もあるな」


 須玉は若紫が死んだのが赫夜の秘密を知った直後であることを懸念したが、そこで鈴虫が自身の立てた“工作”について説明した。


「あ、それなら大丈夫だと思います」

「何故だ?」

「若紫の死体は一時的に現場になった部屋の床下に隠しましたから。丁寧に“術式”もかけておいたので、五日は隠し通せるかと」


 鈴虫が若紫の死体にかけた術式は『存在を知覚させないもの』と、『死臭を消すもの』の二つであり、これを施された死体は例え部屋の主の足元にあろうと認識することは出来ない。大雑把な自分と反して器用な鈴虫のことを揶揄うように薫が笑う。


「相変わらず器用な事で。“覚醒”出来なかった分、そういうことは得意なんだから」

「…何が言いたい?」

「別にぃ。ただどれだけ法術師として才能があっても、家族の中で一人だけ“覚醒”してないのは可哀想だなって、思っただけ」

「…なんだ羨ましいのか? そういうお前は“覚醒”したは良いが、拳を振り回すしか能のない脳筋女だからな」

「…は?」

「あ?」


 今にも一触即発の事態に傍観していた須玉の紫煙が横槍に入り仲裁した。しかし未だ睨み合うのをやめない二人に、正論まみれの苦言を呈する。


「二人ともそこまで。“覚醒”のするしないは個人差がある。例え血筋の中で一人だけ出来なくても、それは伸ばすべき才覚が違うというだけ。皆等しく、『からすの一族』だ」

「今回、お互いに一人だけでは事の処理に当たれなかっただろう。そのことをよく自覚しておくように」


 わかったか? と諭す須玉に二人はしゅんと俯いて頷くより他なかった。とりあえずは仲裁を終えた須玉は最後に今後の段取りを二人に伝えた。


「…では、後の事だが。四日後に例の死体を部屋の中に戻し、用意した遺書を傍らに置いておく事。決して誰にも悟られるなよ」

「わかりました」

「了解です」

「はい、じゃあ解散。俺また、“婆様”に呼ばれてるから」

ですか?」

「そ。百年前に拾ったの俺だし、ちゃんと見つけないとな」

「名前! なんでしたっけ?!」


「――― “日疋ヒビキ”  」


 鈴虫からの問いに振り返らず答えた須玉は、自身の吐き出した紫煙をまるで霧のように立ち込めさせると、その中に姿を消した。

 密会を終えた薫は大欠伸を恥ずかしげもなく晒しながら后土殿の方へ踵を返した。その背中を少し経ってから追いかけようと振り返った、その時。


 突如、目の前に一人の少年が現れた。


「――こんばんわ、“鴉”さん」


 本人の方がまるで鴉のように真っ黒な装束に身を包んだその少年は、高音が心地良い声で鈴虫に耳打ちした。そこまで距離を詰められたというのに、鈴虫は一切気づくことができなかった。


「動かないで。彼女に気づかれた瞬間、君は後悔することになる」

「…どういう意味だ?」

、見える?」


 そう言って徐に少年が目の前に差し出したのは、自身の左手。女のように白い手から伸びる細い指先、そこから伸びる酷く透明な光る“糸”の存在に、鈴虫は嫌な予感がして糸の行方を目で追った。その行き着く先は最悪の予想通り、未だ呑気に背中を向けて歩く薫の首筋。先端がぴたりとくっ付いてどこまでも伸び続けるそれは、明らかに物体ではなかった。


「っ何をした?!」

「静かに。彼女に気づかれたらその瞬間、“術”を発動させる」

「“術”?」

「…“鬼を意のままに操る術”だ。操り人形と化した彼女は、容赦なく君に襲いかかるだろう」

「操るだと? そんなこと、“烏師”でない限り―――」


「―――そうだ。君の目の前にいるのは、紛れもない “烏師” だ」


 動揺する鈴虫の目の前で、少年は顔を覆っていた布を引き剥がした。しゅるり、と解かれた黒い布の下から現れた容貌かおに、鈴虫は絶句した。

 日に当たらぬ白い肌。薄い唇。鮮血を溢したような真紅の瞳。そして、北の地を覆い隠す雪のような白い髪。その容姿は、今の赫夜を彷彿とさせるものであった。

 今この国に、これほど烏師と似た特徴を持つ人間は存在しない。存在するとすればそれは――――、


「…っ“日疋ヒビキ”!?」

「あれ、僕のこと知ってたんだ。…あぁ、須玉から聞いたんだね。なら話は早い」


 白髪の少年――日疋ヒビキは、再度左手から伸びた糸を鈴虫の目の前に見せつける。


これの意味がわかったのなら、僕がこれから質問すること、素直に答えられるよね?」

「っ……、わかった。何が聞きたい?」


 薫を人質に日疋が聞き出そうとしていたことは、ただ一つ。




「―――次期“烏師” 赫夜カグヤの秘密を明かせ」

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