第肆拾弐話 陰陽国の光と影〈六〉



 ——それは遠い日の、宵の口。


 ——その日、私は初めて“彼女”を見た。



 北の執明領しつみょうりょうは真っ白な雪に覆われていたというのに、天淵山てんえんざんを抜けたその先の陰陽国は春の陽気に包まれていた。晴れやかで温かな陽気に包まれるその地に、一羽の白兎は舞い降りていた。“烏”の名を冠するその白兎は、一片の汚れのない白無垢を着て自分の、玄冬ゲントウの三男“樹雨キサメ”の隣に座っていた。

 同じように着飾った樹雨がちらり、と隣を盗み見た。白無垢から覗く色白の顔に引かれた紅の形は一切変わることなく、一粒の石榴のような真紅の瞳は真っ直ぐ正面を見たまま、樹雨を一瞥することはなかった。その凛とした姿に抱えきれないほどの重責が圧し掛かっていたことをその時の樹雨はまだ知らなかった。



「――初めに言っておく。私は其方に愛情を求めないし、私からの愛情も求めるな。これは夫婦の契りではない、それを心得ておくように。わかったか? 樹雨殿」


 婚儀の後の初夜だというのに、布団の上に向かい合った樹雨は目の前の女性——十六夜イザヨイからの第一声に開いた口が塞がらなかった。凡そこれから初夜だという雰囲気ではないこの状況下で、何の言葉も浮かばない樹雨に対して、十六夜は淡々と業務的なこれからのことを語った。


「いいですか? きっと貴方はお父上の命令で私に取り入るように言われてきたかもしれませんが、私にとって貴方はただの“子種”でしかない。無事、陰陽国の跡取りたる双子が生まれればそれまでの関係ですから。故に私に媚を売ろうとしても無駄ですからね」


 本日めでたく夫婦となった妻が夫にそう冷たく言い放つと、憤慨するか呆れるかすると思っていた樹雨は予想外にも笑みをこぼした。隣の部屋にいる寝ずの番の者に気づかれないように肩を震わせて笑いを押し殺す樹雨の姿に、先程まで険しい表情を浮かべていた十六夜は面食らう。


「な、何がおかしいの? 私は別におかしなことは言ってないわ」

「い、いや、すまない。ただ、君はまだ十八で初夜だし緊張しているとは思っていたが、まさかここまでとは…っ」

「…馬鹿にしてますの?」

「違う違う」


 そう否定しつつ笑いをやめない樹雨の姿に幼なげに頬を膨らませていると、笑いで溢れた涙を拭いながら樹雨は自分の寝床を整え始めて言った。


「まぁ君の言い分はわかった。勿論僕にも僕なりの言い分はあるが、それはまた明日にしよう」

「は?」

「今日はもう夜遅いから、また明日話し合いましょうね。それではおやすみなさい、十六夜殿」


 目を点にして惚ける十六夜に挨拶すると、樹雨はさっさと布団に潜り込み眠りについてしまった。一人褥の上に残された十六夜はそれまでの彼の言動を思い返し、ようやく自分が子供扱いされていることに気づき、逆に彼女の方が相手に対して憤慨したのだった。


「っ―――もうなんなのよ!」



 結局のところ、翌日になって聞かされた樹雨の言い分というのがまた、予想外だった。


「――要は君は重すぎる義務の為に、私と結婚したんだろう? でも私はその言い分に納得していない。だからお互いに納得いく答えが見つかったら、正式に夫婦になりましょう」


 爽やかな笑みと共に告げられたその言葉に年相応にムキになった十六夜は、その後二カ月は御所に帰らず、后土殿こうどでんに籠った。そんな彼女を叱咤し宥めたのは、叔母である“十五夜イサヨ”であり、厳しい叔母の「帰れ」の一言で仕方なく御所に帰った十六夜は、烏師の自室として使われてきた『紫藤殿しとうでん』で一人十六夜の帰りを待つ樹雨の姿を見て驚愕した。簀子の縁側で一人庭の藤棚を眺めながら花見酒を楽しむその姿から、自分より大人であることを思い知らされて理不尽な苛立ちを募らせる十六夜に、樹雨は振り返って柔らかく笑った。


「おかえりなさい」

「…ただいま」

「貴女もどうですか? もう飲める年でしょう」

「…少しなら」


 樹雨の差し出された杯を手にちらりと横目で男を盗み見る十六夜だったが、すぐにその視線に気づかれ振り向いた樹雨に微笑み返される。この場で気まずいのは十六夜一人だけのようで、なんだかそれが酷く癪だったため無理矢理にでも話題を振って余裕なフリを見せた。


「…一人で庭なんて眺めて、面白いの?」

「勿論、この庭の藤棚は見事なものです。好きなんですよ昔から、こうやって庭を眺めながら酒を飲むのが」

「そう…」

「はい。まぁ執明領あっちでは専ら、雪しかない白銀の世界ばかりでしたけどね」


 もう見飽きました、と笑う樹雨の表情からは故郷を懐かしむ哀愁が滲み出ていた。そんな彼の表情を物珍しそうに眺めながら、十六夜は見たことのない景色について興味津々に追及した。


「ゆき…? 雪ってどんななの?」

「見たことないんですか?」

「うん。烏兎の後継者は、玉座に就いたその時からこの国を出ることができなくなる。後継者じゃない皇子みこ皇女ひめみこなら、この国を出られるけれど」


 十六夜は注がれた酒にちびりちびりと口を付けながら、かつて幼い自分達を苦しめた兄や姉たちのことを思い出す。

 生まれてから十一年と数ヶ月、十六夜にとってこの宮中は敵地のど真ん中と言っても過言ではなかった。兄と二人生を受け、父や官吏たちには大いに喜ばれた生誕だったが、同じ父を持つ他の兄姉きょうだいたちにとっては最大の『嫉妬の的』でしかなかった。跡継ぎでありながら宮中で虐げられる日々にうんざりしていたが、泣き虫な兄の白夜ビャクヤを守らねばならない、という勝手な使命感で兄を小さな背中で必死に庇ってきた。その後、とある事件が発端となり後宮から離れた東宮御所に移った後の兄姉かれらのことはよく知らないが、皆一様に早世したという。国を出た者もいれば、後宮の中でその生を終えた者もいた。

 そんな彼等のことを十六夜は今となってはなんとも思わないが、ただ一つだけ、彼等は自らの意思でこの国を出て行けることに関しては羨ましく思っていた。


「…本当は自分の目で見に行きたかった。文字の上でしか見たことのない雪景色。ねぇ、もっと教えて」

「はい、喜んで」


 そう言って徐に樹雨の絡めた指を十六夜は何故か振りほどこうとはしなかった。その理由を、その時の十六夜には説明できなかった。


 そして辛抱強い樹雨に根負けするように、十六夜の心の壁は次第に崩れ去っていき、二年経つ頃には二人の間に生まれたとある“兆し”がついに形を成した。

 十六夜は樹雨との間に子供を身籠り、医者の見立てでは念願の双子であることがわかったのだ。出産の日までのその期間の御所内は異常なほど緊張感に包まれていたが、出産のその日、思いの外難産であったことから樹雨の寿命は幾分か縮まった。通例であれば后の出産は実家で行われるが、今回は異例の烏師の出産であるということで十六夜の産屋として御所の奥の御殿『旋花殿せんかでん』で行われた。紫藤殿より奥から響いてくる十六夜の呻き声にあたふたとする樹雨に、珍しく界雷カイライが声を掛けていたほど。そんな二人の耳に突然劈くように響いたのは、大きく元気な二人分の赤子の産声だった。顔を突き合わせる二人のもとに、慌てた揺籃が駆け付けて叫んだ。


「おめでとうございます! 朔夜サクヤ様、赫夜カグヤ様、新たな烏兎の誕生でございます!」


 お二人ともお元気です、と喜びの笑みを浮かべる揺籃にそう伝えられ、震える足で旋花殿に向かうと産後の処置に追われる女官たちを横目に、辿り着いたその先には敷かれた褥の上に座り、二人の小さな命を大事そうに抱えた十六夜の姿を捉えた樹雨の両目は安堵とこの光景のあまりの美しさに、自然と涙が流れた。


「…寝てなくて大丈夫ですか? 出産直後で疲れてるでしょう?」

「大丈夫よ。それより今は、少しでも長くこの子達を抱いていたいの」


 そう言って微笑む彼女の両目には生まれたばかりのふやふやとした赤子らの顔が大切な宝物のように映り、その瞳からはまだ芽生えたばかりの母性に満ちた慈愛が溢れていた。先程まで母から生まれ出でた歓喜と不安の産声を上げていた二人だったが、今はその優しい母の腕に抱かれてすやすやと眠りについている。その姿をまだ実感の湧かない樹雨がそっと覗き込み、ふやふやの頬を指先で撫でた。するとその父の存在に気づいたように小さな手が樹雨の指を掴むと、しっかりとした力で握り締めた。その小さいながらも懸命に握る力に、樹雨は我が子への愛おしさが胸の内から溢れた。指を握る薄らと黒髪の生えたその子——朔夜サクヤと、その傍らで眠る母親似の白髪の子——赫夜カグヤ、その二人の名前は十六夜と樹雨が数日間頭を悩ませて考えた大切な名前だった。


「…この子が、朔夜。こっちが、赫夜。どちらも可愛いな」

「…えぇ。赫夜の方も無事に、烏師わたしの力を受け継いでくれたようで」


 自分と同じ白髪をした赤子の額を優しく撫でる十六夜だったが、やがてその表情が徐々に曇り始めた。そしていつの間にかその場に到着していた揺籃と界雷は人払いをさせ、六人だけとなった空間で十六夜はとある事を告げた。


「…樹雨、聞いて欲しいの。実はこの子たちは、なの」

「…二人とも、男児?」

「えぇ。私と同じく烏師の力を持つ赫夜が男児だと皆に知れれば、この国の危機。故にこの場にいる全員に告げる。この事は一切の他言を禁ずる」

「…隠し通すつもりなのですか?」

「勿論よ、揺籃。例えこの子たちが死んだのちも、この事は歴史のどこにも残させない」


 そう告げた十六夜の決意に満ちた瞳に、その場にいる誰も反論などできるはずもなく、寧ろその意見に満場一致で頷いた。それがどれだけ難しいことかを理解した上で、樹雨もその生涯をかけて自分の子らを守ろうとその時決意した。その時、赤子らを抱く十六夜の腕が小刻みに震えていたことに、誰一人として気づかなかった。


 産後、十六夜の身体はみるみるうちに弱り半年経つ頃には、とこから出ることもできなくなっていた。そんな彼女を生来病弱な体質の樹雨が見舞いに行くのも、どうもおかしなものだ、と十六夜は青褪めた顔で笑って言った。それを笑って返せる余裕が、今の樹雨にはなかった。


「…冗談を言う暇があるのなら、少しは眠った方がいい。今日は殊の外、顔色が悪い」

「いいのよ。だって、せっかく貴方が来たのに、眠るなんて勿体ないわ」

「何言ってるんだ。話したければ明日でも…」

「…ふふ。無理よ。恐らく、わたしに、


 顔色の悪い笑みを浮かべる十六夜の弱々しくも残酷なその言葉に、樹雨の心は凍り付いた。今の十六夜の容態については、既に医者の方から嫌と言うほど聞かされていた。やはりその弱った見た目通り、十六夜の産後の容態は見た目以上に悪かった。その身体はもう永くない、とまで断言された。そう断言されたばかりの樹雨には、十六夜のこの言葉は鋭い刃になって傷を更に抉った。


「…そんなこと、言うな」

「……だめよ、いつも冷静な貴方が、そんな風に、弱気になるなんて」

「…君が死ぬなんて許さない。だってまだ、君はあの子達の成長を見ていない」


 十六夜は弱ってから一度も抱いていない二つの小さなぬくもりを思い出しながら、そのぬくもりを切望して布団の中から痩せ細った腕を引き出して樹雨に向かって伸ばされた。その手を樹雨は優しく両手を包み込んだ。


「…朔夜は赫夜より先に目が開いたんだ。あの子の瞳は私と同じく碧かった。君にも絶対見せたいんだ。赫夜も、最近私の存在を認識し始めたみたいで必死に手を伸ばしてくる。とても小さな手で、一生懸命に。それを、君にも、見せたいんだ。だから、そんな弱気なことを言うな、言うんじゃない…っ」

「き、きさめ…」

「君はこれからも、あの子達の成長を見守って生きるんだ。たとえここから出られなくても、たとえ目が見えなくなっても、たとえ耳が聞こえなくなっても、たとえ、話せなくなっても、まだ、あの子達の、私の傍にいてくれっ」


 懸命に十六夜の手を握り必死に縋る樹雨の姿に、年上であることを忘れて優しく微笑むと十六夜はもう片方の手で彼の頭を優しく撫でた。その視界の端に映った自分の一房の白髪を見た十六夜は、不意に昔話した雪の話を思い出した。そして見たことのない雪景色を思い浮かべながら呟いた。


「…きっと私は、この身体を抜け出したら、昔貴方が教えてくれた雪景色の中にいくのよ」

「え…」

「例えそれが、あの世と呼ばれる場所だったとしても、どこよりも寒くて寂しい場所だったとしても、私はそこで、貴方が来るのを待つわ」

「…っ」

「どんなに、時間が掛かってもかまわない、いいえむしろ、たくさん私を待たせて、私が待ち疲れたころ、必ず、必ず、私のもとに、帰ってきて…」



「――そこがどんなに寒くても、そこがどれだけ寂しいところでも、いつか貴方が迎えに来てくれるというのなら、私はいくらでも待てる。いくらでも待っていてあげる。だから、今は、ただ私を、見送って」


 それが、彼女の最期の言葉だった。それがこの世との別れを決意した彼女の言葉だった。それに対して本心では言いたいことは有り余っていたが、樹雨は最期に笑って一言返した。


「…わかった。大分待たせることになるだろうけど、先に、いっておいてくれ」

「……いってきます」


「………いってらっしゃいっ」


 そう言った最期の彼女の笑顔は、未だ消えることなく樹雨の心と記憶に焼き付いている。それが消えるのは、次に彼女の待つ約束の笑顔が見れた時だろう。それまでその笑顔を何度となく夢に見ることになるだろう。




 そして今も、自分を呼ぶ彼女の声が聞こえてくる。


「――うえ、ち――うえ、父上!」


 肩を揺すられながら名前を呼ばれた樹雨が重い瞼を開くと、揺らいだ視界に見慣れた懐かしい白髪が揺れているのを見つけて無意識に微笑んでその名前を呼んだ。


「……十六夜?」


「――もう、まだ寝惚けてるの? 僕だよ、赫夜!」

「…すまないね。少し寝惚けていたようだ」


 ぼんやりと浮かんだその容貌かおはかつて亡くした妻のものではなく、その面影を色濃く受け継いだ彼女の忘れ形見の片割れ———赫夜カグヤだった。

 赫夜がここ、『水芹殿すいきんでん』を訪れるのは珍しいことではなく、いつもの見舞いにやって来た我が子に気怠い身体を起こそうとするとやんわりと止められた。


「父上、無理しなくていいから。聞いたよ、昨日も痛みで眠れなかったって?」

「心配し過ぎだ。まったく、女官たちはどうも大袈裟に報告しがちらしい」

「父上、は大袈裟なの?」


 そう赫夜に指摘されて樹雨はビクリ、と肩を跳ねさせた。医師には口止めをしていたが、女官たちへの配慮を怠ったことを後悔した。実はここ最近のこと、樹雨は用意された食事にあまり手をつけていない。その理由というのが、何を口にしても味がわからないからであった。味気の無い食事がこれほどまで苦痛だったと思い知らされた樹雨は、以来最低限の量しか口にせず、それをずっと赫夜たちに隠していた。しかし、どうやらその情報は口止めをしておかなかった女官たちによって、赫夜の耳に届いてしまったようだ。観念した樹雨は、大袈裟に肩を竦めてみせる。


「…大したことじゃない。隠してたのだって、お前たち二人に余計な心配をさせたくなかった私の親心だと思ってくれ」

「隠されてた方が心配することだってあるの。でも安心して、朔夜には知らせてない。朔夜は今、ちょっと忙しいからね」

「それはお前も一緒だろ? 翌月には“隠君子の節会”が控えているではないか。準備はいいのか?」

「その辺は界雷たちに任せるよ。この前のも片付いたし」

「…?」

「あ、やば」


 赫夜が話の流れでうっかり隠していた朔夜の毒殺未遂のことを口にしてしまったのを樹雨は聞き逃さなかった。なんの事だ、と詰め寄る樹雨の圧に負け、赫夜はここ一ヶ月に起きた朔夜の毒殺未遂から始まり、大納言から下の公卿たちの失脚事件のあらましを掻い摘んで説明した。事の詳細を聞き終えた樹雨はそれを黙っていた赫夜を責めるわけでもなく、ただ心配するわけでもなく、優しく微笑んで項垂れる赫夜の頭を撫でた。てっきり怒られると踏んでいた赫夜は咄嗟の事に唖然としたまま、されるが儘に頭を撫でられ続けた。


「よく頑張ったな、赫夜。朔夜のことを守ってくれたんだろ?」

「…うん。まぁ、大してこと、できなかったけど。結局、最後は朔夜においしいところは持っていかれちゃった」

「それでも、お前が家族のために陰で頑張ったことを私は知っているよ。これからも不甲斐ない私の代わりに、朔夜を頼むよ」

「任せてよ。だから父上は、早くその不甲斐ない身体を治してね」

「…そうだね」


 この身体が当に限界を迎えていることを樹雨本人がよく理解してたが、この場ではそれを欠片さえも零さず、強く頷きながら赫夜が満足するまでその頭を優しく撫で続けた。その姿に亡き妻の面影を乗せながら。



 ❖ ❖



 その後、赫夜から他愛のない近況報告を受け、揺籃ヨウランが迎えに来て赫夜が渋々帰って行った後、一人広い御殿の残された樹雨は赫夜の去った後の妻戸つまどの扉の前にまた別の気配を感じると、その方向に向かって優しく問いかけた。


「……そんなところに立っていないで、入ってきたらいかがですか?」

「…久し振りだな、樹雨」


 そこで入るのを渋っていたのは、左大臣であり樹雨の異母兄である男“冬牙トウガ”であった。普段の高慢な態度とは打って変わり、気まずそうな雰囲気で後頭部を掻く冬牙に樹雨は柔らかく笑うと、自分の傍らに手招いた。それに素直に従った冬牙が腰掛けるとその訪問の理由を問いかけた。


「珍しいですね。貴方が態々私のもとを訪れるなんて、まさかとは思いますがお見舞いですか?」

「…別に。通りがかったついでにお前の近況を確認しに来ただけだ。些事だがお前の状況も親父殿の手紙にしたためねばならないからな」

「兄上も存外マメですね。あの野心ばかりの親父殿に態々手紙を書くなんて。だというのに」


 樹雨は冬牙のことをそれこそ幼い頃からよく知っていた。同じ城内に住んでいただけの理由ではなく、二人は他の兄弟たちと違って一番近しい血縁者だった。この話に必要不可欠な存在というのが、二人の母親。今はそのどちらもこの世にはいないが、その面影を互いの存在から感じ取った樹雨は、過去一度だけ見惚れた冬牙の母親のことを思い起こしながら語った。


「…懐かしいですね。共に同じ城内で三カ月違いで生まれた兄上と初めて顔を合わせた時、玄武一族の当主の正室として毅然とした態度の貴方の御母上“帚木ハハキギ”殿の姿、今でも憶えています」

「…俺の方こそ、いつもお前の手を引く“真木柱マキバシラ”殿の姿を羨ましく思ったことを忘れはしないさ」


 冬牙の母“箒木ハハキギ”と、樹雨の母“真木柱マキバシラ”の二人は、同じ男の妻である以前に、血の繋がった姉妹であった。

 それは二人が生まれる五年ほど前、玄武一族の当主に就いたばかりの玄冬は、自身の正室の座に相応しい女性として、父の代からの忠臣であった“賢木サカキ”の二人の娘を指名した。姉の箒木と妹の真木柱、共に大変美しい女性で巷では評判の娘達だった。気の強い箒木を正室の器に相応しいと踏んだ賢木は、姉の方を玄冬の正室として嫁がせた。そこまでは良かったのだが、問題はその後。箒木との間には中々子供ができず、鬱屈とする玄冬はついに側室を一人迎え、その女との間に長男“幽玄ユウゲン”を授かった。元々気の強い帚木がそのことに憤慨し、その執念は玄冬さえも萎縮させて彼女もそれから三年後無事に懐妊した。だが、そんな執念深い帚木に付き合わされた玄冬は彼女に愛想を尽かし、別の女を側室に迎えて寵愛し始めた。その女というのが、帚木の妹の真木柱だった。まだどことの縁談も決まっていなかったお淑やかな彼女に目を付けた玄冬は側室に迎え、その数か月後にまさかの懐妊の報せ。それに激怒した帚木は一度、実の妹である真木柱のお腹の子を殺そうと毒を盛ったことがあった。そのことをその後無事に産まれた数カ月違いの兄弟二人は知っていた。


「…結局、跡継ぎは長男に決まってしまって母上はみるみるおかしくなっていって、最期には俺以外誰にも看取られることなく、盲目的なまでに愛情を注いだ男の名前を呻きながら死んでいった。今にして思えば、憐れで醜い女だ」


 自身の母親のことを語っているとは到底思えないように吐き捨てた冬牙の言葉に、樹雨はかつて優しい母から教えられた本心を語った。


「…昔母様が言っていた。樹雨わたしを殺そうとしたことは一生許さないが、妹として姉のことをただ心配していることを忘れないでほしい、と」


 それは亡き母から聞かされた言葉である。城内のやしきでお互いに見かけようとも、一切の接触を絶った二人だったが、そんな関係に落ち着いてしまったことを妹の方は一生涯後悔していた。その母から最期に託された遺言を思い返しながら、樹雨ははっきりとした視界で冬牙を見据えて言った。


「…兄上、私も胎児の私と母様にしたことを一生許しはしませんが、貴方がこの国の為、そして私達夫婦の双子を守ってくれるというのであれば、手でも知恵でもなんでもお貸しします。だからどうか、朔夜と赫夜のことを第一にお考えくださいますよう。私はずっと、兄上を見張っておりますから」

「…恐ろしい異母弟だ。いいだろう、どのみちあのお二人にはいてもらわねば困る。父上に一矢報いる為には」

「それは…」

「…俺は、黙って泣き寝入りするような性分ではなくてな。父上に似て」


 母の亡骸を見てから数十年、ずっと腹の底に溜め続けていた黒々とした感情を一瞬でも露わにした冬牙は、不敵な笑みを浮かべていた。

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