第肆拾肆話 徒花の棘〈二〉


 稲熟月いねあがりのつき(九月)の初旬に行う烏師が主体となる催事『隠君子節会いんくんしのせちえ』は、御所内の『紫微宮しびきゅう』の北側にあたる建物、通称『中殿ちゅうでん』の西の庭にて一日かけて行われることになっている。公卿たちはこの日の為に数日前から準備に追われ、一方で烏師の方もこの時期は常に御所に身を寄せる。しかし今回は一つ、今まではなかった問題が浮上した。それは今の御世に、烏師がことだった。次期兎君である朔夜サクヤの代の正式な烏師は赫夜カグヤになるが、今烏師の聖域である后土殿こうどでんを仕切っているのは先々代の大叔母“十五夜イサヨ”、このどちらが今回の祭主を務めるか、そのことで話し合いをした結果、既に表舞台から退いている十五夜自身がこれを辞退したことにより、内心面倒臭がりながらも赫夜が祭主を務めることになった。

 準備は燕去月つばめさりのつき(八月)上旬から始まり、この頃から選ばれた“陰君子の舞”の舞姫たちが参内してくる。参内した彼女たちは宿所となる後宮内の『沈香殿じんこうでん』に自身の付き添いの童女と共に入り、そこで練習に明け暮れる日々を送る。

 しかし今回、祭主を務めることになった赫夜が前回までの祭主を務めていた十五夜イサヨのもとにその指南を受けに后土殿こうどでんに赴いた為、ひと足先に参内した娘たちは赫夜の帰りを待つこととなった。

 最初に到着したのは大納言に昇任した桔梗キキョウの娘“蛍袋ホタルブクロ”であり、それに一足遅れて参内した大納言の陽春自慢の次女“夕陽ユウヒ”は既に気が立っていた。夕陽の為に陽春が用意させた荷物を女官たちが解く中、それを意味もなく急がせる夕陽の声が沈香殿の中に響き渡る。


「――まだ終わらないの?! このわたくしが誰よりも先に、参内しなければならないというのに、この役立たず!」

「も、申し訳ございません。なにぶん、殿の用意された荷物が多いもので…」

「言い訳なんて聞きたくないわ! お前達が今やるべきことは、口より手を動かす事でしょう!?」


 理不尽にしか聞こえない夕陽の命令に女官たちは怯えながら、これ以上彼女の機嫌を損ねぬように荷解きに専念した。

 舞姫に選ばれた娘たちは後宮の沈香殿に入ると、それぞれ四方のひさしに居を構える。そこに決まった格式はないが、正面から見て兎君の居所である『青朗殿せいろうでん』に近い、西側と南側は毎回争奪戦となり、ここを勝ち取った者には兎君への入内が見込まれるとされていた。

 そして今回、蛍袋より一歩出遅れた夕陽だったが、幸いにも蛍袋は南側を陣取ったため、当初より夕陽が狙っていた西側を手に入れることができたのだ。それだけで気分は上々であるはずが、挨拶に訪れた蛍袋の余裕な態度に、夕陽は内心焦りを覚えていたのだ。そんな夕陽を宥める為、共に参内した乳母の“須磨スマ”がある提案をした。


「―――姫様。そのように体力が有り余っておいでなら、少し御所を歩いてみては如何ですか?」

「散歩か?」

「はい。いずれは貴女様の暮らす場所になりますのでしょう。見聞してみても良いのではないかと」


 乳母の須磨も、陽春同様に夕陽の入内を心待ちにしている者の一人であり、自分が手塩にかけて育てた夕陽を后にしようと、いろいろ画策しているという噂もあった。そんな彼女が機転を利かせてくれたおかげでほっと胸を撫でおろした女官たちは、夕陽が帰ってくる前に荷解きを終えようと動き出した。


 周りのそんな気遣いなどいざ知らず、自分勝手な夕陽は須磨を連れて後宮内の散策を始めた。まだ日の高い御所内は女房たちの活気に溢れており、各々の役割をせっせとこなす彼女たちの姿を鼻で笑いながら堂々と簀子の廊下を歩く夕陽の姿を目にした女房たちは青い顔をして脇に避けて道を譲った。分家とはいえ、由緒正しい『烏兎一族』の末裔である夕陽の存在は女房たちにとって朔夜たちと同等であり、畏怖すべき対象である。故に女房たちが頭を下げる姿を鼻高々に通り過ぎる上機嫌な夕陽だったが、ある一点を視界に捉えたのち、その機嫌はみるみるうちに低下していった。

 足を止めた夕陽の視線の先、そこには朔夜たちの父親である玄武一族の三男“樹雨サキメ”が暮らしている『水芹殿すいきんでん』があった。そこは夕陽にとって忌々しい“壁”であり、同時に今まで恋焦がれてきた“憧れの場所”だった。


「…いずれは水芹殿あそこわたくしのものになるのよ。そうでしょう、須磨?」

「はい、当然でございます。代々あの御殿は兎君の正式な后の方々が賜った場所。姫様が入内なさった暁には、兎君からあの場所を賜ることでしょう」

「…早く出ていってくれないかしらね。あの、

「……」


 夕陽は隠す様子もなく、樹雨への嫌悪を露わにしながら吐き捨てた。その言葉に関しては、須磨は肯定も否定もせずにただ黙った。しかしその心中は同意見だった。

 烏兎の分家は、陰陽国において一番と言っていいほど『武士嫌い』のきらいがあった。陰陽国出身の所謂“貴族”たちは、都の外で暮らす者たちを領主を含めて等しく『蛮族』と呼んで毛嫌いする者が多かった。刀を振るうことのない陰陽国の者たちにとって、汗と泥にまみれて刀を振るう彼等は異質なものに見えるようで、祭典や集会の際に行列を成してやって来る領主たちでさえ、軽蔑する者もいる。中でも烏兎の分家である陽春ヨウシュンの家は、昔から武士嫌いの者が多かった。それでも先代の陽春の父“陽明ヨウメイ”はどちらかといえば好意的で、歴代の当主の中にも各領地から妻を迎えた者もいたが、それでも根深く教え込まれたその感性は容易に消え去るものではなかった。今は特に陽春は勿論、『中納言事件』の際に刑に処された弟の“落陽ラクヨウ”も武士嫌いの筆頭であり、故に排斥しようとした、を。しかし結果的に落陽は父からも兄からも見放され、彼の理想の為に双子を望んだ妻も、生まれた乳児の一人娘を病で亡くしたのだ。短絡的な思考の落陽に比べて、些か武士に対して寛容な陽春の方は今、うまく樹雨に取り入って入内の話を優位に進めようと画策しており、それが完了すれば用済みだ、と無情にも夕陽は考えていた。


「――—さっさとあの場所から退いてほしいものだわ。わたくしが入内する前に、念入りに清掃させなければね」

「…姫様、それ以上のお言葉は慎みください。どこで誰が聞いているかわからぬ故」

「はいはい。…そろそろ戻るわ」


 言いたい事が言えて満足した夕陽は、須磨を連れて自身の部屋へと戻って行った。


 その背中をずっと物陰から覗き見ていた小柄な人影は、二人の姿が見えなくなった頃合いを見計らい、二人とは別の方向、沈香殿の南側に向かった。物陰から出てきたのは、黒髪の中に一部白いおさげを忍ばせた若い少女で、南の廂に立て掛けられた几帳の前に戻ると、中で帰りを待っていた人物に声をかけた。


「―――蛍袋ホタルブクロ様、ただいま戻りました」

「ご苦労様、瓊音ヌナト。で、例の“お姫様”はどんな様子でした?」

「それがまぁ、怖いもの知らずなことで。御所内だというのに、堂々と兎君の御父上を小馬鹿にしておりました」

「ふふ。予想通りの反応ね。思った通り、夕陽殿は後宮という場所をまるで理解していないわ」


 御し易くて助かるけれど、と楽しげに笑うのは大納言に昇任した父を持つ、蛍袋。その彼女の命令で夕陽たちの動向を探っていたのは、蛍袋の付人として参内した女官の瓊音ヌナト。自分と年の違い瓊音を蛍袋はまるで妹のように可愛がっており、瓊音の方も自身にここ以外のこともあり、蛍袋にだけは従順である。

 瓊音の報告が終わり文机に向かった蛍袋は、硯に残った墨で細い筆先を染めると用意しておいた紙の上をさらさらと滑らせた。それがふみであることは一目瞭然で、瓊音はその送り先について尋ねた。


「…どちらにお出しするんですか?」

「もちろんお父様によ。きっと私がいなくて寂しがっているでしょうから」

「…まぁ、旦那様なら有り得なくはないかと」

「ふふ。もし寂しくない、なんて言おうものなら、お役目を放り出して今すぐにでも帰ってやるんだから」

「それはおやめくださいっ」


 軽く瓊音に冗談を言いながらも納得のいく文が完成した蛍袋は紙を切り取り、綺麗に折りたたむと、それを瓊音に渡しながら一つ付け加えた。


「…そうだわ。これと一緒に“真葛さねかずら”も一輪添えておいてちょうだい」

「真葛、でございますか? なんでまた…」

「きっとそれで、だからよ」


 そう言った蛍袋の腹の底を瓊音は当たることはできず、毎度毎度この親子は本心が見えない、と内心ため息をついた。



 ❖ ❖



 同時刻

 陰陽国 『庚辰こうしん』 冬牙トウガ義両親邸宅


 陰陽国の左大臣の地位にある冬牙トウガには二つの邸があり、一つは御所に程近いこじんまりとした別宅、もう一つは冬牙が婿養子に入った義両親と妻の暮らす邸である。広さだけでいえば義両親の邸の方は申し分ないが、常に媚びへつらって付き纏ってくる義両親にうんざりしている冬牙は専ら、別宅で一人過ごすことが多かった。しかし今回はそうも言っていられない事情が冬牙を面倒な義両親の邸に帰らせることとなった。牛車に揺られる間意気消沈した様子で何百回目かの溜め息をついた冬牙に、牛飼うしかいの男が目的地の到着を告げた。正直言えばこのまま引き返したい気持ちでいっぱいだったが、恐らくこの邸内で冬牙の登場を待っている“人物達”のことを思い、仕方なく最後の溜め息をついて牛車を降りた。


 しかし、次の瞬間目に飛び込んできた光景に溜め息を通り越して、もはや絶句した。


 そこはまさに一人の男によって作り出された、酒池肉林。いや、“肉林”の方は該当する者が一人しかいないため、ただの質の悪い酔っ払いの作り出した酒宴といったところである。寝殿の弘庇ひろひさしを酒の臭いでいっぱいにしているその張本人は、自身の膳の前に寝転がり待ち侘びていた冬牙の登場に赤らんだ頬を緩めた。


「――おぉ! ようやく登場かね、我が義弟おとうとよ!」

「……お久しぶりです、野分ノワキ殿。相変わらずの酒好きのようで」

「いやぁ、それほどでもぉ」


 一切褒めたつもりのない冬牙の言葉に、この酔っ払いの男――野分ノワキは勝手に解釈して勝手に謙遜した。この目出度い男の顔に冬牙も含めて義両親も妻も、そして何故かその場に呼ばれていた見目麗しい青年さえも、呆れて物も言えなくなっていた。そして泥酔状態の野分を放っておいて自分に用意された席にどっかりと座った冬牙は、その横に座っていた不機嫌な妻の小言に付き合わされた。


「…お帰りなさいませ、旦那様。随分と、久方ぶりの御帰宅ですこと?」

「…あぁ、仕事が立て込んでいてな。息災か、小梅コウメ?」

「えぇ勿論。ですけど、毎晩毎晩帰らぬ旦那様を待って遅くまで起きておりますので、少し寝不足気味ではありますが」


 いつにも増して刺々しい言葉の羅列に言い返す言葉も見つからず、黙って後味の悪い酒を口に流し込み、なんとか話題を変えようと口火を切った。


「…そういえば、ヒイラギは息災か?」

「えぇ恐らく」

「何故そんな曖昧なんだ?」

「あの子供の面倒は、乳母と両親に任せておりますので。私はここ最近、顔も見ておりませぬ故」

「は?! 私は妻たるお前に任せたんだぞ!」

「知りませぬ。私の実の子でもない子供のことなど、別に興味はありませんわ」


 あまりに冷酷な小梅の言いように、将又絶句した。確かに柊は“梅枝ウメガエ”が勝手に産んだ子ではあるが、小梅にとっては正真正銘“甥”にあたる。そんな子供のことでさえ興味がないときっぱり言い切る小梅を見て、冬牙は改めてこの姉妹の仲の悪さを実感した。

 元々容姿に関しては小梅の方が幼い頃から端麗で、両親含めて周りの大人からは随分と可愛がられたという。そのせいで姉の梅枝を軽視しているた節があり、冬牙が梅枝よりも小梅を選んだことで更に拍車が掛かった。そんな見下していた相手がどこぞの誰かの子を自分より先に産んだことが、要は気に入らないのだと思われる。そしてその怒りや苛立ちが、この場にいない姉にぶつけられない為、息子に向かってしまっているのだった。

 このようなことがある故、冬牙は小梅を母親にすべきかどうか常々悩んでいた。


「…はぁ。その言動はまずい、改めろ。でなければ、お前に子を産ませることはできないと思え」

「それとこれとは関係ありませんわ! 私が自分の子供すら蔑ろにする女だと思ってますの?!」

「声が大きい。私はもし、子供が何人できたとしても優劣を付けるような母親では困る、と言っているんだ。柊だって、もし今後子供が出来なかった時、この家の跡継ぎになるんだぞ?」

「そんなの許しません。この家を継ぐのは、あの女が産んだ子ではなく、私が産んだ貴方様の子よ!」


 冬牙の例え話にも全力で否定を示し、小声で梅枝への恨み言を呟く小梅にもはや何を言っても無駄だ、と感じて深い溜め息を吐いてその場の会話は終了した。

 そんな二人の夫婦喧嘩を間近でオロオロしながら見守る義両親と、それに反して穏やかに見守る青年に、冬牙は漸く忘れかけていた青年の存在を思い出した。本来、この青年はここにいる人物ではなかった。


「ところで、何故ここにいるのか聞いてもいいか、藤内トウナイ?」

「はい、失礼しました。実は本日の出仕の際に野分殿にお誘いを受けまして、断るのも無礼かと思い御招きに預かりました次第に御座います」

「それは…すまない、迷惑をかけた」

「いいえ。私も野分殿と同じく新参者。学ぶこともあるかと思い至っただけでこざいます」


 隣で酔い潰れている野分とは打って変わり、物腰柔らかく礼儀正しい藤内の振る舞いは、いつ見ても冬牙に好印象を与えた。と同時に、これが一時いっとき宮中を騒がせた男の子孫か、と邪推も湧いた。そしてそれを同じように邪推し、更に小馬鹿にしたのは隣で酔い潰れた野分。


「…さすがは“藤”の一族。十代目烏師が惚れるのも頷けるというものだなぁ?」

「……これはこれは、野分殿。すっかりお休みになられたと思っておりましたが、まだ夢現ゆめうつつでしたか」

「おれの話はまだ終わってないからなぁ。にしても、ほんとにキレイな顔だよなぁ」


 羨ましいなぁ、と無神経な言葉を並べる野分に藤内だけでなく、冬牙も冷たい眼差しを向けて侮蔑するも、当の本人はどこ吹く風で酒を呷る。


「――で? 一体なんの話があるんですか、野分殿」

「んぁ? …あぁそうそう、聞いてくれよぉ。実はな、今どうしても女がいるんだよ」

「また何処ぞの娘に恋文を送られているのですか。いい加減にしないと、そろそろ奥方の雷が直撃しますよ?」

「今は“奥”の話はしてくれるな! 大体身重の女は気が立ってて、正直いえに帰っても居場所がないのだ」


 野分の言うことも一理あるが、それ以前に気が立っている原因は身重だからではなく、野分自身であることを冬牙は面倒がって敢えて口にはしなかった。だらだらと呂律の回りが悪い舌で、野分は尚も意中の女について語って聞かせてきた。


「――でな、その女が随分とかわった女でな。とっくに適齢期を迎えているというのに、まだ結婚していないんだ」

「ほぉ。それはよっぽど性格に難があるのでしょうね」

「いやいや、その逆だ! 彼女の人となりや教養については、はっきり言って申し分ない。その証拠に、もう若くないというのにおれ以外からの恋文が毎日絶えないそうだ!」

「…はぁ、そうですか」


 野分の片想い相手に心底興味などないが、その話が本当なら余程自分に自信があって男を選り好みしてる性悪女か、将又ただの変わり者の女か、どちらにしても冬牙は相手にしたくない分類タイプの女だった。「人生後にも先にも、自分を振り回す女は“梅枝ウメガエ”一人で十分だ」と一癖も二癖もある義妹の姿を思い浮かべながら、野分の話を話半分に肴をつまむ。


「で、一体何が言いたいんだ? 失恋の傷を慰めてほしいのか?」

「まだ失恋と決まったわけじゃあない!! 違うんだよ! そうじゃなくてさぁ」

「じゃあなんだ?」

「彼女が…、“蛍袋ホタルブクロ”が、殿下に取られそうなんだ!!」

「……は?」


 完全に失念していたとはまさにこの事。まさか野分の語った恋文の送り先が、政敵に等しい“桔梗キキョウ”の娘だったとは、一体誰が予想できただろうか。よりにもよって相手が悪すぎると、冬牙は頭を抱えた。


「…はぁ、よりにもよってか。面倒過ぎるにも程があるぞ、野分」

「…敬語が抜けておりますよ、冬牙殿」


 藤内トウナイに指摘されるがもはや建前そんなものを気にしている余裕すらなく、ずきずきと痛む頭を誤魔化すように手元に残った酒を大袈裟に煽り、酒気の回った頭は義兄への敬意の念を捨てさせた。


「っいますぐ! その女への未練を切れ! あの桔梗と親戚同士など真っ平御免こうむる!!」

「はぁ?! このおれの、一世一代の恋を、捨てろというのか! この外道!!」

「何が外道だ! その言葉そっくりそのまま返すぞ! 貴様こそ、一生都合の良い“種馬”として妻の尻に敷かれてろ!」

「あぁ!? じゃあ彼女がほんとに殿下の後宮に入ってもいいって言うのか!?」

「あぁそうとも! 厚顔無恥なあの忌々しい陽春に取られるくらいなら、桔梗と界雷カイライ殿にくれてやったほうがまだマシだ!」


「大体、あの桔梗の娘が、お前なんぞを態々選ぶわけないだろう!?」

「このっ屑!!」


 酔いの回った冬牙にはっきりとそう言われ、「そこまで言うことないだろ」と最後の言葉を僅かに残し、野分は完全に酔い潰れた。その様子を肴にしていた傍観者の藤内はオロオロするばかりで役に立たない義両親の代わりに邸の使用人たちを呼びつけて倒れた野分を運ばせた。


「…貴方生粋の“ザル”なんですから、同じように飲んでたらあぁなりますよ。狙ってましたね?」

「知らん。アイツが勝手に潰れただけだ」

「…しかし本当に桔梗の娘に先を越させて良いのですか?」

「……あぁ。陽春の娘を先に入内させるより幾分かマシだ。それに、後宮内の事柄についてはに見張らせている」

「例の義妹殿ですか」

「……っち」


 自分で話題に上げておきながら梅枝の話になった途端、機嫌の悪くなった冬牙は空になった杯を膳の上に戻すと、酔い覚ましに行ってくる、と一言告げて席を離れた。

 背後で制止する小梅の声が聞こえたが敢えて無視して久々の邸内を散策しながら、冬牙はとある場所を目指した。そこは先程の寝殿から西側の建物、家族の居住する場所であった。今は大人たちが全員宴会場に集結しているため、ここにいると思われる人物はたった一人だけ。その人物の顔を見にやって来た冬牙だったが、暗い廊下を小さなその影が覚束ない足取りで近づいてくるのに気づいて足を止めた。


「…誰だ?」

「――んん、あれ、ちちうえ?」


 暗がりの中から現れたのは寝ぼけ眼を擦りながらよたよたと歩く幼い“ヒイラギ”だった。既に寝入っていると思っていた柊の登場に冬牙は柄にも無く慌てた様子で駆け寄った。


「柊! どうしたんだこんなところで?」

「んー…、ばあやもじじさまたちもいないから、さがしにきたの」

「…そうか」


 まだ三歳の拙い喋りでなんとか説明する柊の言葉に耳を傾け、事情を知った冬牙は今にも寝落ちしそうな小さな身体を抱き上げて寝室まで運んだ。


「皆まだ起きているらしいからな。柊は気にせず眠りなさい」

「…いっしょはだめ?」

「あぁ、もう少し大きくなったらな」


 普段では考えられないほど優しい声色で少しぐずり気味の柊を説き伏せると、数歩で辿り着いた寝室の褥の上にゆっくりと下ろした。上からうちきを掛けてやろうと手に取った時、その袿に既視感を覚えた。


「…柊、この袿は?」

「…これはね、“うめがえ”おばさまの、なんだよ」

「どうしてこれを?」

「…よる、さびしいとき、これをかけてるとね、おばさまのやさしい手をおもいだして、ねれるようになるの。ばばさまがくれたの」


 だめだった? と不安げに聞いてくる柊に冬牙はそうじゃない、と端的に返し、頭を撫でながら眠りを誘った。すると素直な柊はあっという間に深い眠りの中に落ちていった。薄い腹が波打ち寝息が聞こえてきても、冬牙は撫でる手を止めなかった。その手つきには生涯他の誰にも向けることのない彼の“慈愛の念”が込められていた。

 そしてふと目の端に映った梅枝の袿を見て数年前の彼女との『約束』を思い出すのだった。



≪———少しでも私のことを想っているのなら、自分の息子くらい守れて当然よね? だって貴方は、貴方の父のようにはならないのでしょう?≫



「―――この先何があっても、柊だけは絶対に守り通すさ。この子の、必ず」

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