第肆拾漆話 徒花の棘〈五〉



 祭りが終わりを迎えてから六日後のこと。

 陰陽国の都の東側に位置する烏兎一族分家の邸から、恐ろしげな乙女の怒声が響き渡った。しかし邸に勤める使用人たちからすればそれは日常茶飯事であり、もはや鳥の囀りくらいの驚きしかなく、邸の中の空気は至って普段通り穏やかであった。心中穏やかではないのは、二人だけ。家長の陽春ヨウシュンとその次女、夕陽ユウヒのみ。

 分家の邸宅の母屋もやでは、下座に座った夕陽が上座に座る陽春を渾身の怒りを込めて捲し立てており、それをただただ聞く陽春は疲れ切ったように脇息に肘をつき、その隣では正室の遊糸ユウシが呆れた表情を浮かべていた。彼女の怒りの原因は勿論、数日前の祭事の事である。


「――聞いてますのっお父様!? このわたくしが、喋っているのよ!!」

「あぁちゃんと聞いているよ、夕陽。だからもう少し声を小さくしてくれ、父の鼓膜を破る気か?」

「だってだって! お父様のことを信じて全部任せたのに、なんなのよこの結果は!」

「悪かったとは思っているよ。でもどんなに根回ししても、最終的に決めるのは朔夜サクヤ殿下だ。今回は仕方なかったと、諦めなさい」

「仕方なくなんかないわ! 大体お父様の根回しが蛍袋あの女の父親より弱かったってことでしょう!!」

「う…っ」

「…夕陽、そこまでです。これ以上お父様を侮辱することは許しません。ぎゃーぎゃー喚いてみっともない」


 愛娘の捲し立ててくる怒号についに俯いて何も言えなくなった陽春を見兼ねて、等々遊糸からの助け舟が出た。しかし本心を言えば、遊糸はどちらの味方でもなかった。

 普段から厳しい母の横槍に逆らえない夕陽はギュッと唇を紡ぐも、その隙間からは未だ不平不満が漏れ出ていた。


「…っだって、まさか、あんな女に負けるなんて。あんな行き遅れのどこが…」

「お父様の言う通り、最終的に決めるのは殿下。殿下が決めたのであれば、それに素直に従う姿勢を見せることこそ、淑女として相応しい振る舞いとは思いませんか?」

「…はい、お母様」

「よろしい。それに、今回貴女がもし選ばれていたとしても、私が入内を反対しました」

「なんでよ!?」


 父の陽春とは反対に、母の遊糸はあまり夕陽の入内に乗り気ではなく、寧ろ常日頃から反対している立場にある。それには彼女なりの深い理由があった。


「…夕陽、貴女は御所の後宮がどういうところなのか、まったくわかってないわ。貴女の性格では入内したところで何年と保たないでしょうね」

「何よそれ、意味わからないわ」

「貴女には兎君の后の一人になる“自覚”も、ましてや国母になる“覚悟”もない。今はまだ后があまりいないけれど、人が増えれば貴女のその自尊心プライドは絶対に邪魔になる。それでも后になりたいのなら、わたくしの義母、玉葛タマカズラ様をまずは手本になさい」

「義母って…、先々代の中宮様のこと?」


 遊糸がこの場に名前を挙げたのは、遊糸や十六夜イザヨイの実父であり朔夜たちや夕陽たちにとっては祖父にあたる先々代兎君『煌夜コウヤ』の中宮である女性『玉葛タマカズラ』である。

 彼女自体は双子を産むことは終ぞなかったが、のちに自身の女官の一人を兎君に献上し見事双子を誕生させ、その二人の養育に尽力した紛れもない国母代理である。斯くいう遊糸も生母は幼少期に他界した為、その頃後宮を取り仕切っていた玉葛に良くしたもらったという過去がある。

 そんな彼女を遊糸は今も尊敬していた。


「玉葛様はとても素晴らしいお方だったわ。自身の御子は結局、皇女ひめみこお一人でしたけど、それでも醜い嫉妬などせず、焦燥気味の夫をよく支えたと聞きます。貴女も后になるのであれば、その様なお方になりなさい」

「…でも中宮なら尚更、双子を産んでこそじゃないの?」

「…器の小さい子ね。でもやはり自分の子が一番可愛かったという点ではそうかもしれないわ。異母姉あねうえが亡くなった後は随分と沈んでいらっしゃったから」

「聞いたことあるわ。兎君の御子は双子以外殆どが、って」


 夕陽が口にしたその事実は、陰陽国では暗黙の了解であり古くからある“烏兎の宿命”である。

 曰く、人民を統べる兎君の御子はかつて烏師により封じられし龍神の残した呪いにより、継承者たる双生の御子を除いてその血筋の子等の霊は等しく無垢なまま、龍神に捧げられる、とのこと。

 実際に魂が龍神に捧げられているのかは定かではないが、その言い伝え通り双子として生まれた御子以外の殆どは、十五歳の成人を迎える前に病死することがある。そして運良く成人できても、その大体は子を残すことなく病死し、今まで兎君の御子の双子以外で子を残したのは歴代で僅か三人しかいない。

 その内の一人が、目の前の遊糸ユウシである。


「それでも異母姉あねうえは長く生きた方なの。他の兄弟たちの誰よりも優しくて、のだから」


 遊糸は思い出を反芻しながら、夕陽に当時の御所の有様を語った。


 十代にして兎君の座に就いた煌夜コウヤは中宮である当時の右大臣の娘“玉葛タマカズラ”との仲も睦まじく、彼女以外にも多くの后たちがいた為、恐らく世継ぎには困らないだろうと周囲は安心しきっていた。だが、次々に誕生する御子が一人の身であることを四人目になってようやく、周囲も危機感を抱く様になった。煌夜は縋る思いで双子の妹の“十五夜イサヨ”にも祈祷を頼み、彼女もそれに尽力するため后土殿に籠るようになった。双子の生まれぬ焦りから疲弊していく煌夜にただひたすらに寄り添った玉葛だったが、その翌年に産んだ子も皇女ひめみこ一人。

 年月ばかりが過ぎていき、三十も過ぎてもう望みはないと諦めかけた煌夜だったが、玉葛が健康さと若さで選んだ女官を薦めたところ、その翌年にはついに念願の双子、“白夜ビャクヤ”と“十六夜イザヨイ”が生まれた。ちなみにこの二年前に遊糸も生まれている。

 煌夜と玉葛の喜びは勿論、周囲は誕生を歓喜した。素直に喜べなかったのは、二人の前に生まれた多くの兄姉きょうだいたちだけ。


 目を閉じればそれはすぐに浮かんできた。


 幼い遊糸の手を引く母の隣で、故意に汚れされた沙梨殿さりでんの前に成す術なく茫然と立ち尽くす遊糸よりも幼い小さな二つの背中を。常に傷だらけの互いの手を強く握りながら振り返ったその四つの瞳の奥は、行き場のない怒りを湛えていた。


 その四つの瞳を、遊糸は一時も忘れたことはない。



 ❖ ❖



 遊糸が思い出していたその少女の名前は、朝顔アサガオ煌夜コウヤの第三子として生まれた皇女ひめみこだった。遊糸が生まれた時彼女が御子たちの中で一番の年長者であり、その時既に煌夜の第一子、第二子の皇子みこ皇女ひめみこは幼年の身にして病没していたからである。下の七人もの弟妹たちを束ねる人であったが、母親の違う彼等が素直に従うわけもなく、表面上は従順であっても、陰では彼女が最も辞めさせたかったことを行っていた。

 それが一番最後に生まれた双子、白夜ビャクヤ十六夜イザヨイに対する陰湿な嫌がらせである。その光景を一度だけ、朝顔は間近で目撃したことがあった。

 双子が父から与えられたのは後宮の東側に位置する『沙梨殿さりでん』で、庭に梨の木が植っているこぢんまりとした殿舎である。

 その壺庭に無力にも転がされた小さな身体を必死に丸めて頭上から降ってくる暴力にひたすら耐える子供が一人と、無力な子供に無益な暴力を振るう三人の少年少女。この構図を遠目から偶然にも発見した朝顔は慌てて駆け寄り、三人を厳しい口調で呼び止める。


「っそこで何をしているの!?」

「…なんだ、朝顔か」

「邪魔する気?」

「中宮の娘だからって偉そうに」


 振り返って朝顔の顔を見るや面倒そうに顔を顰めるのは兎君の第四子『春宵シュンショウ』。その隣で朝顔にあからさまな挑発を仕掛けるのは第五子で春宵の妹宮『秋宵シュウショウ』。そして明らかな嫌味を吐くのは、第七子の『晴嵐セイラン』である。

 この三人は常日頃から下の双子を虐める常習犯であった。

 春宵シュンショウ秋宵シュウショウは同じ母親をもつ二つ違いの兄妹。晴嵐セイランの方は母親こそ違えど、その外祖父は大納言の地位にある。いずれも名家の家の出身である母と比べて、めでたく誕生し優遇されている双子の母は元は中宮の女房の一人に過ぎない。双子の母は残念ながら初産故にそのまま亡くなってしまい、溜まりに積もった后たちの鬱憤は子供達を介して双子に向けられているのだった。

 その事情を知りながら、朝顔はこれを咎めた。


「そこまでになさい。そんなことをしてなんになります? 貴方たちが代わりになれるとでも?」

「はっ、コイツのお下がりなんて真っ平ごめんだな。コイツはただ受けるべき罰を受けているに過ぎない!」

「コイツらが生まれなければ、消去法でアタシと兄上が後継だったかもしれないって、母上が…っ」

「そんなわけないでしょう。馬鹿なことを言ってないで早くここから―――」


「―――そこで何してるの!?」


 先程の朝顔の言葉を繰り返すように響いた声は彼女より幾許か幼く、しかし明確な敵意を秘めていた。そして朝顔の横を通り過ぎた小さな影は、少年少女たちを無視して蹲る幼子の方に駆け寄った。優しく宥めながら着物についた汚れを丁寧に払っていく。


「…大丈夫? どこか怪我してない?」

「うぅ…。だ、だいじょうぶだよ、十六夜イザヨイ

「ほんと? 嘘ついたら怒るからね、白夜ビャクヤ兄様」


 ひとまず大きな怪我がないことを確認してホッと胸を撫で下ろした白髪の少女は立ち上がると、次は後ろに立つ兄姉きょうだいたちを鋭い眼光で睨みつけた。


「またわたしの見てないときに兄様ばかり傷つけて…。お前たち、いつか絶対後悔させてやる。その魂、死して極楽に逝けるとおもうなよ」


 凡そ、十歳弱の子供の発言とは思えないその呪いの込められた言葉に、主犯格の三人は勿論、朝顔ですら背筋が凍りつき唇を噤んだ。

 彼らが言い返してこないのを察した十六夜はそんな彼らの姿を小馬鹿にするように鼻で笑うと、気弱な双子の兄の手を引いて沙梨殿の中へと帰っていった。

 その背中をただ黙って見送った三人だったが、その中で一人だけ、決して超えてはならない一線を超えようと画策する者がいた。



 事件が起きたのはその出来事から十日後のこと。

 母、玉葛タマカズラの住む『水芹殿すいきんでん』で暮らしていた朝顔がいつものように母の寝所で共に読み物に耽っていた夜半のこと。“皇女ひめみこたるもの、それに相応しい教養を身につけるべき”と説く母の言いつけで、毎晩読書に耽る朝顔の真剣な顔を時折見つめながら、玉葛も同じように読書する母娘ははこ二人だけの空間に、突然の訪問者が現れた。

 それは、当時御所への参内が認められた“界雷カイライ”という若い蔵人くろうど

だった。


「―――夜分遅くに申し訳ありません。宮様、急ぎご報告が!」

「良い、申してみよ」

「はい。つい先頃薬師から伝達がありまして、白夜ビャクヤ殿下が夕餉の際にお倒れになったそうです」

「なに夕餉だと? 一体どれだけ経っていると思っている。伝達が遅いのではないか?」

「申し訳ありません。しかし、逸早くお伝えしました兎君よりの仰せでしたので」


 兎君の口止めによって報告が遅れたと聞いた玉葛ははぁ、大きな溜息をついた。我が子の、それも後継者である皇子みこの命が狙われたというのに呑気な、と呆れたのと同時にある事に気づく。


「…待て。兎君は初め口止めしていたと言っていたな? それは治療した薬師にもか?」

「はい。この事は誰にも口外してはならぬ、と」

「…そうか。となればその犯人、もしや?」


 核心を突くような玉葛の言い方に図星と言わんばかりに無表情な界雷の肩が跳ねた。それを隣で傍聴していた朝顔は驚きのあまり声を上げた。


「い、一体誰が?! そんな恐ろしいことを…っ」

「それは―――」


 そして界雷は二人に事の経緯を語り始めた。

 夕餉の際に白夜、十六夜に用意された膳、その白夜の方のあつもの(吸い物)にだけ少量の毒が混ざられていた。普段と同じように何の躊躇いもなくそれを口にした白夜はみるみる内に顔色を悪くし、狭くなった気管を抑えながらその場に倒れると苦しみもがいた。その姿を見た十六夜は既に自身が口を付けていた水を白夜に飲ませると、女官たちに薬師を呼ばせた。迅速な対応のおかげで一命は取り留めたものの、未だ意識の戻らない白夜を薬師に任せた十六夜は、周囲が身震いするほどの恐ろしい形相で毒を盛った犯人を探し始めた。その犯人自体はあっさり見つかったが、残念ながら次期兎君の膳に毒を盛ったことを恥じて、自ら命を絶っていた。毒を盛って自害した若い蔵人くろうどを前に、十六夜は一切動じることなく冷静にその男を。まだ習って日の浅い鬼道を使いこなし、命を失った肉体に再び魂を戻した十六夜は自分に従順な鬼神おにがみとなった男に、首謀者の名前を吐かせた。


『――誰だ? お前にそのような恐ろしいことをさせたのは?』

『……、せ、せ、セイ、ラン、さま』


 男は拙い唇の動きで確かに『晴嵐セイラン』と答えた。その瞬間の十六夜の顔は誰も見る事はできず、ただ背中からでもわかる背筋が凍るような殺意の気配だけは感じ取るとこができた。

 判明した首謀者の名前を駆け付けた父、煌夜コウヤに告げた十六夜だったが、実子たちによる暗殺事件など今までの歴史上異例であり、自身の面子を優先した煌夜は「穏便に」と当たり障りのなく告げた。しかしそんなことを十六夜が許すわけもなく、彼女は父に向かって強気に「確かな罰をお与えにならないのであれば、わたしがあの人を呪い殺すでしょう」と告げたのだ。

 まだ幼い娘にそう言われ、実の兄弟でそんなことをさせてはいけないと理性が働き、首謀者である晴嵐には然るべき罰を与えると約束してその場は収めた。が、その処罰の内容を決めることができず、その相談をする為に界雷に命じて玉葛に一報が届いたのだ。


 事の顛末を聞いた玉葛は少しの間思案すると、ある提案を思い付く。


「兎に角、晴嵐をもう御所ここに置いておくことはできないわ。あの子の母親には酷だけど、各領地の国司の誰かに預けましょう。あと問題は、十六夜と白夜の今後ね」

「と、言いますと?」

「このまま沙梨殿に置けば、同じ事が起きないとも限らない。ならばいっそなこと、御所の外、今は使われていない東宮御所に引っ越してもらいましょう」


 玉葛が双子の引っ越し先に選んだのは、その昔、まだ御所内の設備が全て完成していなかった初代から四代目の間に東宮御所として使われていた、御所の正門『上弦門じょうげんもん』の外の建物のことであった。御所が完成し沙梨殿が東宮御所になってからは、東宮に関する役職の者が勤める場所へと変わり、兎君の血縁者がそこに住まうことはなかった。

 かつて東宮御所として使われていたのであれば問題はない、と告げた玉葛の案はすぐに煌夜によって可決され実行された。毒殺の主犯である晴嵐は西の監兵領かんぺいりょうの国司のもとに送られ、十六夜たちは白夜の体調が戻るのを待ってから上弦門を出た。


 それで全て解決した。誰もがそう思っていた。



 そこまで話してピタリと口を閉ざした母、遊糸の姿に夕陽は首を傾げた。


「話はそこで終わり?」

「…そうね。玉葛様のお話はこれで終わりね。あのお方はあの場に置いて最良の選択をなさった。けれど結局、、それだけの話よ」

「…つまりどういう事?」

「…死んだのよ。西の国司のもとに送られて数日後、晴嵐の兄様は発作を起こして急死した」

「え……」


 その報せが御所に齎された時の彼の母の悲痛な絶叫は、今でも耳の奥に残っている。

 一時いっときとはいえど、兎君から寵愛を受けその証に授かったたった一人の我が子を失った女は、息子の悲報を聞いた瞬間から狂ったように絶叫を上げ続け、最期には女官たちの腕さえも振り払って自らの喉に刀子とうすを突き刺し絶命した。

 凄まじい死に方は暫しの間御所内で噂となったが、その中で同時に囁かれたのは烏師の噂。まだ烏師ではないが、その才を持つ十六夜が宣言通り異母兄あにを呪い殺したのではないか、という噂だった。

 しかしこれを真っ向から否定したのは、それまで御所内の事に干渉することのなかった当時の烏師“十五夜イサヨ”であった。十五夜の発言により忽ちの内に噂は煙のように消え去り、晴嵐の死は突然死として片付けられた。


 故に、真相は今尚闇の中。



 ❖ ❖



 陰陽国 領内『后土殿こうどでん


 陰君子節会いんくんしのせちえが無事に終わったという一報を受け取った一人の若い神官しんかんは預かった封書を大事に抱えながら人気の少ない神殿の中を早足に通り抜けていく。“彼”は神官になってまだ日も浅く、すれ違う先輩の神官たちに道を教わりながら神殿の奥の“烏師の私室”へと向かった。

 とある妙齢の神官から聞いた話によると、この神殿の主である老齢の烏師・十五夜イサヨは三日前から私室に籠り切りであり、食事も神官たちに運ばせ、何やら指定した書物を書庫から取りに行かせているらしいとのことで、ここ最近彼女の姿を見た者はいなかった。

 今日もいつも通り私室にいるであろうと思われる十五夜のもとへ向かった“彼”はやがて奥まった灯りも少ない廊下を抜けて、その奥の扉の前で一度膝を着いた。


「――十五夜イサヨ様、宮中より一報です」


 “彼”の呼びかけに古い引き戸の向こうから「入りなさい」と入室の許可を受け、ゆっくりと戸を開けると、こじんまりとした私室の中で文机に向かっている十五夜の背中が鎮座していた。決して振り返ることなく手にした巻物を少しずつ広げる十五夜は、書物に視線を落としたままの横顔をちらりと見せた。


ふみの内容は?」

「は、はい。ぶ、無事に祭事を終えた、とのことです。しかし…」

「…なんだ?」


 あからさまに言葉を濁した神官に疑問を抱いた十五夜はついに視線を背後を向けた。あまりに据わりが悪い様子の神官は、それでもなんとか続きの言葉を述べた。


「…どうやら今回の祭事で兎君殿下が后を一人お迎えしたようで、その事が原因で尋常ではないほど赫夜カグヤ様が落ち込んでおられるらしいのです」

「…まったく。仕方のない子ね」


 大方、一報を送ってきたのはそんな気落ちした赫夜の代わりの揺籃ヨウランなのであろう、と察しが付いた十五夜は、その文の内容に赫夜が気落ちしているのをどうしたらいいのか、相談されていることも把握した。しかし溺愛する弟を他の女に取られて駄々を捏ねる赤子をあやすほど、十五夜は暇ではない。

 故に文の内容を知った十五夜は一言、了承しました、と揺籃の相談を一蹴した。そして文の内容を聞きながら並行して読み進めていた巻物も最後の一文まで読み終え、この続きを神官に要求した。


「…文の方はもういいわ。次はこの巻物の次巻を持ってきて」

「はぁ。これは…、各年代毎の烏師様方の、“日記”ですか?」

「えぇ。既に九代目までは読み終えました。次は、十代目から」


 そう言って読み終えた巻物を差し出しながら要求された神官が了承しようとしたその時。ふと、ある重要な言伝を思い出した。


「…っも、申し訳ありません。実はその件で他の神官より言伝を賜っておりましたこと、すっかり失念しておりました!」

「言伝?」

「はい。歴代烏師様の日記の中で、何故か、とのことでございます」

「馬鹿な。歴史ある烏師の書簡を紛失したということか?」

「申し訳ありません。紛失か、或いはかは、わかりませんが」


 十五夜がここ最近読み漁っていたのは、初代から今の今までの歴代の烏師たちが残した日記である。その代に起きた出来事や烏師自身の愚痴などが書かれたものであり、特にその内容の中には“柱”の異変までも記載されている。

 それを読んで十五夜が調べていたのは数日前に起きた謎の地震の原因である。赫夜には気にしなくていいと言った手前、赫夜が次に后土殿を訪れる前に原因を明確にしておきたかった十五夜は、過去に似たような事例はないか、と烏師の日記を読み返していたのだった。

 しかし書庫を管理している神官からの言伝によると、歴代で一番災難に見舞われた十代目の日記が何故か抜けている他のことで十五夜は首を傾げた。


「…何者かが持ち出したとは考えにくい。とするならば、当時の烏師が意図して残さなかった、ということかもしれないわね」

「申し訳ありません。その後の十一代目からは現存を確認できましたのでご用意できます」

「ではそこからお願いするわ」

「かしこまりました」


 若い神官は急ぎ十五夜ご所望の書簡を調達するべく、その場から足早に立ち去った。

 走り去っていく足音を背中で聞きながら、十五夜は手元に残る九代目の日記を軽く読み返して暇を潰す。

 九代目烏師『春日カスガ』はそれまでの烏師とは打って変わり、弟である兎君との関係は良好とは言えなかったようだった。何せ、十代目兎君『百日紅サルスベリ』は若い頃から無類の女好きで、後宮の后たちの人数はのちの十五代目の比ではなかったそう。その悪癖のせいで春日カスガが御所に寄りつくことはなく、偶に帰って来ても実の兄やその后たちには煙たがられたという。しかしだからと言ってやられてばかりの彼女ではなかったようで、十五夜はその詳細が記された部分を読み返しては苦笑した。


「…腹いせに、毎年の陰君子の舞姫は国中からを抜擢してやった、と。とんだ姉弟ね」


 そんな二人を反面教師にしたのか、百日紅に生まれた双子の兄妹は互いにべったりだったという。妹の日和ヒヨリは年を重ねる毎に落ち着いたようだったが、兄の日高ヒダカは自身の后よりも妹を優先すること多々あり、その事で日和から相談された、と春日の日記の最後の方に記されていた。

 だが兎君に可愛がられた度合いでいえば、十五夜も負けていなかった。幼い頃から蝶よ花よと育てられた十五夜を一番重宝したのは、他ならない兄の『煌夜コウヤ』だった。しかし十五夜が今一番に思い出す兄の顔は、焦燥しきった青い顔。長年にわたって続く子らの出産に期待を寄せるも、それら全てが脆く瓦解していくのを何度となく経験した兄の顔は生気を失っていた。


 十五夜はそれが心底、をよく憶えている。


 物心ついた時から可愛い、可愛いと溺愛してきた妹から他の女に心移りした兄への憎悪と愛情。兄からの愛情を受ける女たちへの嫉妬心。その全てが若い十五夜の中に渦巻き、泥のように溜まり続けた。消化することないその感情たちはついに十五夜の思考までも侵食し、彼女にあるをかけた。


 “” と。


 そんな独占欲に満ちた誘惑にまだ若く未熟な十五夜が抗える訳もなく、彼女は兄を心配するその裏で呪いをかけ続けた。それが本当に効くとは思っていなかったが、それでも呪わやらずにはいられなかった。


 それが“禁忌”と知っていながら。



『——―それがどれだけ罪深いことか理解していながら、か?』


 十五夜がゆっくり振り返ると、そこには彼女の中で生まれた偽物の“兄”が険しい顔で立っていた。そして彼が繰り返し聞いてくるその質問に、十五夜は幾度となく同じ答えを返してきた。


「…それでも、私には兄上あなたしかいなかったのよ」


「兄上にはわからないのでしょうね。ここで一生を遂げることが生まれた時から決まっている、私の…、烏師わたしたちの孤独と絶望が」


「それはどれだけ信奉されても、どれだけ多くの人から思慕されても、決して満たされることはない」


 そしてそれを次に一生味わうことになるのは、この場にいないまだ幼い赫夜であることに、十五夜は一抹の不安を抱くのだった。


 その後も結局“柱”の異変について書かれたものは見つけられず、紛失した“十代目烏師の日記”への疑念は拭いきれなくなっていた。

 そしてその疑念を更に深くしたのは、九代目の日記の最後に書かれた“ある一文”だ。



『 これは悪夢だ。悪夢でなくてはならない。でなければ、このはやがて歪みとなってこの世に災いを振り撒くだろう 』

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