第肆拾陸話 徒花の棘〈四〉


 陰陽国 社殿『后土殿こうどでん』 『からすの間』


 燕去月つばめさりのつき(八月)に入り、祭りの準備の為に舞姫たちが御所に参内する中、祭りの一切を取り仕切る烏師“赫夜カグヤ”は祭りについての説明を受ける為、大叔母のいる后土殿に足を運んでいた。

 しかし一々説教くさい大叔母“十五夜イサヨ”の語りに数分足らずで飽きてしまった赫夜の意識は既に朔夜サクヤのいる御所へと飛んでいきそうだった。そんな心ここに在らずな赫夜に気づくと、口元を歪めて一旦話を止めた。


「…赫夜、聞いているのですか?」

「…聞いてる聞いてる」

「それは聞いていない時の返事です。もっと真面目に聞きなさい、大事な事ですよ!」

「わかってるってば! そうやって一々中断して説教するの、やめてくれない!?」


 実は十五夜が話を止めて説教するのはこれが四回目。それだけ赫夜の注意が散漫であるということだが、行事前ということで彼女自身もとてもピリピリとしているが故だった。だが当の本人は知ったことではない、といった様子で今は離れている朔夜のことばかりを考えていた赫夜だったが、また話を中断されこの退屈な時間が長引くことは避けたい為に、仕方なく座り直して黙って拝聴することにした。


「…わかりました、申し訳ありません。もうちゃんと聞くので続きをお願いします」

「いいでしょう。では最初から」

「……さいあく」


 もはや赫夜にとっては耳タコではあるが、十五夜がまず最初に話すのは、『隠君子節会いんくんしのせちえ』の成り立ちとその意味である。

 毎年、その代の烏師が稲熟月いねあがりのつきに行うこの祭事が最初に始まったのは、第四代兎君の時代である。その年の兎君は歴代に比べて遥かに病弱で、度々風邪を拗らせては生死の境を彷徨っていた。この状態が長年続き最悪世継ぎができぬまま薨去すれば大事おおごとであると危惧した公卿たちは、兎君の姉である当時の烏師に縋った。第四代目烏師は非常に気難しい女性で、弟である兎君でさえ萎縮する存在だった。そんな彼女は后土殿に引き篭もることが多く、当時の左大臣と右大臣が揃って社殿に赴き、兎君の容態の深刻さと助力を求めた。それに烏師は承諾すると、ある提案を二人の大臣にした。


『兎君のことは歴代の烏師たちの力も借りましょう。恐らく兎君がこのままでは国全体もいずれ病むことでしょうから、わたくしが祭主を務めます“祭事”を毎年行うのはどうでしょう』


 この烏師の提案により、その年の稲熟月いねあがりのつきの初旬に烏師は神官たちを連れて御所へ戻り、兎君、公卿たちを集めて祈祷を行った。その際に烏師の念の込められた菊の花を浮かべた一杯の酒を配り、全員でそれを飲み干した。

 その後、病弱気味だった兎君の容態はみるみるうちに回復に向かい、のちに七人の子女をもうけたのだった。そしてそのことに対し烏師と力を貸してくれた先祖たちに感謝し、祭事の二日目の夜には感謝の意を示す『隠君子の舞』を奉納するようになったという。


 この長い講説を半分聞き流しながら耳を傾けていた赫夜だったが、堪えきれなかったあくびを思わず零しそうになった、その時。


 ゴゴゴ、という地鳴りのような振動が足を伝って二人の脳を揺らした。感じたことのない振動に二人はぴたりと挙動を止め様子を伺った。暫くしてようやく治まりすぐさま立ち上がった赫夜が向かったのは烏の間の外で待機している乳母“揺籃ヨウラン”のもと。襖を開けると長らく待ちぼうけをくらい船を漕ぐ揺籃の姿があった。


「揺籃」

「っは、赫夜! 失礼いたしました」

「それより今大きく揺れたが大丈夫か?」

「…揺れ、でございますか? いえ特には感じませんでしたが」

「なんだと…?」


 赫夜と十五夜を黙らせるほどの大きな振動を何故か揺籃は感知していなかった。焦っていた赫夜は拍子抜けをくらって呆然としていると、背後から十五夜に呼びかけられ揺籃に「ならいい」と返して襖を閉めた。あの振動でも動じない十五夜はどうやら原因に心当たりがあるようだった。


「落ち着きなさい。大丈夫、心配はありません」

「なんでそう言い切れる?」

「今の揺れの原因が、地面からではなく“龍脈”から与えられたものであるからです」

「龍脈から!?」

「はい。でなければあの振動を感知した時点で、神官たちが騒いでいないことが不自然です」


 そう言われて赫夜はあの振動を受けて社殿の誰も騒いでいない不自然さにようやく気づき、これが自分達二人にしか認識できないものだと再確認すると、気の抜けた身体はすとん、ともといた座布団の上に戻った。一度早まった鼓動を落ち着かせようと深呼吸をしたのち、赫夜は話を続ける。


「…で、どうして龍脈が突然振動を? 心当たりは?」

「あるわけなかろう。大体龍脈あれは常に我ら烏師の結界に守られておる。接触することなど容易くはない。それに…」

?」

「龍脈自体に問題はなさそうだ。振動の原因になったのは、楔となっている“柱”の方であろう」

「領主たちに守らせてるあの天守のこと?」

「あの天守が“柱”そのものであるいう話はしたな。その天守の地下には龍脈に直接繋がり力が漏れ出さないよう“蓋”がある。そこからなら龍脈が振動する程の影響を与えられるだろう」


 だがそこは固く守られている、ということは赫夜も知っていた。“蓋”自体にも強い結界が施されていて、人の手で容易に開くものではない。それがもし万が一にでも開いたとなれば大事おおごと。今にも原因を追究しに行ってしまいそうな赫夜を冷静な十五夜が制止した。


「…そちらの調査は我々の方で行います。貴方には何が何でも今回の祭事を立派にやり遂げてもらいますから」

「はぁ!? なんでっ」

「優先順位が違います。私の目がないからといって、手を抜くのではありませんよ?」


 いいですね、と念押しされた赫夜はこれ以上反論を許されず、後の時間は黙って静聴させられたのだった。


 しかし赫夜の本心は、無理矢理にでも祭事そのことから意識を逸らしたかった。もし祭事がすべてうまくいってしまったら、朔夜が、そんな不安があったからである。



 ❖ ❖



 そしてそれからひと月後、各領主たちを招集して祭事の日を迎える。祭事は二日続けて行われ、一日目は御所内で烏兎の二人と公卿らのみで行われる祈祷の儀があり、二日目は日暮れに宴席を用意して領主たちを招き、舞姫たちが烏兎の先祖らに捧げる舞を披露するのだ。

 その為、二日目の前日に到着した領主たちは御所の外のそれぞれに用意された邸にて翌日の夜を待ち、次の日の日が沈む前に昇殿する。この際に領主と同行できるのは領主の家族と、御付きの者が一人と決まっており、それ以外の者は各々の邸にて待機させられる。

 今回、祭事に際にして庚辰こうしんに赴いた東の青帝せいていこと“青林セイリン”は父の名代として正室の“陽炎カゲロウ”と、側近の“涼風スズカゼ”を連れてやって来ていた。参内した青林は祭事の行われる中殿の西の庭に案内されると、中殿の建物を正面に庭の中央に設営された舞台の左側の各領主たちの席に着いた。席の並びは領主たちの格によって決まっており、一番中殿に近いのが北の玄帝“玄冬ゲントウ”とその嫡男“幽玄ユウゲン”である。その隣に座ったのが、青林たちである。青林のすぐ隣に妻の陽炎が座り、あまり身体の丈夫でない彼女を青林は心配した。


「…大丈夫か? 本当なら城で待ってもらった方がいいのだが」

「ご心配なく。可愛い従兄弟の大事な祭事を欠席するわけにはいきませんわ。本当だったら、その前の成人の儀にも出席したかったというのに、貴方様が駄目とおっしゃるから」


 前回、青林が陰陽国に赴いた朔夜たちの“成人の儀”に際し、本心では共に祝いたかった陽炎だったが、その二日前から体調を崩していた彼女の身を案じた青林に置いてけぼりにされたことを未だ根に持った言い方をした。しかしその件に関して一歩も引かない青林に今にも夫婦喧嘩が始まりそうな雰囲気を崩したのは、夫婦の隣に後から座った南の赤帝せきていこと、“朱鷺トキ”だった。


「――相変わらず仲が宜しいようですな、青林殿?」

「朱鷺殿、お久しぶりです」

「まぁ、赤帝殿。ご無沙汰しておりました、陽炎でございます。…ところでそちらは?」


 病弱故、あまり行事に参加できない陽炎は久しぶりに対面する朱鷺に挨拶すると同時に、その隣に座った若い少年に目を向けた。


「紹介が遅れました。これは私の息子の“朱槿シュキン”でございます」

「…お初にお目に掛かります、奥方様」


 父の朱鷺に急かされ、遠慮がちに挨拶する少年——朱槿の初々しい様子に陽炎は微笑ましく笑った。まだ反抗期真っ只中といったその様子に、自分のまだ反抗期すら迎えていないが少し生意気な口を利くようになった息子を重ねながら挨拶をした。


「まぁまぁ、ご丁寧に。青林が妻、陽炎カゲロウでございます、以後お見知りおきを」

「…はい」

「まぁまぁ。とっても可愛らしくて、とっても赤帝殿によく似ておられますね」


 普段あまり陽炎のような女性と接する機会のない朱槿がオドオドとしている様を微笑ましく見つめながら、朱鷺は前々から気に掛かっていた青林の父——青山セイザンの容態について聞いた。


「そういえば、青山殿の具合はどうなんだ。この前は少し顔色が良くなったと聞いていたが?」

「…いや、また悪化したようで今日も私は父の名代として出席した次第だ」

「なんと。では青山殿にはお大事に、とお伝えしておいてくれ」

「あぁ…。いや、原因はわかっているんだ」


 元々容態の芳しくなかった青山セイザンが体調を崩した原因に心当たりがある青林は、少し吃音どもり気味にその事を朱鷺に耳打ちした。


「…実はな、一カ月ほど前にその、陰陽国から一人の男が転がり込んできたんだが…」

「ふむふむ?」

「その男が、父上と面会した直後、何者かの手によって、その…、“暗殺”されたんだ」

「……はぁ!?」


 思わず大声を上げてしまった朱鷺に静かに、と手振りする青林に慌てて口を閉じた。しかし驚かずにはいられなかった朱鷺は、動揺する口調で詳細について問いただした。


「ど、どういうことなんだ? 青山殿はその男と一体何の話を…?」

「詳しくはわからない。何せ父上が私に教えてくれないものでな、完全な蚊帳の外だ。しかしその男の死やその後に続いた諸々の事情による心労が祟ったらしい」


 青林は自身が跡を継いだというのに父や古い家臣たちからまだ世話を焼かれて気を遣われているのが相当不服なようで、そのことへの愚痴をブツブツと呟きながら給仕の女官に注がれた酒を呷った。この後烏師から下賜される菊酒が待っているというのに、このままでは悪酔いしてしまいそうな勢いに陽炎と涼風スズカゼから制止が入る。


「殿、飲みすぎはおやめください」

「涼風の言う通りです。貴方、そんなにお酒強くないでしょう」


 どうにも弱い二人から制止され青林は仕方なく盃を置いた。落ち着いた様子の青林に朱鷺はちらりと朔夜たちがいるであろう御簾を目の端に捉えながら青林に耳打ちする。


「…この事、お二人にはもう?」

「いや。その男がどういう意図で父を訪ねたかわからない今、お二人に話すのは憚られる」

「しかし、ただの男が態々青龍の隠居に御目通りを願うなんて、よっぽどの――」


 そこまで推理した朱鷺の頭に同じく先月自身の身の回りで起こった“とある出来事”を思い出してハッとする。


「…まさか、この前の“流罪の件”と何か関係が…?」

「なに、“流罪”? そんな重い刑罰がどうかしたのか?」

「実はな、同じ先月のことなのだが。陰陽国から遣いの者が来て、罪人二人の刑の執行の為、我が陵光領の港の船を貸して欲しい、と言われたんだ」


朱鷺の話では、先月の初旬に陵光領に使者としてやって来たのは前々より陵光領の国司を務めていた“華岳カガク”という男で、つい最近国司の任を外れて国に帰ったはずだったが、中納言に昇任して朱鷺に面会を求めてきたのだった。彼の要望は、“近々陰陽国の重罪人二名を流罪の刑に処す為、その際に陵光領の所有する船を一隻貸してほしい”とのことで、朱鷺は怪訝な顔をしながらも兎君からの勅命と聞き、快く船を貸し出したのだ。この聖地で一番に重い刑罰である“流罪”を生まれて初めて耳にした朱鷺の衝撃は今もまだ残っている様子だった。


「しかし、流罪か…。確か数十年前にも一度執行されたはずだ、その時は我が朱雀も“とある問題”を抱えていた時期で、城内がごたついたことだけが文献に残っていたはずだ」

「で、一体どこの誰がそんな重い刑罰に処されたんだ?」

「…元大納言の敗醤ハイショウと、元中納言の常夏トコナツの両名だ」

「何?!」

「他にも、公卿の大半が任を解かれて一家は離散したそうだ」


 それを聞いた青林は改めて正面の席に並んでいる陰陽国の公卿たちの顔を見比べ、その何人かが見覚えのない顔に変わっていることにようやく気づいた。


「何故そんなことに…」

「…詳しくは知らないが噂によれば、例の敗醤と常夏の二人を主犯に、派閥抗争が起こったそうだ」


 陰陽国内で起こった出来事は基本的、外には伏せられる決まりになっている。それは領主相手も同様。しかし陰陽国の秘密主義は人の口を戸を立てることまではできず、微かな噂が尾ひれを付けて領主たちの耳に入ることも暫し。今回の派閥抗争のことも、朱鷺は他の口の堅くない官吏たちの噂話にこっそりと聞き耳を立てて仕入れた情報だった。


「だが公卿同士の諍いに、兎君がそこまでの沙汰を下すとは考えにくいが」

「それが、両名の抗争で神輿みこしとして勝手に担ぎ上げられたのが朔夜様と赫夜様の御二人でな。自分達の与り知らぬところで烏師と兎君の抗争になっていたことが、よっぽど朔夜様の腹に据えかねたそうだ」

「…あの温厚な朔夜様を怒らせたとは、それで流罪か」

「納得はできるが、あまりいい気はしないな。前回流罪が執行された御世も、随分と都は荒れていたらしいからな。今後の朔夜様の治世にも影響がないといいが…」


 前回罪人に対して流罪を執行した十代目兎君“日高ヒダカ”の妹を失ったその後はとても悲惨ものだったという。最愛の妹“日和ヒヨリ”を失った彼に残されたのは、慰み者たちの多くの妃たちの蔓延る後宮と、亡き正后きさきの産み落とした。どこで運命が狂ったのか、即位して早々に授かった跡取りは一女二男の三つ子であり、次期兎君の候補となる男児が二人だった。その片方はまるで烏師のような白い髪と赤い瞳をした、亡き妹に似た子供だったらしく、兎君はその子をまるで代わりのように可愛がったというが、その後その子供は程なくして謎の病に罹り命を落とした。次々に起こる悲劇に遂に心を病んだ兎君は、その時十八歳の息子に玉座を譲ると御所から身を引いて、都の端に用意した離宮に移りのちに病死した。

 『藤花事件とうかじけん』に加えて『烏兎の三つ子』など、災厄の多かった十代目の御世のことは脈々と語り継がれており、その二の舞にならないことを朱鷺は内心危惧していた。

 そんな二人の心配を余所に、浮かれきった既にほろ酔い状態の陽春ヨウシュンが娘婿の青林に酌をしにやって来たことに一番顔を顰めたのは、実の娘の陽炎だった。


「――—久方ぶりでございますな、青林殿。我が孫二人はお元気ですかな?」

「陽春殿…。はい、青葉アオバ浅葱アサギも病気一つなく」

「そうでございますか! …因みに、陽炎の妹で私の娘の“朝陽アサヒ”がおりまして、これが母親によく似た美しい娘でして…」

「え…」


 陽春には陽炎の他に次女の“夕陽ユウヒ”と三女の“朝陽アサヒ”がいることは前々から知っていたが、末娘の朝陽は三才で青林の息子の青葉アオバもまだ四才。いくら歳が近いとはいえ、まさか叔母という立場である自分の娘を孫に勧めてくるとは、一体何を考えているのだろう、と怪訝な顔を浮かべる青林に対し、隣に座った陽炎はあからさまに顔を顰めて実父への嫌悪を露わにした。

 そんな二人の反応などお構いなしの陽春は更に娘の自慢話を始めようとするも、背後からやってきた女官に耳打ちされ、一瞬にして上機嫌なその顔を真っ青に染めた。そして跳ねるように振り向くと、少し離れた自身の宴席の隣で座して待つ妻の姿を捉えた。

 陽春の妻であり陽炎を含める三人の娘たちの母である女性“遊糸ユウシ”は、顔こそにこやかな笑顔を浮かべているものの、その背後からは恐ろしいほどの負の空気オーラがどよめいており、何も言わずに陽春に向かって「いい加減にしろ」と叱咤していた。そんな妻に過去の経験から得た恐怖を呼び起こされた陽春は、それまでペラペラと語っていた口を閉じると青林たちに軽く挨拶してそそくさと席に戻っていった。

 その様子を他人事として見物していた朱鷺は、思わず吹き出しそうになるのを抑えながら気苦労の絶えない青林の肩を叩いた。


「…っさ、流石の陽春どのも、皇女ひめみこの奥方様には勝てぬ、ということかっ」

「……助かります。もはやあの様子の義父殿ちちうえどのを止められるのは、遊糸様しかおりますまい」


 陽春の妻で三人の娘の母である遊糸の実父は、二代前の兎君“煌夜コウヤ”であり、朔夜たちの母である“十六夜イザヨイ”の一番年の近い異母姉であった。歴代で一番多かった煌夜の子供たちの中で子女でもあった。

 恐ろしい笑みを湛えて背後に閻魔を携えた妻の隣に戻った陽春の顔は強張っており、ぎこちない動きで妻の方に振り向けば遊糸ユウシは真っ直ぐに前を向いたまま苦言を呈した。


「…旦那様。根回しも結構ですが、あまりやり過ぎますと陽炎のように嫌われますよ。わたくし、まだ怒っていますのよ?」

「す、すまない。し、しかし、私はいつでも娘たちの将来のことを第一に考えて、だな…」

「…まぁ、夕陽ユウヒに関しては本人のやる気が困りものなんですけれど」


 三姉妹の中で一番自分のことになると周りの見えなくなる自己中心的な娘のことを考えながら、来席者が全員集まったところで始まった大舞台での娘の舞姿を遊糸は静かに見守った。

 庭の中心に設置された舞台の正面は兎君の視界を遮らぬように開けてあり、舞台の左右から領主と公卿たちに見物されながら選抜されされた四人の舞姫たちは太鼓と鈴の音に合わせてその舞姿を披露する。

 今回選ばれたのは、公卿から二人と国司から二人。国司の二人はそれぞれ北の執明領しつみょうりょうと西の監兵領かんぺいりょうから選抜され、二人とも引けを取らぬ美しさだったが、所詮彼女たちは前列の二人の引き立て役に過ぎなかった。

 前列の右側にて舞を披露するのが、陽春自慢の分家の娘、夕陽ユウヒ。歳は朔夜たちと同じく十五歳で、まだ幼さの残る丸みのある輪郭と大きな瞳、何一つ自分で行うことのない指先は白くしなやかで、少し微笑めばその愛嬌で見る者の視線を集めた。陽春が強引に押すだけはある、と朔夜は関心したものの、幼い頃から変わらない人を見下したような高飛車な態度から治っていないことに、朔夜は内心ガッカリした。

 一方でその隣で静かな存在感を放つ一人の女性に目が向いた。夕陽とは正反対の大人の女性の雰囲気を醸し出しているのは大納言に昇進した桔梗キキョウの娘、蛍袋ホタルブクロ。深く濃い紫色の瞳の舞姫の動きには一片の無駄がなく、かつ迷いがない。堂々としていながら繊細で儚げな印象を受けるその美麗な姿に、見る者の視線はやがて釘付けとなり誰一人、夕陽に目移りする者はいなかった。そのことが面白くない夕陽の表情はみるみるうちに多少なりとも歪んでいき、せっかくの晴れの舞台で不機嫌な顔を晒す娘を陽春は焦燥しながら見守ることになった。

 そしてそんな二人のやり取りの外で与えられた役割を淡々と熟すのが、左大臣“冬牙トウガ”の義妹、梅枝ウメガエ。数合わせと義兄の面子の為に選抜された彼女だが、その素直で無駄のない舞姿に目を奪われる者も少なくなかった。


 やがて水面下で女たちの嫉妬が飛び交う中、舞は無事に終わりを告げ、舞姫たちはその場に膝をついた。そのまま動かなくなりしんと静まり返る会場に、青林は隣の朱鷺に何事かと問う。


「…どうしたんだ? 何故退場しないんだ?」

「あぁ、青林殿は今回が初参加だから知らなくても無理はないか。あれは今、兎君による『品定め』の最中なんだ」

「し、品定め?」

「あぁ。昔からの風習らしいのだが、陰君子の舞に選ばれるというのは同時に入内ができるまたとない機会を得ることに等しいそうだ」


 それは長い陰陽国の歴史の中で、時が経つに連れて奉納の舞が別の意味合いを持つようになった結果である。

 四代目兎君の代より始まった祭事の二日目は未だ未婚の舞姫たちの舞によって幕を閉じる。それが風習化してから三つの代を経て第八代目兎君の御代、当時の兎君はその生母の美貌を余すことなく受け継いだ生粋の美青年であり、陰陽国だけでなく領主の娘たちからも憧れの的だった。そんな彼の前で舞を披露することになった年頃の舞姫たちは浮かれに浮かれ、些細ながら例年ではありえないほど各々に着飾った。そんな彼女たちが舞を披露する姿に兎君は大層喜んだそうで、特にその中でも当時の大納言の末娘に一目で心奪われ、祭事ののち彼女の入内に自ら切望した。その後入内した娘は兎君に一層の寵愛を受け、見事双子を出産した。

 このことから隠君子の舞姫に自身の娘を選ばせれば入内も夢ではない、という公卿たちの意識が芽吹き、それが次第に宮中へと根付いたのだ。


「その品定めが終わったのち、お眼鏡に適った者がいた場合は兎君から直々に“和歌うた”が送られる。いない場合はそのまま退場を命ぜられる運びになる」

「なぜ和歌うたなのだ?」

「祭事の前に選ばれた舞姫たちの名前にちなんだ和歌うたを予め選別していて、その中から気に入った娘にちなんだ和歌ものを選ぶんだ」


 そう懇切丁寧に朱鷺が説明している中、その隣の玄冬の嫡男、幽玄が下卑た視線で舞姫たちを舐めるよう観察していた。


「いやはや、さすがは陰陽国。女の質も北とは打って変わって良質だなぁ。北方の女は皆、寒さのせいか肉付きが良すぎるのが如何せん―――」

「――幽玄、その辺にしておけ。両殿下の御前だぞ」

「いいじゃねぇか、親父殿。俺だってつい先日嫁を亡くして寂しい身なんだぜ? 少しは慰めてくれや」

「その嫁御が死んだ原因がお前さんの浮気癖でなければ、同情もしてやったがな。間違っても兎君の后に手を出そうなどと思うなよ? 折角あの樹雨出来損ないを婿入りさせて生まれた儂の大切な“足掛かり”なのだから」

「確かに。あの出来損ないが初めて役に立ったんだもんな。大事にしねぇとなぁ」


 そんな親子揃って下卑た会話をする二人の姿を実は御簾越しに樹雨キサメ本人が見ているとは梅雨知らず、更に幽玄は舞姫の中でも特に梅枝に視線を向けた。


「特にあの、梅枝とかいう女がいいな。あいつ、冬牙の義妹いもうとらしいじゃねぇか? なんとか俺の後妻にならねぇかな」

「それは無理だな。彼女はこの場にいるが、既に後宮入りしておる。后までとはいかないが、兎君のお気に入りと耳にしたことがある」

「ちぇ、なんだ。大人しそうな顔してとんだ女だな。――いや、それとも冬牙あいつの差金か?」


 あの小賢しい異母弟おとうとなら或いは、と勘繰りながら向かいの席に座る冬牙を一瞥する。そんな視線に気づきながらも無視を決め込んだ冬牙は兎君の御簾から神官が離れたのを見てそろそろだ、と口を付けていた杯を盆の上に戻した。

 神官は兎君より予め託された和歌うたの一覧表から緊張の面持ちで一つの指定された和歌うたを読み上げた。


「それでは、兎君よりの贈歌でございます」


「――― “鳴く声も 聞こえぬものの かなしきは 忍びに燃ゆる ” 以上でございます」


 和歌うたが読み終わり一気にざわつく公卿側の席と舞台の上と、一方でその有様をぽかん、と見つめる領主側の席。狼狽える者たちの動揺の声に混じり、そんな馬鹿な、と夕陽の絶望の声が響いた。ざわざわと一向に収まらない空気に、左大臣の冬牙が一喝した。


「――静粛に! 皆々がた、両殿下の御前でございますこと、お忘れなきように」


 この状況に一切動じず冷静に対処する冬牙の姿に誰もが感嘆するが、実は彼は予めこうなることを予想していたのだ。祭事より半月ほど前にを偶然にも目撃していたわけなのだが、実はそれを目撃していた人物がもう一人いた。だがその人物――陽春ヨウシュンは何故か驚いた様子を見せていたので、冬牙は何故かと首を捻るのだった。そして冬牙の他にもう一人、この場にて冷静な男がいた。


「…以上で幕引きでございます。舞姫方は一度下がり、各々の一族の席へお戻りを」


 動揺する彼女達にそう指示したのは、右大臣の界雷カイライ。その彼の鋭い視線を感じた息子のトモエは思わず肩を震わせながら、舞姫達を誘導した。この場はおとなしく指示に従った彼女たちだったが、夕陽の憎悪を満ちた視線は祭事が終わるまでずっと、蛍袋に向けられることになった。



 その後、祭事の終わりに御簾から赫夜が姿を現し、その場に出席する者達に空の盃を掲げるよう指示する。その盃に覆面をした神官たちが一杯の酒を注ぎ、全員分を注ぎ終わると赫夜が袖の下から突如、一つの“扇”を出現させた。それはただの扇ではなく、美しい太陽と月の細やかな細工の施された鉄製の扇で、赫夜の腕の半分もの大きさのそれを軽々と振り上げる姿に、朱槿シュキンは開いた口が塞がらなかった。


「…父上、あれはなんですか?」

「あぁ、あれは“神器じんき”さ。兎君同様に、代々の烏師が継承する神器、銘を『弦月げんげつ』という」

「あれが、神器…。俺もいつの日か」

「…そうだな。お前が一人前になって、華月カゲツ朱華ハネズを守れるようになったら譲るさ」


 赫夜の神器を羨ましそうに見つめる朱槿に、今は腰から離した“相棒”を思い出しながら朱鷺はそう告げた。


 鉄扇『弦月げんげつ』を大きく振り上げた赫夜はその場に心地良い夜風を吹かせると、その風は掲げられた杯の水面に一輪の菊の花を齎した。杯に注がれた酒の水面にそっと降り立った菊の花はくるくると回り、透明な酒の色をみるみるうちに黄金色へと変化させていった。その不思議な菊の花が全員の杯に行き渡ったのを確認した赫夜は、鉄扇を下ろし乾杯の前の祈りを捧げた。


「 ”けまくもかしこき大いなる龍神の恵みと加護を与えたもう聖なる烏より、祝いの神酒を我等の愛する子らに” 」


「 “我等が育みし愛おしき子らよ、永久とわの安息をここに” 」



 そして彼等は一気にその祝福された一杯を、飲み干した。その杯の陰で、紫色の女が密かにほくそ笑んだ。

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