第肆拾伍話 徒花の棘〈三〉


 ——…、


 おいで おいで


 さぁはやく、こちらへおいで


 わたしのかわいい、かわいい、後胤


 よりもかわいい、


 かわいいかわいい、わたしの唯一の後胤


 もっとちかくで、その顔をみせておくれ。



 …声がどこからともなく聞こえてきた。

 それはまるで耳元で直接語りかけるようにスッと頭の中に入ってきて、僕の足を勝手に動かす。嗄れた囁き声は僕の脳の機能を惑わし、僕の意識は遥か彼方に追いやられる。ボーッとする視界から得られる情報を処理する能力さえも失われ、フラフラとした足取りで辿り着いた先は、天守の地下。ここに入るのは僕でも一、二回程度。普段は決して入れないのに、今日だけは警備の姿も見当たらない。どうしたことだろう?

 そんな僅かな思考すらも地下へと続く階段を降りる度にあの声に遮られ、僕は言われるがまま、導かれるがままに階段を降りた。最後の一段を降りてそこにあるのは、大きな“釜の蓋”である。正確には銅造りの円形の扉のようなものが、地面に埋まっている。昔ここに連れてきてくれた兄曰く、これが我々の守る“柱”なのだと言う。“柱”とは天守そのもの、そしてここは柱の根本、龍脈に唯一繋がる“穴”。領主の秘事についての話を呆然と思い出していると、その銅の蓋の奥が突然唸り声のような地鳴りを響かせ、固く閉じられたその口を左右を開き始めた。そこから漏れる冷気のようなものはなんだかとても悪いものに感じて、僕の心は一歩下がったけれども身体は一歩も動かないでいる。


 帰らなければ。


 そうだ、早く戻らないと怒られる。


 涼風スズカゼさんに、任された仕事が…、ある、


 そう、戻らなければ。それを思い出した途端、身体を支配されていた感覚が一気に抜けて自力で立っていなかった足は脱力してその場に尻餅をついた。足が、うまく動かない、まるで自分のものではないような…。

 そんなことを悠長に考えていた僕は気が付かなかった。開いた釜の底から、。気がついたのは右足首を掴まれた瞬間で、足首を掴んだのを皮切りに他の手は僕の身体のあちらこちらを掴んだ。がっしりと掴まれた身体が黒い手にずりずりと引きずられていることに気づいた僕は必死に身体を捻り腹這いになると、出口に向かって力の限り叫んだ。


「―――た、助けて!! 助け、助けて!! とうさん! かあさん! にいさん!!」

「い、いやだ!! たすけて! たすけ―――っ」


 その時、伸ばした左腕に真っ黒な刃が振り下ろされるのを僕は目の端に捉えた。



 ❖ ❖




 東『孟章領もうしょうりょう』 風真一族所領

 風真陣屋フウマじんや


 各領地には代々領主に仕える家臣たちがおり、その家臣のほとんどが大なり小なりの己の所領を有している。中心の陰陽国の都に比べて広大な土地のある領地の統治は一人の領主のみで賄えるものではなく、その為領主から所領を与えられた家臣、老中らは所領にも屋敷を持ち、定期的に様子を見に行っていた。

 そして初代青帝の時代からの忠臣の家柄として知られる『風真フウマ一族』は初代より与えられた土地を領内の北方側に持っており、そこには風真のもう一つの屋敷、陣屋(じんや)が建っている。一族の住居であると同時に役所としても機能する陣屋は常に人の出入りが多く、バタバタと行き交う人々の足音を聞きながら、“涼風スズカゼ”はふと目の前に敷かれた布団の上で眠る父“春風ハルカゼ”に目を向ける。すると固く閉じられていた皺だらけの瞼がゆっくりと開いた。


「……ここで何をしておる、涼風」

「勿論、所領の様子を見に。そのついでに、


 目の前に父がいながら敢えて強調するように母の見舞いだと告げた息子に、春風は眉間の皺を深くした。


「頻繁に来る必要はない。儂もあやつももう年じゃ、お迎えはそう遠くないであろう」

「…ならば、今一度“面会”の御許可を」

「それはならぬ」

「何故?! もう長くないとおっしゃるのであれば、母上の今際の際の願いを叶えて差し上げようとは思われないのですか?!」

「……」


 涼風の母を思う必死の訴えにも無言を貫く父に、あぁこの人は病床に着いたとて変わらぬ、と心底呆れ果て、静かに諭すように語り出した。


「…父上が病に臥せった頃、私一人の力で行方を捜そうとしました。しかし貴方は未熟な私より一枚も二枚も上手で、残念ながら見つけることはできませんでした」

「…だろうな」

「父上のおっしゃることはわからなくはありません。しかし、母上は会いたがっております。


 それは風真の家に生まれた者が墓場まで持っていく“罪”の話であり、生涯抱え続ける“後悔”の話であった。

 代々、青龍の旗を背負う『青帝』に仕えてきた風真一族には、とある掟があった。それは“風真の名前と家を継ぐ者は一人だけであり、”というものだった。その習わしを涼風が初めて聞かされたのは彼が十歳の時であり、それと同時に自身には二つ違いの“弟”がいたことを知った。思い返してみればある一定の期間、母と面会できなかった時期があったことやその期間を過ぎた頃の母が随分と憔悴していたことなど、思い当たる点は多々あった。その全ての点と点が繋がった瞬間、涼風が真っ先に思ったのが『弟に会いたい』という感情。しかしそれが叶わぬことも、その場で聞かされた。


「…風真の家も財産も、そして“最大の秘密”も全てを継ぐのは一人のみ。後の子らは家を追われ、二度とその敷居を跨ぐ事はできない。なんと馬鹿馬鹿しい掟でしょうな、父上」

「言葉を慎め。それらを忠実に守り、この地を支え続けた御先祖への侮辱じゃぞ」

「…風真の抱える事情について、それをひた隠さなければならないことは重々理解しております。しかし、ならばその兄弟たちにも協力してもらえば良いと、私は思います」

「甘いな。秘密を知る者が多ければ多いほど、その機密性は低くなる。それに秘密これは、我々だけの問題ではない。なのだから」


 風真の当主が代々背負ってきた“秘密”については、昔目の前の父の口から聞かされたが、その重圧と衝撃は凄まじく、当時の涼風は全てを知ったのち三日三晩は高熱に魘された。これを他にも抱える者がいたとするならば、重圧に耐えきれず秘密を漏らす者が現れないとも限らない。

 しかしそれは所詮、母には関係ないこと。


「…家に連れ戻そうとなどとは思っておりません。ただ一目、母に立派に成長した弟の姿を拝ませてあげたいのです」

「……」

「どうか、どうか、何卒お願いしますっ」

「…———」



 その父の返事が相も変わらず「否」であったことに愕然としたことを不意に思い出し惚けた涼風の無防備な脇腹に向けて小さな体躯が懸命に竹刀を振り上げ、「隙あり!!」と叫んで、我に返った。向かってくる竹刀の先を避けながら、自身の手にしていた竹刀で相手のそれを弾き飛ばし、得物を失って呆然とした相手に優しく指導した。


「良い太刀筋です。私の隙を突いたことは見事でしたが、その後の油断はいただけません」

「…もぉ、今回こそは勝ったとおもったのに。まだまだ涼風はつよいよ」

「いえいえ、前と比べれば格段に腕を上げられておりますよ、青葉アオバ様」


 先ほどまで涼風が思い起こしていた光景は実は三日前のものであり、結局あの日は春風の説得に失敗した涼風は消沈したまま城下に帰り、今は城内の屋敷の庭で主人である青林セイリンの嫡男“青葉アオバ”の稽古の最中であった。稽古中に意識を疎かにしていた自身に猛省しながら、まだ幼い青葉に丁寧に剣の稽古をつけていた。

 すると突然庭に向いている一室の襖が勢いよく開き、中から随分と険しい表情を浮かべた女性が出てきた。その姿を見て咄嗟に涼風はその場に膝を着いて頭を下げた。一方で青葉は後頭することはなく、ただ黙って去っていく女の姿を見送った。

 そんな二人の視界の先を通ったのは、先代当主“青山セイザン”の継室である“逃水ニゲミズ”その人。涼風にとっては仕えるべき人物の一人であり、青葉にとっては義理の祖母であるが、青葉はそんな祖母の後ろ姿を忌々しそうに睨みつけた。


「…また母上をいじめにきてたんだ、あのばばぁ」

「こら若君、いけませんよ。大殿の奥方様にそんなことを言っては」

「ほんとのことだもん。みんな言ってたよ、母上が“よそもの”だからだって」


 意味もわからないまま覚えた言葉をまま口にする青葉の無邪気な顔に涼風は絶句すると同時に、そんな噂話が青葉の耳にも届くようになっている城内の現状に怒りを覚えた。

 前々より青林の正室でありながらあまりいい顔されていないことに陽炎カゲロウが思い悩んでいたことを密かに知っていた。しかし大老の地位ではある涼風は所詮は家臣の身、無闇に口を出すことはできなかった為、常日頃からもどかしい気持ちを喉の奥に詰まらせていた。だがせめてもとこの話が幼い青葉の耳に届かないように十二分に配慮してきたが、まさか少し留守していた間に何者かが軽率に噂を溢していたとは、涼風は自分の認識の甘さに頭を抱えたくなった。

 そしてこの件に関しては、当事者の一人である青林にも多少の問題があった。


「…若君、お父上はこの事に関してなんと?」

「べつに何も。さいきんはお仕事がいそがしいから、母上に顔もみせにこない」

「左様ですか…、まったく」


 思わず主君に対して愚痴をこぼしてしまった涼風だが、実はこの二人は赤子の時からの付き合いであり、端的に言えば“乳兄弟”であった。涼風の母は先代の奥方とほぼ同時期に出産しており、丁度良いということで春風の提案で青林の乳母に任命されたのだ。故に幼い頃から兄弟のように育った二人は他の家臣たちに比べて気安く、周りの目のないところでは偶に砕けた口調で会話したりもする。生まれた時期は涼風の方が数カ月だけ早いため、まだ当主としては未熟な青林のことを兄のように心配している節があったのだ。

 そして噂をすればその“青林セイリン”が先程逃水が出てきた一室に入っていく姿を見つけ、青葉と共にその背中を静かに見守った。ピタリ、と閉じられた襖の向こう、暫しの沈黙ののち、凄まじい衝撃と共に二枚の襖が外れて飛散し、その向こうからぽーん、と一人の体躯が庭先に飛び出してきた。青葉と涼風の足元に倒れ伏したそのなんとも情けない成人男性の姿を見つめながら、一緒に飛んできた脇息きょうそくが庭を転がり、襖のなくなった部屋の奥から地獄の底から響き渡るが如く恐ろしい女の声が響いた。


「――—なにが、“息災か?” ですって…?」

「……っ」

「随分と呑気なものですこと。ねぇ、?」

「ち、ちがう、決して呑気に言ったわけでは…っ」

「…はい?」

「……いえ、なんでもありません」

「御方様!! 御身体に障りますので落ち着いてくださいませ!!」


 もはや拾い上げた脇息で今にも人一人殺しそうな勢いの一人の女――もとい、陽炎カゲロウに情けなく萎縮し頭を垂れる主君“青林セイリン”の姿に、涼風は呆れを通り越して若干幻滅した。元々正室に頭の上がらない人ではあったが、まさかここまでとは、と冷たい視線を送っていると開かれた座敷から赤ん坊を抱えた中年の女性が現れて陽炎を制止した。女が抱えている赤ん坊は大人たちの喧騒に動じる様子は一切なく、穏やかな寝息を立てて眠っており、その赤ん坊を受け取りに青葉が駆け寄った。


「ほら、おれが抱っこしておくよ。おいで、“浅葱アサギ”」


 青葉とてまだ四つになっていない幼い身体で三つ下の赤ん坊を全力の力を振り絞って抱き留めるが、そんなことお構いなしの妹はきゃっきゃ、と喜びの声を上げた。まだ赤子であるにも関わらず自身の兄である青葉のことを認識して安心し切っている様子を見てほっとした涼風は、手にした木刀を腰に差すと未だ腰を抜かしたままの青林に手を差し伸べた。


「ほら早く立ってください」

「あ、あぁ、すまない」

「あまり情けない姿を晒しますな。当主の威厳というものもあるんですから」

「…手厳しいな」


 そう言って苦笑する幼馴染に涼風は眉尻を下げて微笑むと、貴方の右腕ですから、と答えた。同じ乳で育ち誰よりも信頼している涼風に助けられいつも調子を取り戻した青林は、ふと今日の彼の予定について思い出す。


「…そういえばお前、今日は事務仕事に励むと言っていなかったか?」

「一応言っておきますがサボりではありませんよ。事務仕事の方は新人の“左近サコン”に任せてきました。なにせ、若君に稽古をお願いされては無下にも出来ませんから」

「まったく。お前は青葉に甘すぎる」


 勿論青葉にせっつかれたのも一つの理由だったがもう一つ、老中の中で一番新米で尚且つ一番若い“左近サコン”を老中として育てる目的もあった。大老である涼風とは年齢が二つしか変わらないが、これまで両親と兄に甘やかされて育った箱入り息子な為か、まだまだ老中としては戦力にならない。やる気はあるので根気よく付き合えばそれなりに育つだろう、と思っている涼風だが、それさえも年長者の“右京ウキョウ”や“左京サキョウ”からは甘い、と一蹴されてしまっている。しかし涼風以外にもが傍に付いているので、いずれは老中として成長してくれることを期待していた。そんな新顔の未だ治らない少々生意気な口調を思い出しては苦笑していると、遠くの方から涼風と青林の名前を叫ぶ声が木霊した。


「殿――! 涼風殿――!!」


「…おや、何事だ?」


 振り返れば尋常ではない様子の家臣の男が駆け寄ってくるのに気づき、空気を読んだ陽炎が深く溜め息をつくと子供たちを連れて部屋の中に引っ込んだ。それと入れ違いに青林たちのもとに辿り着いた男は、絶え絶えの呼吸の中で急報を二人に告げる。


「て、天守の地下にっ、何者かが、侵入したようなのです!!」

「なんだと…っ?!」

「殿、急ぎ確認をっ」

「わかった。お前は少し休め」


 未だ息の整わない家臣に気遣う言葉を掛けると、二人は本丸を出て天守へと向かった。天守異常の知らせは他の家臣たちの耳にも届いているようで、多くの者達があたふたとする中、足早な二人に老中の“右京ウキョウ”と“左京サキョウ”が合流する。


「殿、どうやら警備の者二人が行方不明とのこと」

「警備が? 今回の二人は右京の手のものだったな?」

「はい、申し開きもございません。若く見込みがある二人だと思っておりましたが、失望でございます」

「右京殿、その考えは早計かと。もしかしたら何らかの事件に巻き込まれた可能性も…」

「涼風殿は甘過ぎる。そんなだから新参者の左近に舐められるのです」

「…その話は後にしろ」


 最古参の右京と最高権力者の涼風の言い合いを制止した青林は、天守の前に立って待つ初老の家臣に案内され、開かれたままの鉄の扉をくぐり地下へと降りた。長い木製の階段を降り終えようとした、その時。


「うあぁぁぁぁぁ―――!!」


 地下に野太い男の嘆き悲しむ声が木霊した。只事ではないその声に四人が案内の家臣を押し除け地下に辿り着けば、そこには事態の調査を行う者達の他に、中央の床に膝を付いて蹲る一人の大柄な男が一人。その後ろ姿に四人全員は見覚えがあった。


「っ右近ウコン殿!?」

「一体何事だ?」


 涼風と青林が駆け寄り問い掛けるも、子供のように泣き喚くばかりの右近は二人の存在にすら気が付かない始末。見兼ねた家臣の一人が右近の代わりに事の詳細について語った。


「…それが、この場所に無断で侵入したのがどうやら“左近サコン殿”だったことが判明しまして。我々が発見した時には、その…、

「っ――?! それでよく左近だとわかったな?」

「はい。右近殿によれば、左近殿の左手の小指は常人のそれより極端に生まれつき短いとのことで、その根拠と他に左近殿だけ行方がわからないことから判明致しました」


 左近の身体的特徴をよく知っているのは他でもない、兄の右近だけである。その彼が言うのであれば間違いはないと考えた涼風だが、その左近には事務仕事を任せていたはずであることも忘れてはいなかった。


「…しかし何故彼は一人でここに? 左近には溜まった事務仕事を任せていたはずなのに」

「堂々とサボりか、あの悪ガキめ」

「まぁまぁ右京殿。サボるにしてもこんな場所を選ぶなんて、普通では考えにくいです」

「それに、警備の者が二人ともいないのがおかしい」


 天守の地下に無断で侵入した左近の行動にも疑問視する点は多々あったが、同時に行方不明になった警備の存在も不可解であった。何一つ納得のいくことのないその場に、更なる報告が届いた。


「殿! 行方知れずの警備の者が見つかりました!!」

「何、どこだ?」


 その急報を受け二人の行方を聞こうと前に出た青林だったが、そこに突然腕を抱き締めたままの右近が割り込み、鬼のような形相で報告してきた家臣に詰め寄った。


「っどこだ?! 任務を放り出し、我が弟を殺した奴等は!!」

「え、あ…、あ…」

「――右近殿、気持ちはわかりますが。少し落ち着かれよ」


 殿にも無礼ですよ、と宥めに入った涼風がそう指摘すると、我に返った右近は振り返って青林に頭を下げて謝罪した。その姿は殊勝だったが、表情は今にも人一人殺してしまいそうな恐ろしいものを滲ませていた。未だ怒りの治らない右近を下がらせ、青林が落ち着いて報告の続きを尋ねた。


「で、どこにいた?」

「はい。天守のすぐ側の木の陰に、

、とは?」

「…はい、お二人とも、既に絶命しておりました」


 行方不明の警備すらも死んでいたという報告をすぐには信じられなかった青林たちは、報告した家臣の横を足早に通り抜けると、天守の外に出て裏側のすももの木の根本を覗き込んだ。唖然とする家臣達の視線のその先には、木の根本にもたれかかるようにして絶命している二人の無惨な姿があった。そしてその死体はただ絶命しているわけではなく、その状態は誰の目から見ても異常だった。

 片方の死体は両目が潰され、その口元にはべっとりと不自然な程の量の血が付着している。そして致命傷となったであろう心臓に突き刺さった刀。

 もう片方は両目は恐怖に見開き、口からは大量の血を吐いた痕跡、そして何よりその

 これらを目にした家臣の何人かは顔色を悪くして口元を押さえながら逃げていった。無理もないこの状況に、青林たちも言葉を失った。


「…一体、なにが」

「獣…とは言えない状態だな」


「――これは獣ではないですよ、青林殿」


 そう言って悲惨な現場に絶句する青林たちの横を抜けて死体の前に臆せずしゃがみ込んだのは、この場の誰よりも小柄な“弓月ユヅキ”だった。常に顔を隠しているものの、その華奢で軟弱そうな見た目に反して物怖じしないその性格で惨殺な遺体を前にして平然と自身の見解を語り出す。


「…まずこの潰された両目。これは恐らく潰されたというより、斬りつけられて失明したと思われます。それにこの刺さった刀は恐らくもう一人の物でしょう」

「つまり、相討ちしたと?」

「そうとも言えますが、流石にこの腹部の傷の説明が付きません」

「…なら、“第三者”がいたということも考えられるな」


 両目が潰されている方の死因については概ね弓月の説明で納得できたが、問題は明らかに人の手によるものとは思えない死に方をしている方であった。その場にいる誰もがそれについて頭を悩ませている中、一人怒りを滾らせ我を忘れた者が腕を抱き締め吠えた。


「っ――そやつ等の死因なぞ知ったことか!! そいつ等のせいで、おれ、おれの弟がっ」

「まぁまぁ右近殿! 落ち着いてください!!」


 大事な弟の左腕を抱いた右近は今にも無残な亡骸を更に足蹴にしようとしたため、左京サキョウが必死に止めに入りそのまま退散していった。それを見送りながら遺体の方からにちゃにちゃ、と耳障りな音が聞こえて振り向けば、世にもおぞましい場所に弓月が手を突っ込んでいた。


「…っ弓月どの、一体なにを…?」

「え、遺体の中身がどれだけ破損してるか確認してるだけだよ?」


 そう平然とした態度で答えた弓月はその間も人体の腹部を手探りする作業を止めることはなく、その間にも無力に腹の中を弄られる死体の身体は腕の動きに合わせて小刻みに揺れた。弓月が傷口をかき混ぜた影響か、辺り一帯に血の臭いが充満してきた頃、ようやく手を引き抜くと懐から出した布で手に付いた血を拭き取りながら答えた。


「結論から申し上げれば、やはりこれは獣の仕業とは言えません。ですが、人間の仕業と言うのも些か無理があるかと」

「と、言うと?」

「内臓の方は粗方残ってはいるのですが、一部欠損していたり喪失していたりしてます。獣にしては食べ残しが多過ぎるし、人間にしては

「成程」

「…よって、僕の推測では、もう一人を殺したのは恐らくは“”です」

「鬼? 鬼とは、あの、烏師様が操るという?」

「はい。正確には烏師が操るのは“鬼神きしん”であり、それ以外の自然発生したものを“おに”と呼びます」


 法術者である弓月は平然と断言したが、他の誰もその話を信じられなかった。

 当時、“鬼”という存在はあまり認知されていなかった。その理由として、鬼とは烏師が死体から造るものであって、自然発生はしない、という概念が存在していたからである。どれだけ恨み辛みを抱こうと、死した者が再び起き上がるとこなどあり得ない。そう世間一般的には認識されていた。

 それは領主である青林も同じで、弓月の突飛な推論にもちろん意を唱えた。


「いや、それは些か無理があるんじゃないか?」

「…そうですか、青林様は

「何の話だ?」

「…実は領内のとある農村で、同じようなことが起こっていたんです。つい数ヶ月前」

「そんな話は聞いていない」

「大殿から口止めされておりました故、申し訳ございません」


 そう言って丁寧に頭を下げる弓月を前に、青林は底知れぬ憤りを感じた。隠居した父に除け者にされた、と憤慨した青林は弓月にことの詳細を問いただした。


「詳しく教えろっ」

「はい。五ヶ月ほど前に起こったのが最初です。南よりの農村のとある年老いた農夫が病で亡くなりました。葬儀を終えたその夜、農夫と妻の住んでいた家から大きな物音が響き駆けつけたところ、あろうことか蘇った農夫が妻の血肉を喰らっていたとのことです」

「…農夫はどうなった?」

「村総出でなんとか首を落とし絶命させたそうです。しかしそれまで四肢を落としても動いていたそうで、その姿はまさに飢えた獣も同然」

「……それを父上は私に隠していた、と」

「えぇ。


 同じように青林が一切関与を許されたなかった事例がつい最近あったことを思い出し、弓月はその事についても触れた。

 それは半月程前のこと、陰陽国から逃亡してきたという謎の男。その職業は看守であったというが、何故孟章領にやって来たのかその理由は不明。しかし面会した青山セイザンはその理由を聞いているはずだが、それを青林に伝える気はないようで今でもそれについては禁句であった。そして何としても理由を聞き出そうとしていた矢先、事件は起こった。青山がその男に与えた座敷で、男が何者かに殺されたのだ。鋭利な刃物により首を掻き切られ、その悲愴な顔には御情け程度の黒い覆面が掛けられていた。犯人は依然として不明。そしてそれらすべてを青林は後々に弓月の密告によって知らされたのだ。

 この二つの事件に関係性はほぼ皆無だと言わざるを得ないが、青林はそこに一つの関連性を見出していた。


「…どちらも父上は私の耳に入れないよう努めたこと、少し気になるな」

「――“青林”、深入りはやめておけ。これは幼馴染としての言葉だ」

「……心に留めておこう」


 そしてその場を他の者たちに任せ、弓月は天守の地下へと降りた。実は彼もここに足を踏み入れるのは初めてのことであり、青林の後に続いて地下へと降りる弓月が興味津々に辺りを見回す姿に右京が苦言を呈した。


「…よろしいのですか? 青龍の者ではない者をここへ入れて」

「事態が事態だ、仕方あるまい。それに弓月の意見は見方が違って参考になる」

「…左様ですか」


 青林の意見に納得していない様子の右京だったが、その場は仕方なく引いた。そんな二人の会話を知ってか知らずか、尚無邪気な姿で地下に到着すると真っ先に中心の銅造りの“蓋”に駆け寄った。衣服の裾が汚れることも厭わず膝をついた弓月は、地面に残る痕跡を指でなぞる。


「…これは、血、ですか?」

「あぁ。警備の二人が外で絶命している時、老中の一人が足を踏み入れ、気づいた時には左腕しか残っていなかったそうだ」

「…成程。ならば、その方は左腕以外のすべてをのでしょう」

? 一体誰が?」

「“龍脈りゅうみゃく”、或いは“龍神りゅうじん”に、ですよ」

「そ、そんなことがあるのか!?」


 もはや弓月の見解に誰も追いつけなくなり、青林は当たり障りのない問い掛けを投げた。それに対して弓月は冷静に自分の意見を述べた。


「この銅造りの蓋が開いたか、どうかまでは僕にも分かりませんが。少なくとも腕だけとなった方の身体はこの中に引き摺り込まれたのでしょう」

「ほら、ここをよく見てください。蓋のふちから少し離れたところから血の道筋が出来ているでしょう? これは恐らく腕を切った後に胴体を引き摺った跡でしょう」

「目的や手段、犯人については依然として不明ですが、これだけは言えます。これは、紛れもなくということです」


 まるで見てきたかのように語る弓月の推理は概ね正解と言わざるを得ない。先程は泣き喚く右近がいてそれどころではなかったが、床に伸びた血の跡も、それが蓋のふちまで伸びていることも、全て納得できた。しかし問題は何故そんなことが起こったかである。


「…まさか、烏師様の身になにか?」

「いいえ、恐らくそれは有り得ません。もしそうであるならば、異変は青龍だけでなく全ての領地で起こってなければおかしい」

「恐れながら、そのような報告は受けておりません」

「…そうか、ならば良かった」


 烏師の身を心底心配する様子を見せる青林に、弓月は一瞬不機嫌に口元を歪めたがすぐにいつものように笑いを零した。


「まぁ、気になるのであれば、青林様自ら烏師殿に聞いてみてはいかがですか? 

「…そうだな。丁度来月は“陰君子節会いんくんしのせちえ”だしな」

「陰君子…、あぁ、もうそんな時期でしたね」


 開催するのは何十年ぶりですか? と聞いてきた弓月に青林は少し考えて「十七、八年ぶりだ」と答えた。

 最後に催されたのはまだ烏師の座に赫夜の母である“十六夜イザヨイ”が就いていた頃であり、彼女が赫夜たちを身籠る前のことであった。それ以降は十六夜が産後半年で亡くなったこともあり、長らく宴席のみで催されていたが、ついにこの年に赫夜を祭主に復活するのだ。


「…柱についてはお前は何もわからないのか?」

「はい。なにせ、烏師の操る『鬼道きどう』は僕ら法術者の範疇ではないので詳しいことはわかりませんね」

「そうか。やはり烏師様に聞く他あるまいか」

「それがよろしいかと」

「…助かった、ありがとう」


 あっさりしてはいたが、青林から感謝の言葉を掛けられた弓月は咄嗟のことにしどろもどろしていると、青林らは弓月を置いてその場から立ち去っていった。仮にも部外者をこの場に放置していくのはいかがなものか、と弓月は心の中で突っ込んだが、もうその頃には青林らの姿は影も形もなかった。

 一人呆然と立ち尽くした弓月は、大きく溜息をつくともはや自身すら用のないその場から立ち去ろうと踵を返した。その時ふと、手の甲に先程拭いそびれた警備の血が付いているのに気づき少し考えたのち、それ。が、すぐにその場で吐き捨て口元を顰め、誰にも聞こえない声で一人ごちた。


「…まっず。まったくもっと綺麗に喰えないのかよ、“アイツ”。まぁ急拵えにしてはいい仕事したし、良しとするか」


 そして随分と上機嫌な足取りで階段を駆け上がっていくのだった。


「―――あーあ、早く壊れないかなぁ、

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