第伍拾話 歪む太陽 不忠の誘引〈二〉
陰陽国御所 後宮『
興味のない勢力争いなどに巻き込まれて桔梗が辟易している中、そんなことは露知らず、
「――はい。また私の勝ちですよ、殿下」
「またか。今度こそ勝ったと思ったのに、蛍袋は強いな」
「陰陽国の女が囲碁で遅れを取るなんて恥だと、昔兄上から言われましたから」
「蛍袋の兄は確か、東の
「いいえ、恥ずかしながらあまり仲の良い兄妹ではありません。兄は私や父とは違って、堅物で頑固な人ですから」
共に暮らした時間は決して長くなかったが、父親への愛情に関して根本的に反りの合わない兄のことを思い浮かべては苦笑する蛍袋に反して、朔夜は最近の悩みを打ち明ける。
「それくらいが丁度いい。過干渉過ぎても気が滅入る」
「それは…、姉君のことですか?」
ずはり言い当てられた朔夜はバツが悪そうに顔を逸らし、つい昨晩の出来事を思い出す。
昨晩、特に何をするわけでもなく眠る前の読書に耽っていた朔夜のもとを訪れたのは、仏頂面を引っさげた双子の片割れ。
「…赫夜。そんなところにいては風邪を引く、早くこっちへおいで」
「……」
「赫夜?」
「…こんな時間まで、なにしてるの?」
「え…」
よもやこちらの台詞を盗られるとは思ってもいなかった朔夜は思わず口を噤む。それを何かやましい行為だと勘違いしたようで、キッと眉尻を吊り上げると大股で朔夜の側に歩み寄ると突然その膝に頭を乗せた寝転んだ。その際に乱暴に退けられた巻物は皺を作って床に放置された。一瞬驚いた朔夜だったが、すぐにやれやれと言いたげな溜め息をつきながら、「まだ読んでる途中だったのに」と我が物顔の赫夜に苦言を呈す。
「知らない。態々こんな夜更けに読むもの? それとも、実は恋文だったりするわけ?」
「はぁ? 一体なんの話…」
「とぼけても無駄だからね。いつもだったらとっくに寝ている時間に態々起きてる理由なんて、一つしか思いつかない」
「例えば?」
「…これから、蘭香殿に行く、とか」
「蛍袋のところに? なんでそういう話になるかなぁ」
夜更けまで
「私が何も知らないと思ってるのか。あの女が入内してきてからというもの、それまでべったりだった梅枝はまったく呼ばれず、代わりに毎日蘭香殿に通っては、嬉しそうな顔で帰ってくる! これを疑わずにいられる者などどこにいるものか!」
「…そりゃ確かに蛍袋と話すのは楽しいよ。でもあくまで
一人の后として尊重しているだけで、他に他意はない。梅枝のことは、彼女が最近あまり体調が良くなさそうだから気を遣っているだけだ。全部、赫夜の早合点だよ」
「…だって、御所内は今やお祝いの空気一色だし。あの
赫夜の言うように、御所内が意図せずとも浮かれているのは事実であり、赫夜の乳母である揺籃もその空気に流され、今ではいつ蛍袋の“懐妊の知らせ”がくるか待ち遠しそうにしている。しかしそれを素直に喜べないのが、いつまでも弟離れの出来ない
今晩だって、明日から暫く
しかし毎回后が増えるたびにこれをされてはたまったものではない。
「…はぁ、赫夜。心配しなくても、今はまだ、後継については考えてない。蛍袋の入内だって、
「今はまだ?」
「そりゃいつかは考えないと、母上が
「……歴代の烏師もみな、こういう気持ちだったのかなぁ」
「どんな?」
「…半身を失うような気持ち」
「いやいや、目の前からいなくなるわけじゃないんだから、そんな重く考えないで。そういう赫夜だって、老婆様が亡くなったら后土殿に籠ることになるだろ? その方が僕は寂しいよ」
「そんなことない! 私はいつでも、朔夜のところに帰ってくる。帰ってくるから…」
やがて涙声になった赫夜が朔夜の腹部に顔を埋めながら、まるで母親に縋る童のように呟いた。
「…帰ってくるから、朔夜もまだそんな早く、大人にならないで。私を、置いていかないで」
親の愛を欲する子供のような赫夜の様子に、朔夜はただただ頷くことしかできなった。
そして相変わらず不満げな顔を貼り付けたまま后土殿へと発った赫夜を見送ってから、今に至る。
赫夜の過干渉と嫉妬に少々辟易している朔夜に対して、蛍袋は光栄だ、と言って微笑んだ。
「ふふっ、殿下の目にそのように見えているのであれば、光栄なことです。私のような年増など、後宮では浮いてしまうのではないかと不安だったので」
「…蛍袋はとても美しいと思うよ。この僕が保証する」
「まぁ、ありがとうございます。ならば、この美しさを殿下が大人になられるまで保ち続けますね」
蛍袋の何気ない発言から、やはり彼女も後継の母の座を狙っているのだと確信した朔夜は困った笑みを浮かべる。それが父の為なのか、自分の為なのか、定かではないがそのために生まれてくる子等も随分と苦労する。
そんなことを考えていると、ふとある事を思い出した。それは入内した后たち全員に知らせておかなければならない大切な事柄。
「…そうだ、忘れていた。蛍袋、一つ大事な話がある」
「はい、なんでしょうか?」
「…君が烏兎の子を産んでくれる覚悟があるのは嬉しい。ただ、その子が双子でない場合、万が一は覚悟しておいてほしい」
「…それは、“龍神の呪い”のことでしょうか?」
それは全ての御世の后たち、そして御子たちに定められた宿命。
大昔、初代烏師が人々の安寧の為に封じた龍神。しかしその封印には代償が伴った。
『国と封印は双生児に守らせよ。その代わり、それ以外の烏兎の子等は、我が眠りの糧としてその魂を貰い受ける』
龍神が最期に残したその言葉通り、兎君の御子は初代の子を除いてその全てが、早世した。しかしその中でも何人かの“例外”もあり、片手で数えられる中に朔夜も身近に知る伯母の『
彼女のような例が過去にも数件あり、故に入内してくる后たちは自身の子が双子でなかった時、なんとしても守ろうと躍起になる。記録によれば、決して自身の手元から離さず、一生を部屋の中だけで終えた者。将又、毎日のように僧侶を呼びつけ祈祷を行わせ、遂に精神を病んだ者。その母親の執念たるや、つらつらと
勿論これらのことは語り草であり、蛍袋もよく知っている。
「…つまり殿下は、例え御子が双子でなくとも苛烈な事は避けられよ、と申しておられるのですか?」
「いや、今までの后の子を想う気持ちもわからないでもない。僕が言いたいのは、どれだけ手を尽くしても結局は看取ることになるかもしれないから、その覚悟をしておいて欲しいということだ」
「…かしこまりました、肝に銘じておきます。しかし、ご安心ください」
「何がだ?」
「私、双子以外を産む気はまったくありませんので」
「…はは、それは心強いな」
落ち着きを払い冷静に見えた蛍袋の瞳の奥の野心に満ちた炎の燻りに、朔夜は苦笑することしかできなかった。
❖ ❖
同時刻。
陰陽国内 烏師の社殿『
出立前夜、暫く目の届かなくなる朔夜に釘を刺しながらも、一向に安心できないでいる赫夜の機嫌は頗る最悪であった。
しかし、今日は揺籃以外にも一人、若い神官が付き添っていた。
不運なその者の名は、
その藤内を取り立てた冬牙の思惑により神官の地位に就いた若紫は、目の前の赫夜のことで何かあれば時折短い文を送っていた。きっと、今回の事も後々文に
そんなどうでもいい考えに耽っている内に、山道を超えた輿は一旦止まり目の前に聳えた門が開くのを待った。輿を担いだ運び手が門衛と素性確認を終えると、重い
「…若紫殿、なにか?」
「え…、あ、いえ。失礼致しました」
「…殿下、もう間も無く到着しますのでそのお顔、今のうちにしまっておいてくださいね」
「…はぁい。あの鬼婆に見つかったらまた小言が始まっちゃうしね」
「もう、またそんな風に…」
この世で最も苦手な大叔母のことを思い返しながら肩を落とす赫夜は、数日前に届いた彼女からの手紙の内容を思い出した。それは今日、赫夜が社殿に出向く理由が記されていた。
「“烏師として大切な御役目の話をします。近い内すぐにでも出向くように” か。一体何の話やら」
正直、赫夜は烏師という者がどういうことをしているのか、よく知らない。というのも、烏師が社殿に籠っている間の出来事は全て他言無用であり、神官たちもむやみやたらに話すことは禁じられていた。その為、当代の烏師が次の代に引き継ぐ時は正式な引き継ぎまでの長い期間、烏師の行う事柄を全て伝授させられる。故にこの時期の烏師の娘はあまり宮中に留まることはなく、その間に兎君に取り入り自身の娘を后にしようと臣下たちが動き出す時期でもある。
既に正式な后を一人迎えた朔夜に気が気ではない赫夜は、次自分が宮中に帰る頃には朔夜の心は蛍袋に向いているのではないか、と不安に駆られていた。
そんな赫夜の不安などいざ知らず、遂に輿は完全に止まりゆっくりと地面に降ろされた。揺籃に先導されて輿から降りた赫夜は見慣れた木造の玄関口に重い溜息をつくと、更に重い足取りを引きずって奥へ進む。
社殿の表向きの殆どは神官たちが仕事をする書庫や台所、そして彼等の寝所であり、烏師の私室などは社殿の一番奥にある。
特に一番奥の間、即ち『龍神の間』に入る手前は一枚の扉で隔たれており、許可のない者は決して足を踏み入れてはならない。そして烏師も、ここから先は正装でなければ入室してはならない、という決まりがある。その為扉の手前には座敷が設けられ、そこで赫夜は烏師の為に特別に誂えた太陽の光に染めたような真っ赤な装いに身を包み、扉の前で深呼吸をする。
だが、いつもであれば一緒に入室するはずの揺籃が一歩後退り、頭を下げた。
「――それでは、いってらっしゃいませ」
「え、揺籃は?」
「本日は大切な“後継の儀”の一種。私はここより先への入室は禁じられております」
「そっか。わかった、少し待たせる」
「いえ。いつまでもお待ちしております」
きっと揺籃は言葉通り一日でも待ってくれるだろう、と苦笑しながら赫夜は神官たちが開いた扉の向こうへと歩み出す。
その背中を見送りながら扉が閉まるのを見届けた若紫の背後から、同期の神官たちが声を掛けた。
「御勤めご苦労様です、若紫」
「
「私はいつもの事だったけど、
「往復?」
「…十五夜様からの命で、歴代烏師の日記を運んでいたんだ。初代から十五夜様の前の代までのを全て」
それを聞いた若紫はその途方も無い数を思い出し眩暈がした。書庫の壁を埋め尽くし、更には新たな壁のようにして聳え立つ本棚の中に積み上げられた巻き物の総数は数知れず、一人の烏師の物だけでも数十巻にも及ぶ。それを一々運んでは戻しを繰り返していた薫には、まさに感服だった。
しかしそんな大役を終えたというのに、薫の顔は一向に晴れる気配はなかった。寧ろ心配そうな表情を浮かべながら、固く閉ざされた扉を見つめながら呟く。
「…赫夜様、次戻られる頃にはどう変わられているのか。心配だ」
「どういうこと?」
「…鈴虫も若紫も若いから知らないだろうけど、先代の“
そう言われ、十六夜の時代を知らない若紫はきょとん、として首を傾げたが、対する鈴虫は顔から血の気が引いていた。
「あ、あの、十六夜様が? 私も仕えさせていただいたのは一年くらいだけど、あのいつも冷静で決して声を荒げない十六夜が、叫んだ…?」
「驚くのも無理はない。あれほど取り乱した十六夜様は後にも先にもそれっきりだ。それほど、烏師の御役目を継ぐというのは重責なのだろう」
「ひぇぇ、赫夜様がこれ以上荒れたら、俺たちだって持たないよぉ」
そんな心配に身を震わせる若紫らの会話をこっそり静聴していた揺籃は、一抹の不安を抱えながら赫夜が帰ってくるのをひたすら待ち続けるのだった。
❖ ❖
赫夜の到着を今か今かと待つ
社殿にいる間、烏師がそのほとんどの時間を費やす金堂は全体的に内部が暗く、部屋の端々に行灯が置かれているだけで、その薄暗さはより一層龍神の不気味さを醸し出していた。
金堂の中央には二つの円座が向かい合うように置かれ、その上座に十五夜が既に座しており、やがて到着した赫夜は空いている下座にゆっくりと腰を下ろした。上を見上げればこちらを睨みつける鋭い龍の眼光があり、自身の自由を奪った烏師を恨みがましく思っているように感じて、赫夜はサッと視線を逸らす。するとそれまで目を閉じて黙り込んでいた十五夜が不意に口を開いた。
「…よく来ましたね、十七代目」
「何だよ、今日はやけに畏まってるじゃないか」
「当たり前です。本日は無駄な世間話は無しです」
元々生真面目な十五夜のいつも以上の堅苦しい挨拶に文句の一つでも言ってやろうという赫夜の考えは、一瞬にして消え去った。何故なら、その日の十五夜の瞳は、真剣な色一色だったからである。
これに逆らってはいけない。そう本能で感じ取った赫夜は余計なおしゃべりをやめた。
もはや無駄話をする空気ではなくなったことを察した十五夜は、本題に入る前に赫夜にとある報告をした。それは本題にも深く関わる内容である。
「継承の前に、一つお前に知らせることがあります」
「…なんでしょう?」
「前回、祭事の前の“地震”を憶えていますか?」
「はい勿論」
十五夜が指したのは、
しかしそれを語る十五夜自身は、どこか浮かない顔だった。
「…いいですか。あの揺れの原因は、やはり“龍脈”にあったようです。詳しくは現地に行っていないのでわかりませんが、どうやら封印を支える“四つの柱”の均衡が崩れたことによる“歪み”であると、私は推察しています」
「柱の均衡? あそこの守護は領主たちがしてるんだから、無闇に何か起こるなんて考えられないけど?」
「えぇ。しかし中央の守りが綻びていない以上、原因は“支柱”にあると考えるのが妥当です」
「柱、ね。僕は勿論、お婆様だって本物は見た事ないんでしょ?」
「えぇ残念ながら」
烏兎の後継者はその一生を
血を不慮の事故で途絶えさせない為か、後継者たる双子の御子らは生まれてから死ぬまで陰陽国の外の土を踏むことはない。故に陰陽国以外の土地の管理は各領主に丸投げであり、何かあれば領主たちを態々呼び付けるしかない。
そして烏師は、聖地の封印を管理しているにも関わらず、その封印を支える“柱”に関しては決して見た事がないのだ。故にこの十五夜の推理は完全に推測であり、実際には何かあったかどうかは確認できていない。
「領主たちに聞いてみる? 何か変な事はなかったか、とか?」
「いいえ。“柱”に関してはよっぽどの事がない限り、それが異変だと領主が気づくのはまず無理だと思われる」
「じゃあその“異変”とやらはどう処理するのさ?」
「そこで、お前に託す“御役目”が役に立ちます」
ようやく十五夜の口から出た“御役目”という単語に、遂に本題に入るのだと確信した赫夜は真っ直ぐ彼女を見つめた。
「その内容は?」
「…それは行う事で、封印そのものを安定させることができる。中心が安定さえすれば、支柱の乱れなどすぐに収まるだろう。ただ…」
「ただ?」
「この御役目を行うにあたり、お前には覚悟してもらうことがある」
赫夜はごくり、と生唾を飲んで次の言葉を待った。
「…これを行うことは誰にも明かしてはならない。例え血を分けた兎君であっても。知られてしまえば最後、お前は兎君からの怒りを買うことになる」
「兎君からの、怒り? 一体どういう…」
「……それは、―――――」
その後、三時間にも及ぶ継承の儀ののち、揺籃のもとに帰ってきた赫夜は早々に、その日食した物を全て吐き戻した。
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